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高嶺の花さん




その日は雨が降っていた。湿気がまとわりつく電車の入り口付近に立ちながら、窓から外を眺めていた。朝の通勤時刻ともあってなかなか混み合っている車内にふと視線を戻すと、見慣れた制服が目に留まる。四天宝寺生も多く使う路線なので、特に違和感も感じることなく視線を戻そうとしたけれど、その横顔に見覚えがあったからつい、じっと見つめてしまった。


「高嶺の花」ーーこれは彼女につけられた渾名だ。隣の隣のクラスにめっちゃ美人な転校生がきたというのは、去年四天宝寺の校内新聞をいちばん賑わせた話題でもある。今年のミス四天宝寺の最有力候補と噂されているだけあって、確かに彼女は整った容姿をしているように思えた。現に今も、電車の揺れに合わせてゆらゆらと動くきれいな髪の毛や、瞬きするたびに震える長いまつげが無意識に俺の視線を奪っている。ただ、彼女がその異名をほしいままにしているのは、彼女の容姿よりもむしろその性格のせいだった。


高嶺の花さん、もとい名字なまえについて、ミーハーなクラスメイトたちがまことしやかに囁き続けている噂によれば、彼女はまさにその異名にふさわしく、他人、特に男への対応が異常に冷たいらしい。冷たいというよりも愛想がなく素っ気無いという。彼女が転校してきてからというもの、親睦を深めようと我先に声をかけにいった男子生徒は後を絶たなかったらしいが、もれなく全員すげなくあしらわれ撃沈したようだった。逆にそんな姿が同性には好評らしく、女友達がいないというわけではなさそうだったし、彼女も友達に対してはそこまで冷たい対応をしているわけではないように見えた。そしていつの間にか、たとえ業務的な連絡であっても彼女に話しかける男はめっきり減っていたし、恋人にしたいという憧れは抱きつつも実際に告白しようなどという勇気のある猛者はいなくなっていったようだった。


俺はといえば、とりわけ彼女との接点もないので言葉を交わしたことは一度もなく、廊下でたまにすれ違うときに、噂に聞くだけあってほんまに美人さんやなぁと思ったりとか、合同体育の時にクラスメイトがちらちらと視線を送っているのを傍目に見ている程度だった。だから彼女についてはほとんど噂からしか情報を得たことがない。だからこんな風に、彼女のことをじっと見つめるのは初めてだった。彼女は俺に気付いていない。俺は彼女のことを知っているけれど、彼女は俺のことを知らないだろう。仮に見つめていることに気づかれたとしても、四天宝寺に似た学ランの学校なんてごまんとあるから、同じ四天宝寺生とさえ気づかれないかもしれないな、と思う。






そうしてまた窓の外を見たり、電車内の吊り広告を眺めたりして、しばらく経つとまた徐々に電車の中が混雑してきた。じんわりとした湿気に少しずつ肌心地が悪くなって、思わず小さく息を吐く。降車まであと少しの辛抱だ。きっと彼女はこんな湿気のなかでも、変わらず涼しい顔をしているのだろうと思ってほぼ無意識的に視線を再び向けてみれば、その横顔がわずかに歪んでいるような違和感を感じて思わず視線を止めた。


初めは、俺と同じくこのじめじめとした空気にうんざりしているからだろうと思った。でも、そのわずかな歪みはだんだん苦痛を伴うようなそれに変わっていって、もともと血色が少ないように思える肌の白さを持つ彼女の顔が、そこからさらに血の気が引いたように白くなっていくのを確かに見た。絶対に湿気からくる不快感じゃない。そう思ったのと同時に彼女がわずかに顔を動かして、うろうろと頼りなく視線を彷徨わせる。そして俺と視線が合った瞬間、その表情が泣きそうに歪んだ。



気づけば俺は、ごった返している車内で人をかき分け彼女の近くまで移動し、そのまま二の腕を掴んで引き寄せていた。同時に、彼女の後ろに不自然なほどにぴったり寄り添うようにして立っている中年のサラリーマンの腕を素早く掴み上げる。バランスを失った彼女がよろけながらも俺を見上げた瞬間、相変わらずその顔面は蒼白で、やっぱり泣きそうな顔をしていたから見間違いではなかったと確信する。「な、何すんねん!」声を張り上げたサラリーマンに対して「何すんねんはこっちのセリフや。出るとこ出てもええんやで」睨みながら言いつつ腕をぐっと掴んだら観念したように顔を青くしながら押し黙ったので、停車すると同時にそのまま駅員室まで連行した。俺の一歩後ろに下がってついてきた彼女は、電車を降りてから駅員室に向かうまでずっと顔面蒼白のまま黙り込んで何も言わず、その後はぽつりぽつりと駅員の質問に小さく答えていた。


もう二度とやりません、というテンプレートのような言葉と、ほぼ土下座にも近い謝罪を見届けてからあとは駅員さんに対応を任せ、ようやく俺たちは駅員室から解放された。二人きりになってわずかに沈黙が落ちる。彼女のほうを振り返ったら、いまだに白いままの顔色と、じっと自分を見つめる少しだけ怯えたままの瞳に一瞬言葉をかけるのを躊躇ってしまった。


「えっと...朝から災難やったな」
「いえ。あの、ありがとうございました」
「いや、もっと早よ助けられなくてごめんな。ほな、」
「学校には私から連絡します。遅刻させてしまってすみませんでした」


彼女のためにも、なるべく当たり障りのない会話をしてすぐに立ち去ろうと思ったのに、思いがけない言葉に思わず足を止めて振り向いてしまった。そんな俺の様子に気づかないまま、カバンを覗き携帯を探す腕がやっぱり白くて。取り出した携帯がするりとその手を抜けてアスファルトの上に落ちた。あわてて拾おうとする手がいまだに小さく震えている。俺はしゃがみこんで携帯を拾い、彼女に差し出した。頼りなく揺れている瞳が再び俺を捕らえる。


「なんで分かったん?俺が四天宝寺生って」
「なんで、って...白石くんですよね。3年2組の」
「え」
「すみません、間違ってましたか?」
「いや、あってるけど...」
「よかった。それじゃあ、連絡しておきますから」


いまだに表情も声も硬いままだった彼女が、勢いよく立ち上がったと思ったら「失礼します」そのまま丁寧に頭を下げてすぐに踵を返し、改札に向かって歩いていくのを、ぽかんとしたまま見つめるしかできなかった。彼女が俺のことを、まさか名前まで知っているとは思わなかった。そして、あんな目にあったばかりだというのにいつものようにまっすぐ伸びた背中と、思いの外律儀な姿が噂と違って意外だった。そんなことをぼんやりと思いながら立ち上がって改札のほうに目線を向けたら、ちょうど足を止めた彼女がこちらを振り返ったところだった。



「あの、白石くん」
「え?」
「助けてくれて嬉しかったです。...本当にありがとう」


そう言ってもう一度頭を下げて、ほんの少しだけ口元を緩めたその表情は、初めて見る彼女の笑顔だった。きっとこの駅の改札を出たら、学校の校門をくぐったら、またいつものように他人になって、これ以上彼女と距離が近づくことはないだろう。それでも、やっぱり笑った顔も可愛えんやなとか、さっきみたいに口の片隅を上げるような控えめな微笑みじゃなく、心から笑ったらどんな笑顔になるんだろうとか。そしてその笑顔を横顔じゃなく正面から見つめてみたいとか。そんなことを考えていたら、さっきから心臓がいつもより少しだけ早く動いていることに気がついてしまってちょっとだけ焦る。改札を抜けたら雨はもうすでに上がっていて、少し先を歩く名字さんの上に、雲の隙間から漏れる雨上がりの光がきらきらと降り注ぐのを、目を細めながら見つめていた。








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