小説 | ナノ
そしてゆめがほどけても
※「かなしいまもの」続き
※少しだけR15
名字なまえは、どこにでもいる至って普通の女の子だ。初めて見かけたのは入学式で、斜め前に座っていたのが名字だった。特別容姿が目立つわけでも、抜群にスタイルがいいというわけでもない。ただ、きめが細かそうでさらさらの髪がきれいで、気になってずっと視線を送っていたら、なんとその後教室で隣の席だった。大人しそうな見た目をしている名字だったが、話してみたらノリもいいし明るくて、あっという間に意気投合して仲良くなった。それからずっと昼休みに他愛もない話をしたり、休日に出掛けたりして、俗にいう気の置けない友人ってこういうことかと思ったりもした。
名字が俺に対して、仲の良い友人以上の感情を持っていないことは分かっていた。でも俺にとってはそれが心地よくて、何かにつけてすぐに付き合うだの別れるだの言ってくる、甘い香水の匂いがする女の子たちよりも、名字と下らない世間話をしているほうがずっと居心地がよかった。そんなことを思っていたせいか、彼女ができても結局すぐに別れてしまうことがしばらく続いた。そんなある日、いつものように二人で出掛けたケーキバイキングで何度目か分からないお代わりをして、クリームをほっぺたにくっつけながら無邪気に笑っている名字を見て、あ、これ全部名字のせいじゃね。と思ったのだった。
俺が自分の気持ちに気づいても、名字の俺に対する態度が変わるはずもなく、むしろ意識し始めてからはあまりに無防備すぎる名字の振る舞いに、こいつ本当に俺のこと男として見てねえんだなと何度思い知らされたことか数えきれない。いつもどの瞬間もまざまざと見せつけられるように友人という分厚い壁を感じては、次第にただ虚しさだけが募るようになっていった。それを名字にバレないように振る舞うことで精一杯だった。
そんな思いを抱きながらやきもきする日々が長い間続いていたなか、あの日の事件は起きた。二人っきりの放課後の教室で、名字を勢い余ってロッカーに押し込んでしまったのは、決して初めからそういうつもりだったわけじゃない。でも、いつもよりずっと近くで、いつも眺めていた髪から香る名字の匂いとか、華奢なくせに俺の手のひらに吸い付くように柔らかな肌とか、戸惑うように俺を見上げるその表情を見ていたら、どうにも止まらなくなってしまって、気がついたら名字の身体を欲望のままにまさぐって首筋を舐めあげたりして、あっという間に昂ってしまった自分の欲を擦り付けていた。
これでちょっとは俺のことを男として見ればいい、という浅はかな願望があったことは否定しないけれど、7割くらいはただの本能の押しつけだった。一方的すぎる行為の最中に無理やりこちらを振り向かせた時の名字の瞳に涙が滲んでいることに気がついたら、一瞬で浅ましい欲が引っ込んで我に返ったけれどもう既に遅くて。これ以上はヤバいと思ってすでに限界までこみ上げている熱を必死で押し留め、捨て台詞かのように、次は突っ込まれる覚悟しとけだなんて言って、真っ赤な顔をしたまま涙目で俺を睨み付ける名字を見下ろしたら、その扇情的な表情にまたごくりと喉が鳴った。少しは思い知ったかいい気味だと思っていたのが、だんだん冷静になったらあっという間にしにたくなって、家に帰ってから部屋に籠って少しだけ泣いた。
その悪夢みたいな日が金曜日だったおかげで、次の日もその次の日も学校が休みで名字に会えず、いつもなら1日数回は鳴るはずのメッセージの通知も一切鳴らず、今さら俺から何て送ればいいかなんてこれっぽっちも思い浮かばなくてついに連絡もできなかった。そして休み明けの月曜日、どんな顔をすればいいのだろうと頭を悩ませながら登校した俺の目に飛び込んできたのは、背中まであった長い髪を肩の上までばっさりと切った名字だった。似合うだの新鮮だのなんだのとわいわいと騒ぎ立てる友人たちと談笑しながら席に向かうのを、何も言えないままただ凝視していた俺としっかり目が合ったのに、何もなかったかのようにすぐに逸らされてしまって、ガツン、と頭を硬いもので殴られたような衝撃が走った。
そこで再び、自分がしでかしてしまったことの重大さに改めて気づかされる。このままじゃもう一生口を利いてもらえないかもしれない。許してもらえるかどうかはさておき、とりあえず何がなんでも謝らなければと、放課後教室を出た名字の後を追いかけた。「...名字、」周りに人気がないのを確認してから呼び掛けたら、名字はぴたりと立ち止まったけれど、振り向きはしなかった。焦るように言葉を繋げている自分がひどく滑稽に思えた。
「......ごめん。謝って済む話じゃねーって分かってるけど、」
「......」
「それ、俺のせい?」
「それって?」
「髪」
ずっと伸ばしてたじゃん、そう言ったらゆっくり振り向いた名字が、一瞬だけ視線を上げて目を瞬かせたのちに、またすぐに伏せてしまったから地味に傷つく。あんなことをしでかした俺に傷つく資格なんか一ミリたりともないと分かっているけれど、俺のせい?なんて白々しすぎるし、やっぱり自惚れすぎかもしれない。しばらく黙っていた名字が、顔を上げてゆっくり口を開いた。
「別に、丸井のせいじゃない。けど」
「けど?」
「そういえばみんな髪が長かったなと思って」
「みんなって」
「丸井が付き合ってた女の子たち」
「......そうだっけ」
「代わりにされるの嫌だし」
その理屈でいくと多分恐らく、いや間違いなく、代わりになっていたのは俺の名ばかりの歴代彼女たちのほうだし、名字の代わりになる女なんかどこを探したっているはずがないのに、そんな思いを伝えることもできないままただ黙ってうつむいていた。しばらく続いた沈黙の後、名字がなにかを諦めたように短く息を吐いてから、取り繕うかのように少しだけ明るい口調で言った。
「今回だけね」
「は?」
「この前のこと、なかったことにするから」
「なかったことって」
「分かってるでしょ、丸井。何だかんだ言って、私が丸井と友達やめられないって」
私、丸井とこれからも仲良くしたいよ。だから、お互いきれいさっぱり忘れよ。笑わなくたっていいのに、名字は困ったように眉を下げて口元を少し緩ませる。例え作り笑いでも名字が笑顔を見せたことに安堵するべきなのに、それ以上に黒い靄のような感情がぐるぐると胸の中を締め付けるみたいにめぐっていた。名字にとってはそりゃあ出来れば今すぐ忘れ去りたい最低最悪な出来事だろう。俺だって後悔と罪悪感でどうにかなりそうだった。でもいざ、何もなかったことにされると思ったら。さっきまでは名字を失う覚悟だってしていたはずなのに、今まで通りの友達のままなんてもう嫌だとずっと思っていた自分がいることに気がつく。いくら名字が忘れても、俺は忘れることなんてできるはずがない。だってあんな形でも、ようやくあんなに近くで名字を見つめて、その身体に触れて、この腕のなかに抱きしめられたのに。
「まあ、丸井とばっか遊んでないで私もそろそろ彼氏作るからさ!丸井もちゃんと彼女作りなよ」
「はあ?本気で言ってんの?」
「本気。もう決めた」
「...やめたほうがいいと思うけど」
「なんで?」
「学校のロッカーで素股された女なんか、誰も相手にしねーって」
「それは丸井が勝手に...!」
「うん、全部俺が悪い」
「えっ?」
「だから、今からすることも全部俺のせいにしていいから」
そう言って、何か言おうとした名字の腕をあの日みたいに引っ張って、そのまま近くの空き教室に引きずり込んだ。がしゃん、と鍵を落としたら、呆気にとられたままだった名字がようやく我に返って逃げ出そうとするけれど、俺が強く腕を掴んでいるせいでそれは叶わなかった。絶対に逃がしてなんかやらないという意思を伝えるかのように、バランスを崩しかけた名字の身体の上に馬乗りになって両手首を床に強く押しつけたら、頼りない瞳をした名字が今にも泣きそうな顔で俺を見上げた。
「言ったよな、俺。次は突っ込まれる覚悟しろって」
「丸井、...んう」
そうしてあの時みたいに乱暴に唇を塞ぐ。名字の腕に力が入り足もばたつかせたけれど、名字が例え全身の力を振り絞って抵抗したとしても、振りほどけるはずがないと分かっている。なんでこうなっちまうのかな、と頭の片隅でどこか冷静な俺が呟くけれど、名字の唇はやっぱり甘くて、潤んだまま俺を見つめる瞳にまた欲情して、そんなこともすぐに忘れてしまった。
名字、俺、お前のこと世界で一番可愛いって、結構本気で思ってる。お前以外の女なんか、正直もう眼中にないよ。いつでも艶々と輝いていて風に揺れてる髪も、華奢で白い腕も、スカートからちらちら見えるしなやかな脚も。ずっと前から、とっくに友達なんか飛び越して、俺のものにしたくて見つめてた。いつも俺と話すときに向ける満面の笑顔も、からかうとムキになったようにむくれて怒る顔も、あの時も、今も、他の誰にも見せないような羞恥に染まった色っぽくて真っ赤な顔も。全部知っているのは俺だけがいいし、俺以外の誰にも見せたくない。どこをどう見たって、こんなのただのいびつな独占欲だ。こんな綺麗な言葉で片付けてしまっていいとは思わないけど、これを恋と言わずになんと言えばいい?
「なあ、もう、一生許してくれなくてもいいから」
「は、」
「一回だけでいいから。このまま俺の好きにさせて」
名字の答えを聞かないうちに、首筋から胸元にかけて顔を埋めて白い肌を舐め上げた。細い両手首を片手で束ねあげ、もう片方の手を太ももに這わせる。当たり前だけど、名字の口から短く飛び出るのは制止や拒絶の言葉ばかりで、昨日ひそかに流した涙が一瞬ぶり返しそうになる。泣きたいのか怒りたいのか、もうよくわからなかった。ようやく触れられたあの時からもずっと、むしろもっと触れたくなった名字を組み敷いているのに、今は胸の奥が張り裂けそうなほどずきずき痛んでいる。
「ねえ丸井」
「なんだよ」
「丸井って、私のこと」
こんな状況なのに、前にも聞いたようなセリフを繰り返す名字に胸が鋤くような感覚がする。あのときは確か、そんなに私のこと嫌い?って聞かれたんだっけ。嫌いな女にわざわざこんなことするわけねーじゃん。それすら分かっていない、純粋なんだか鈍感なんだか分からない名字に何度も何度も絶望を突きつけられて。俺だってお前のこと、いっそ嫌いになれたらよかったかも。なんて本当は一度もそんなこと、思ったことねーけどさ。
「だから、別に嫌いだからとかじゃ」
「ちがう。丸井って、私のこと.........好きなの?」
途切れる荒い息づかいの合間に、恐る恐る言葉を紡いで、ようやく顔をこちらに向けた名字が俺の様子を伺っている。そのほっぺたは真っ赤に染まっていて、ただの男友達に向けるにしてはあまりに色気を孕みすぎていた。これを言ってしまったら今度こそ本当に俺は、名字の口からはっきりと関係を断ち切られる言葉を聞くかもしれない、と、今まで散々俺を苦しめてきた恐怖心の根底がぐらぐらと揺さぶられている。もう、呼吸をするだけで精一杯だった。だけどいっそのこと、どちらに転んでもいいから、言ってしまったら楽になれるかもしれないとも思う。しばらくの沈黙の後、ゆっくりと重たい口を開く。俺の答えを待つ名字の瞳に確かに籠る熱が、気のせいじゃなければいいと、祈るような気持ちで。
「......好きだよ」
「どうにかなりそうなくらい、お前のこと好き」
あーあ。言っちまった。口にした瞬間に鼻の奥のほうがつんと辛くなる。目を見開いた名字が黙ったままいるので、俺もそれ以上なんにも言えなかった。なんか言えよ、といつものように軽口を叩きたかったけれど、その答えを聞くのはやっぱり怖くて、止めていた手を、誤魔化すように再び名字の肌の上に滑らせる。目を僅かに見開いたたまだった名字が、俺の手の動きにはっとしたように我に返り、しばらくまた身体を捻っていたけれど、浅い呼吸の合間に息継ぎするように口を開いた。
「......バカ丸井」
「はっ?」
「言うの遅すぎる、それに...順番だってめちゃくちゃだし」
「だってお前、俺のこと友達としか思ってねえじゃん」
「そ、れは、...あっ!」
そのまま太ももを滑らせて下着の上から奥を触ったら、名字の口から甘い嬌声が飛び出し、指にはしっとりと濡れている感覚が伝わって、やっぱりこいつ実は俺のこと好きなんじゃねーのかな、なんてまた都合がいい最低なことを思ってしまった。好きだったらいいのに。そう思いながら下着越しに指を動かしたら、びくりと身体を震わせた名字が、丸井、と動きを制するかのようにまた短く俺を呼んだ。
「なんだよ、」
「.........あのね、私ほんとは、こないだからずっと、丸井のこと頭から離れなかった」
「え?」
「あんなことがあったからなんて、はしたなすぎて嘘だって思いたかった、けど」
わかんない、でも。私もしかして丸井のこと好きなのかな、って思った。友達なのに、わからなくなって。あの時触られたの、嫌じゃなかったから。だけど、丸井は誰でもいいんだって思ったら悲しかった。途切れ途切れの名字の言葉を頭の中で繋げるのに時間がかかった。顔を真っ赤にしながら、ぎゅっと目を瞑っている名字の言葉に嘘があるとは思えないのに、何を言われたのか一瞬わからなくて、思わず動きを止める。両手首を拘束していた俺の手から力が抜けて、逃げ出そうと思えばできるのに、名字はじっと動かず俺の言葉を待っていた。まるでずっと止まっていた心臓がようやく動き出したみたいに、鼓動が俺の体全体で激しく波打ち始める。何か言おうと口を開いて、でも何も言葉にならなくて。何度かそんな攻防を繰り返した後にようやく喉の奥から絞り出た声は、なんとも情けなく掠れていた。
「............誰でもいいわけねーじゃん」
「...うん」
「名字」
「はい、」
「もう何でもいいからさ」
「え?」
「性欲でもただの気のせいでも何でもいいから、頼むから、俺に一ミリでもいいから...そーいう意味で興味持って」
だから、もう、ただの友達だなんて言うなよ。言葉が詰まって声が思わず上ずった。黙って俺を見上げたままいる名字のまっすぐな視線が気まずくて、そのまま名字の上から降りて腕を引っ張り身体を起こし、向かい合うように座っても、名字はただ俺のほうをじっと見つめたままだった。
「...丸井」
「なんだよ」
「泣いてるの?」
「泣いてねーよ」
何で俺が泣くんだよ。泣きたいのは確実に名字のほうだと思う。そんなことを思いながら鼻をすすったら、名字がふふ、と笑う声が聞こえたから思わず顔を上げる。ちょっとだけぼやけた視界の向こうで、さっきみたいに強張った笑顔じゃなく、俺と他愛もない話をするときのようないつもの笑顔で名字が笑っていた。
「わかった。これから丸井のこと、ちゃんと男の人として見る」
「......お前、本当に真面目だよな」
「丸井がそうしろって言ったんでしょ」
「まあそうだけど...ぜってー俺以外に言うなよ、そーゆーの」
「言わないよ」
どこまでも真っ直ぐな名字の言葉に、またも情けない台詞しか口にできなくて、少しだけ俯く。もしかしてこれ、都合のいい夢とかじゃねーよな。さっきの名字の言葉をどうにかして確かめたくて視線をうろうろとさ迷わせる。床に置かれたままの名字の手が視界に入って、恐る恐る自分の手をのばして重ねてみたら、名字は振りほどくこともせず少しだけ指を動かして俺の指に絡めたから、さっきまで痛くて仕方がなかった胸の奥のほうがじんわりと一気に熱くなった。
「名字」
「なに?」
「......キスしていい?」
今さらそれ言う?と言って今度は声を上げて笑った名字はやっぱりめちゃくちゃ可愛くて、俺絶対一生こいつにかなわねーんだろうな、と思って重ねた指に力を込めた。優しく触れた名字の唇は今までで一番甘くて熱く感じて、それがめちゃくちゃ嬉しくて「ごめん」角度を変えて何度も重ねるキスの合間に呟いた短すぎる謝罪の言葉に、名字がただ頷くから、今度こそうっかり涙が零れてしまいそうになるのを必死で堪えていた。