小説 | ナノ



ベガの夜盲


※大人




七月、文月。この季節になると思い出すのは遠い昔の、向日葵のように鮮やかな黄色とお日様の匂い。





ーーここはどこだろう。重い瞼をゆっくりと持ち上げると、ぼんやりとしたままの視界のなかで、ひび割れた地面から雑草が生えている様子がなんとなく分かった。だんだん馴染んできた視界の向こうで、ぺしゃんこになった段ボールや棄てられた合板がそこかしこに転がっている。空き地のようだった。いったいどこの空き地なのかは検討もつかない。靴は片方しか履いていないし、口の中は血の味が滲んでいる。そっと触れてみたら、唇の端が切れていた。それに左頬もさっきからずきずきと痛んでいる。



頭を働かせようとした瞬間に、ここに来るまでの経緯が一気にフラッシュバックして、途端に身体がガタガタと震え始めた。猛烈な吐き気と恐怖が一度に襲ってくるのに耐えながら、自分の身体を強く抱き締める。思わず周りを見渡したけれど、人の影は見当たらなかった。ほっと胸を撫で下ろす。あの人に見つかったら、今度こそ終わりだ。



ぼんやりしたまま見つめていたひび割れたアスファルトに、ぽつり、と小さな黒いドットが落ちて、同時にいくつも擦りむいた肌を小さな滴が濡らした。雨だ。あっという間に土砂降りになるのをただ眺めていた。まちが夕闇に包まれていって、遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。いつまでもずっとここに座ったまま居るわけにもいかないと思ってのろのろ立ち上がる。身体が重くてあちこち痛い。かろうじて携帯電話だけはポケットに入ったままだったけれど、画面が割れて充電ももう僅かしかなかった。財布もなければカードもない。なによりここがどこなのか分からないし、もう帰る場所はない。








「ーーあの、大丈夫ですか」



引っ切り無しに降り注ぐ雨がぴたりと止んで、思わず顔を上げたら視界の端に透明のビニールが映った。掛けられた声に後ろを振り向くと、スーツ姿の男の人が立っていた。ビニールの傘をこちらに傾けていて、肩が僅かに濡れている。


「あ、怪しいもんやないんで!その。めっちゃ濡れとるし......大丈夫かなって」


男の人はちらりと私の足元を見た。こんな土砂降りの中、靴が片方なくてぼろぼろの姿のまま空き地にぽつりとひとりで立っている女、どう見たって普通ではない。普通だったら見て見ぬ振りをするか、気味悪がって通報するか、もしくはーー。黙ったままいる私を見て、男の人は困ったように眉を下げている。


「うちすぐそこやから、よかったら手当てしていかへん?」
「......え?」
「いや、なんや色々傷だらけやし......」
「でも、」
「あっ!ちゃう!変な意味はないから!ほんまに!誓って!」


まるで首がとれてしまうのではないかと思うほどに勢いよくかぶりを振る様子を見ていたら、そのあまりの必死さに、一番有力に感じていた最後の選択肢がだんだんと消えていくのを感じた。実際私は傷だらけの泥だらけで、ここで断ったところでどうせ行くところもないし、どんなことになったとしてもきっと今より最悪な事態になることはないだろう。


「...じゃあ、雨が止むまで。ありがとう。よろしくお願いします」


そう言って頭を下げれば、ほっとしたように笑った彼は私の方に傘を差し出した。片方靴のない私に、おぶろうかと尋ねてくれたけれど、彼の上質そうなスーツを汚してしまうのは申し訳なくて丁重にお断りした。彼の家はそこから5分くらいのところにあって、立派なマンションの中層階だった。カードキーをかざしてオートロックを通り抜けたところで、彼の肩が片方だけびしょ濡れになっているのを見て、ここに来るまでの間ずっと、ビニール傘をこちら側に多く傾けてくれていたことを知る。






「入って。なんもないけど」



通された部屋は一人暮らしと思えないほど広々としていて、部屋の真ん中に鎮座している革のソファーに腰掛けるよう促された。彼はスーツのジャケットを脱ぐと、ちょっと待っててな、と言い残して奥の部屋へと消えてしまった。一人取り残された部屋を見渡してみると、そこかしこに洋服の小さな山ができていたけれど、人が生活している気配はあまり感じなかった。そんなことをぼんやり思っていたら、ドタバタと廊下のほうで足音がして、急いで戻ってきた様子の彼の手には手触りの良さそうなアイボリーのタオルが握られていた。


「すぐ沸かすから、とりあえず風呂入って」
「え、そんな、」
「びしょ濡れのままやったら風邪ひくやろ。あとこれ、着替えな。男モンで悪いけど」
「......ありがとう」


そう言って私を見つめる目がとても真剣だったので、黙って頷いてタオルと着替えを受け取った。ほっとしたように彼はまた笑う。ーーさっきも思ったけれど、私、この笑顔を知っているような気がする。一瞬そんなことを思ったけれど、独特の軽快な機械音が響いて「あ、風呂沸いたわ。こっち」彼が着いてくるよう促したので、きっと気のせいだろうと思って忘れることにした。清潔なバスルームのバスタブに浸かったら、あちらこちらの傷にじんわりと染みてうっかり涙が出るかと思うほどに痛い。見ず知らずの男の人の厚意に甘えて、こんな風にお風呂に浸かっている今の状況が不思議だ。今までの私なら絶対にありえない。でも、そんなこともどうでもよくなってしまうくらい、今の私は疲れ切っていた。大きく深呼吸をする。ーーこれからどうしようか。真っ白な天井を見つめながら思った。









「あがった?ほんならこっち来て座って」


お風呂ありがとうございました、私が口を開く前に彼が立ち上がって手招きをした。大人しく従ってソファーに腰を下ろしたら、救急箱から消毒液を取り出した彼が「とりあえず傷見せて」言いながら私の脚に触れる。慣れた手つきで処置をしていく様子を見つめていた。たまに傷口が染みて思わず顔を歪める私に対して「すまん。痛かった?」本当に心配しているかのような口ぶりで言う。


「大丈夫です。......慣れてるんですね」
「ああ、一応俺、医者のたまごやから」


お医者さん。どうしてこの人は今日会ったばかりの私にこんなに優しくしてくれるのだろうとずっと思っていたけれど、なんとなくそれで合点がいったような気がした。でもきっとそれは職業柄の理由だけじゃなく、おそらく彼は性格上そういう人間なんだろうと思う。私の脚に目を向け俯いたままの黒髪に埋もれたつむじが規則正しくて、じっと見つめていたら何故だか妙な安心感を覚えてしまった。さっき渡されたタオルと同じにおいの、清潔感のあるシトラスがふわりと鼻をくすぐる。


「雨、もうすぐ止みそうやな」
「そうですね。本当にありがとうございました」
「...こんなこと聞いたらあれやけど、行くとこないんとちゃう?」
「......大丈夫です。なんとかしますから」


今さら否定しても無駄な気がして、そう言って立ち上がりながら綺麗に畳まれた自分の服に手を伸ばしたら、それを制するように彼が私の手首を掴んだので、思わずびくりと身体が跳ねてしまった。「あ、すまん、」私の反応を見た彼はすぐにその手を離して、ばつが悪そうに自分の髪の毛をくしゃりとかき回した。ーーあれ、こんな場面、前にもどこかで見たような気がする。そう思ったのも束の間で、次の瞬間に彼の発した一言によって、そんなことも頭の片隅に追いやられてしまった。


「行くとこないんやったら、しばらくここ居ってもええで」
「えっ?」
「俺、仕事でそもそもあんま家おらへんし。あ、家賃とかも別に気にせんでええから、行くとこ決まるまで宿にしてもらってええよ」
「......どうして?」
「え?」
「なんで見ず知らずの私に、そこまでしてくれるの?」


少しだけ声が震えた。それは純粋な疑問で、思わず奥歯を噛み締めたら左頬がずきりと痛む。こびりついた嫌な記憶がフラッシュバックしては消えていく。確かにもう私には戻るところはないし、行く宛だってない。だけど、こんなに親切にしてくれたとはいえ、この人を本当に信じてもいいのか。これが本当に何の下心もないただの優しさからくる厚意なのか、仮にそうだとしてもそれに甘え切ってしまっていいのか、分からない。ぎゅっと握りしめた拳が情けなく震えている。しばらくじっと黙って私の目を見つめていた彼が口を開いた。






「やって、ほっとけへんやろ」






ーーその瞬間、さっきまでふいに感じていた既視感が一気に確信に変わったのを感じた。それは遠い昔の記憶だけれど、大切な思い出のひとつとしてそっと閉まっておいたものだ。そんな、まさか。こんなところで。私の動揺に気がつかない様子の彼は、立ち上がってごそごそとさっき脱いだスーツの上着の内ポケットを探って、名刺を取り出しこちらに差し出した。



「そういえば自己紹介してなかったよな。俺、忍足謙也いいます。名刺見てもらったらわかるけど、そこの病院で研修医やっとる。勤務は平日土日関係なくて夜勤もあるし、あんまここには帰って来おへん。結婚してへんし彼女もおらんからそのへんは心配しなくてええし、もちろん変な気起こすつもりもないから。ほんまに気兼ねなく使ってくれてええ」



名刺を受け取った手がわずかに震えるのをちゃんと隠せていただろうか。忍足謙也、の文字が焦げ付くように目に焼き付いている。目の前の彼が私を安心させるために紡いでいる言葉も右から左へと抜けていく。脳裏によぎるのは、七月の向日葵と、太陽。













中学の頃はまだ、七月は太陽が燦々と照りつける日が多かった。その日私は合同体育で使ったバレーボールのネットやポールの後片付けを命じられ、授業の後に体育館の倉庫で整頓をしていた。みんなが運んでくるポールを受け取って移動させていると、ふいに後ろに影が落ちて、振り返るとふわりと揺れる明るい金髪が目に入った。




「ひとりじゃ大変やろ。手伝うわ」




一度も話したことのない男の子だった。確か、二組の忍足くん。向日葵みたいに派手な金髪と、あのテニス部に所属しているから名前だけは知っている。急に話しかけられたことに動揺して、一瞬言葉を飲み込んでしまった。忍足くんは私の返事を待つことなく、そのまま体育館倉庫に足を踏み入れて私が運ぼうとしていたポールを指差した。


「こっち?運べばええの?」
「だ、大丈夫です。ひとりでも、なんとかなるから」


もう生徒たちはほとんど着替えに向かってしまったし、ひとりで片付けられないような量ではない。それに、単純に手を煩わせるのが申し訳なかった。忍足くんはじっと私の目を見つめてから、何か言おうと口を開きかける。


「おーい謙也!はよせな先行ってまうで!」


体育館の方から彼の友人らしい声が聞こえて、その声に驚いた私は思わずポールから手を離してしまいそうになった。あ、このままじゃ足の上に落ちる。そう思った瞬間、がしりと私の手首が掴まれ、同時にポールも宙を浮き、身構えていた衝撃はなかった。ふわりとお日様のような香りが鼻を掠めて、忍足くんが受け止めてくれたことに気がつくのに少し時間がかかった。「おー!先行っててええわ!」友人に応える忍足くんと、掴まれたままの手首を交互に見つめていたら「あ、すまん、」すぐにその手は離され、ばつの悪そうな顔をした彼がその手でくしゃりと金髪をかき混ぜた。




「いや、ほっとけへんやろ」




そう言って少し笑ったのがまるで太陽みたいだと思った。さっさと残りのポールの整頓に取り掛かってしまった彼と話をしたのは、後にも先にもそれっきりだったけれど、私はその日からその金髪を無意識に目で追うようになっていて、廊下や集会ですれ違ったらそわそわして、いつだってその姿を探していた。もう一度彼と話すことができたらと思ったけれど、たとえ話したところで共通の話題も思い浮かばないし、実際接触するような機会もなくて、卒業してしまってからはきっともう会うことはないだろうと思っていた。










たぶん彼、忍足くんは、私のことなんて覚えていないと思う。こんなところで、こんな形でまた会うなんて思わなかった。ぎゅっと腕を握り込むように抱きしめたら、さっき手当てしてもらったばかりの傷が痛んだ。せっかくならもっとましな形で再会したかったけれど、今はそんなことを思っている場合でもない。それに、誰かに殴られたことなんて一目瞭然なのに、身体中の痣や傷について何も聞いてこないのは、あの頃と相変わらぬ忍足くんの優しさだろう。もう誰も信じたくないと思っていたけれど、この人なら。忍足くんなら信用しても大丈夫だと思える。意を決して口を開いた。


「......なまえです」
「え?」
「私の名前。お言葉に甘えて、少しの間お世話になります。住むところが決まったらすぐに出て行きますから。それまで......よろしくお願いします。忍足さん」


そう言って頭を下げたら、どこかほっとしたように笑った彼が「謙也でええよ。よろしく、なまえ」と言ったから、もしあの時、素直に彼の申し出を受け入れていたら、こんな風に彼を名前で呼ぶことができたのだろうかと遠い昔に通り過ぎてしまった過去のことを思うのは、きっと昔も今も変わらずこの人があまりにも優しすぎるせいだろう。あの日からずっと、遠くから眺めていた鮮やかな黄色も、すれ違うたびに香っていたやわらかなお日様の匂いも、もうそこにはない。でも、私の目を見つめてもう一度微笑んだ彼の笑顔が、あの時と変わらず太陽みたいだったから、思わず声をあげて泣いてしまいたくなった。今になってようやく気がついた。あの時私は、彼に恋をしていたんだと。そしてそれが、優しくてあたたかくて、幼くて、とても幸せな恋だったことに。










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