小説 | ナノ
かなしいまもの
※R15くらい
丸井ブン太という人は、まるでアイドルのような魅力を持つ男であった。可愛らしいルックスに明るい性格、面倒見がよくてノリもいいから男女問わず友達も多い。加えて強豪校であるうちのテニス部のレギュラーの座を手にするほど努力家だし、もちろん運動神経も良い。そんな男がモテないはずがなくて、入学してからこのかた丸井の色恋沙汰についての噂は腐る程耳にしてきたし、告白されている姿も彼女と歩いているところも何度も見た。でもあいにく、丸井のことをただの友人としか思っていない私には、彼の色恋沙汰に関して毛ほどの興味もなかったのだ。
丸井とは、入学したときに隣の席だったのがきっかけで、初日から意気投合して仲良くなった。彼の性格上、そして私も特に人見知りというわけでもないので、それから数ヶ月して席替えをしても私たちはずっと仲が良いままだった。休みの日にスイーツバイキングに出かけることも何回もあったし、二年生に進級した時のクラス替えでは別々のクラスになったけれど、廊下で会えば会話をしたし、たまに一緒に昼ご飯も食べた。丸井はそのころ部活で忙しそうだったので、一緒に過ごす頻度こそ減ったものの、休日には一年生のころのように遊びに出かけたりもした。
そうして三年生になってから、再び丸井と同じクラスになった。私の姿を見つけるなり「お。今年は同じクラスだなー」と言って笑う丸井に、なんだか入学当初に戻ったみたいだと感じて嬉しくなった。また一年生のころみたいに、クラスメイトとして学校生活を送れることが単純に嬉しかった。一年の時からたびたび耳にしていた丸井の恋愛についての噂は三年生になった今でも相変わらずで、新しい彼女ができただのこっぴどく振られて別れただの、信憑性があるのかないのかわからないものが絶えず漂っていたけれど、それでも私がそれを特に気にかけることはなかった。私と一緒にいるとき丸井は彼女の話題を出すことはなかったし、私もあえて尋ねることもしなかった。私たちはただの仲の良い友達で、その距離感が心地よかったのだ。だからきっと、丸井もそう思っているだろうと思って疑わなかった。
朝から分厚い雲が空を覆っていたその日のことを、私はずっと忘れないだろうと思う。日直だった私と丸井は、担任に放課後の科学室に呼び出された。今日到着した器具の整頓を行ってほしいらしい。これから職員会議があると言って簡単な説明だけを残し、担任は足早に去っていってしまった。残された私たちは顔を見合わせて、丸井はあからさまに嫌そうな顔をしてみせた。
「まじかよー、めちゃくちゃ量あんじゃん」
「丸井、今日部活は?」
「今日は自主練。遅れるって言っといた」
「そっか。私も早く帰りたいからちゃちゃっと終わらせよ」
「なに、何か用事でもあんの?」
「推しのドラマの再放送」
「なんだよ。相変わらず色気ねーの」
「うるさいな、ほっといてよ」
いつもみたいに他愛もない会話を繰り広げながら、机に並べられたビーカーやら試験管やらを順番に棚に収納していく。どこどこのパフェが美味しかったとか、どこどこのラーメンが話題になっているとか、大体食べ物の話が多かったけど、こうして丸井と話しているのは本当に楽しくて、つまらない作業もちっとも苦じゃないな、なんてのんきに思っていたのだった。
「...あ、ヤベ」
「えっ?」
急に短く途切れた丸井の声に私が振り返ると、同時にがちゃんと硬い音がして、視線を向ければ丸井の足元で試験官が見るも無惨に粉々に砕け散っていた。一気に顔が青ざめていく。手にしていた新しいビーカーを机に置いて、丸井のところに駆け寄って足元を覗き込んだ。
「ちょっ、何やってんの。大丈夫?」
「やっべー、手が滑った」
「後で先生に自首するしかないね」
「すぐ片付けたらバレねーだろ、一本くらい」
「バレるバレないの問題じゃないでしょ」
嗜めるようにそう言ったら丸井が黙り込んでしまったので、私は掃除用具の入ったロッカーを開けてホウキと塵取りをごそごそと漁った。その間にもずっと背中に妙な視線を感じていて、振り返ってみるとやはり丸井がじっとこちらを見つめていた。
「え、なに?」
「いや。やっぱ相変わらず真面目だよなー名字って」
「丸井が不真面目なだけじゃないの?」
「バレなきゃ平気なことなんか、沢山あんのに」
丸井の軽口に笑いながらいつものように相槌を打っていたのに、不意に丸井の声が低くなったような気がして、同時に一瞬だけ空気が冷たくなったように感じた。なにそれ、何か怒られそうな隠し事でもしてるの?と軽くあしらうつもりだった言葉を、なんとなく言わない方がいいような気がして、そのまま飲み込んでしまった。丸井もそのまま黙り込み何も言わず、しばらく続いた奇妙で気まずい沈黙を破ったのは、廊下から聞こえてくる足音だった。足音がどんどん近づいてくるのが分かって、思わず丸井の顔を見上げたら、そのまま勢いよく腕を引かれて、声を上げる暇もなくそのまま視界が暗転した。
「おーい、名字、丸井。職員会議が延びそうだからキリのいいところで、......って、 あれ。いないのか?」
先生の声に返事をしようとする私の口を慌てたように手で塞いで、丸井は「しーっ」と囁いた。状況は全く理解できないけれど、たぶんおそらくきっといま私は丸井に掃除用具の隣にあった、少し大きめの空きロッカーに一緒に押し込められている、のだろうと思う。
一体どうしてこんなことになっているのか?さっぱりわからないまま私は、ただ目の前にある丸井の顔をただ見上げることしかできずにいた。私は横向きになったまま、押さえ込まれるように丸井に抱きかかえられている。後ろから丸井の腕がおなかに回っていて、がっちりと口元を塞がれているこの手が離れさえすれば、呼吸がくっついてしまいそうな位置に丸井の顔がある。しばらくしてから扉の閉まる音と、足音が遠ざかっていくのを遠くのほうに聞きながら、いまだに塞がれたままの口元が苦しくて手足をばたつかせたら「あ、ワリ」ちっとも悪びれない様子で言った丸井が、ようやく私の口から手を離した。
「な、なにすんの!?ていうか、なんで隠れてんの!?」
「いや、なんか反射的に」
「死ぬかと思った!」
「悪かったって」
口元から手を離したとはいっても、いまだに身体はくっついたままで、相変わらず丸井に抱きかかえられているような体勢になっている。......いや、これはまずいんじゃないだろうか。色々と。いくらただの友達とはいえ、人気のない教室で密着なんて、なんだか健全じゃなさすぎるような気がする。そう思って慌てて丸井の拘束から抜け出すように身体をよじり、ロッカーの扉を腕で強く押した、はずだったのに。
「......開かない」
「え?」
いくら押しても扉はびくともせず、見かねた丸井が私の代わりに何度扉を押してみても一向に開く様子がない。閉じ込められた?そんなまさか。さっきの数倍顔が青ざめていくのを感じる。まさか朝までこのままとかじゃないよね。そんなの冗談じゃない。どうにかしてこの状況から脱出しなければ。そんな私の思いとは裏腹に、やはり何度試そうとも扉は全く開く気配を見せなかった。
「まじかよ」
「えー......どうしよう」
「担任が戻ってきたらでかい声出せば、気づいてもらえんだろ」
「こんなところで一体何してるんだって話になるじゃん!?ああ、本当に最悪...」
「んなこと言ってる場合じゃねーだろい!」
「誰のせいだと思ってんの!」
丸井はぐっと押し黙って、...ごめん。と小さく呟いた。まあ確かにこれは丸井が悪い。100%確実に丸井のせいだ。でも何度謝られても状況が変わるわけじゃないし、私がいくら怒ったところで時間が巻き戻るわけでもない。すべてを諦めて私は深くため息をついた。
「あーあ、再放送始まっちゃう」
「お前さー、この状況で本当に呑気なやつだな」
「だってどうしようもできないじゃん」
「そうじゃなくて。仮にも男と密室空間で密着してるんだっつー話」
「男っていうか丸井だけどね」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味だけど?」
「なんだよそれ。他の男だったらお前でもドキドキしたりすんの?」
「お前でも、って失礼すぎる!まあ、どうだろ。するんじゃないの?わかんないけど」
「ふーん。例えば?」
「例えばって...うーん、仁王くんみたいな人とか?」
私はこのとき、またいつもの他愛もない会話を繰り返していると思っていて、ちょうど頭に思い浮かんだ女の子をきゅんとさせそうな色気の持ち主が仁王くんだったから何気なくその名前を口にしただけだった。つまりこの会話のどこにも、私にとっての深い意味なんて一ミリたりともなかったのだ。それなのに、また押し黙ってしまった丸井が、さっき一瞬覗かせた冷たい空気を再び纏ったような気がしたから、顔を上げて彼の様子を伺おうとした。
「丸井?」
「残念だったな、仁王じゃなくて」
「は、」
「好きでもねー男にこんなことされても、なーんも感じねーもんな、名字は」
いい気味。と言って丸井がいきなり私の耳に息を吹きかける。びくりと肩が揺れたのは、別に何かを感じただとか、その相手が丸井だからというわけじゃない。ただ単純に驚いただけだ。それなのに、「あ、耳弱ぇの?」丸井の声がどこか嬉しそうだなんてきっと私の気のせいに決まっている。だって私たちはただの友達なんだから。
「ちょっと!やめてよ」
「なんで?いいじゃん別に」
「いやいや、悪ノリしすぎだから!」
「悪ノリじゃねーよ」
今ならきっとまだ、悪い冗談で笑って済ませることができると私は思っていた。でも、丸井の思いの外低い声に言葉も思考も遮られてしまいそうになる。そのまま丸井が私の首元に顔を埋めて、首筋をべろりと舐め上げた。変な声が飛び出そうになるのを必死で押さえる私を横目で見ては喉の奥のほうで小さく笑って、また何度か首筋に舌を這わせた。おなかに回されていた手が少しずつ上に移動して、片方の手はスカートを這って太ももに滑らせてくるのを、羞恥心で何も考えられなくなりそうな思考を必死で保ちながら、抵抗しようと身体を捻り続ける。そのはずみに丸井の腰にまるでお尻を擦り付けるようになってしまって、そこに確かに硬く主張する存在を感じてしまって、今度こそ頭が真っ白になりそうだった。それでも丸井は、私の身体を抱き締めながら好き勝手にまさぐり続けるのをやめない。
「......ねえ丸井、」
「ん、なに?」
「なんでこんなことするの?」
「なんでって」
「そんなに私のこと嫌い?」
ぴたりと一瞬丸井の動きが止まって、ようやく正気に戻ってくれたと思いかけたのもつかの間、丸井の腕にわずかに力が入って、まるでやっぱり逃がさないと言われているみたいだった。私にぴったり密着したままの丸井の身体は思ったよりもずっとがっちりしていて、そりゃあ毎日あんなにテニスで身体を動かしてご飯を食べていたらそうなるに決まっているのだけど、そんなことに今さらこの状況で気がついてしまって、少しだけどきりと心臓が浮いたのを感じた。
「......嫌いっつーか、」
丸井は言葉を濁したっきりそのまま口をつぐんでしまった。別に嫌いじゃないけど好きでもないわけね。まあわかってたけど。つまりこれはただの生理的な反応からくるものだ。私はそれなりにちゃんと、丸井のこと友達として好きだったのに。めったにいない、気の置けない男友達だと思ってたのに。そう思ってたのは私だけだったの?こんなにあっけなく簡単に崩れてしまうなんて思いもしなかった。一番仲の良かったころを思い出して、もうあの頃には戻れないだろうと悟る。明日からどんな顔をしたらいいのかわからない。そう思ったらじわりと自然に涙がにじんできた。
「名字は?」
「え?」
「おまえこそ、俺のこと」
......やっぱなんでもない。そう言った丸井の言葉の続きを聞き出そうとするよりも早く、また丸井の手が私の胸やおなかや太ももや、まだ誰にも触れられたことのないようなところにばかり遠慮なく這い回るから、また頭の中が熱くなって、そんなことはすぐに頭から消えてしまった。胸を下から押し上げるように揉まれて、あっという間に下着をずらして先端を掠めるように触れてくる。気を緩めたら、変な声が出てしまいそう。必死で声を押し殺している様子を見て「声我慢すんなよ」ふと口元だけで笑った丸井が言う。
「つーかさ、こういう時に他の男の名前出すなよな」
「はあ、っ?なにそれ、」
「だから。こっちに集中しろっつってんの」
おかしい。だって丸井、私のこと好きでも何でもないくせに、その発言はまるで嫉妬みたいに聞こえる。そんなことをぼんやり思っていたら、さっきまで下着に強く押し当てられていた丸井の硬くなったものが、なんの前触れもなくいきなりぬるりと太もものあたりに触れた。丸井は私のお尻をひっつかんでから、絞り出すように上げた抗議の声なんてまるで無視して何度も何度も内腿に挟むようにして硬いそれを擦り付ける。ああこれ、素股ってやつだ。なんて、経験のない私でも分かってしまってさらに顔が熱くなった。じわじわと奥の方が徐々に潤ってくるのが嫌でも分かってしまう。男友達と放課後にロッカーで、なんてどこのエロ漫画だとツッコミを入れたくもなるけれど、一向に性に抗うことのできないすっかりただの女になってしまった自分の身体が心底恨めしかった。
「あっ、ねえ...も、やめて、本当に、」
「そういえば、名字って」
「っ、え?」
「いま、付き合ってるヤツいんの?」
本当に最低だ。ここでもし私がはいいますと答えたらどうするつもりなんだろう。いや、今更どうもしないような気もするけど。答えを促すように丸井がまた私の耳元で「なあ、聞いてる?」囁くように言うから背筋がぞくぞく粟立って、喉の奥のほうから甘くて情けない声が漏れてしまった。彼氏の一人くらい余裕でいます、だからもうそろそろやめて下さい、と答えてやるつもりだったのにその刺激に耐えることができなくて「いっ...いない、けど、」なんとも馬鹿正直に答えてしまった。
「ふーん」
ほらやっぱり、丸井はそのまま律動を止めない。ふーんじゃないよと思ったけれど、その声がどこか満足そうだったのは、私に彼氏がいないのを確認することで、厄介ごとにはならないと思ったのだろう。こんなことになるのならさっさと彼氏の一人や二人作っておけばよかった。思いっきり強面で筋肉ムキムキの、丸井なんか一瞬で一捻りしてしまうような屈強な彼氏を作っておけば、今ごろこんなところでこんな目に合うこともなかっただろうに。
「また他の男のこと考えてんの」
「いっ、いや、そんなこと、...っあう、」
「ほんと、むかつくな、」
丸井がぽつりと呟いた言葉には思いっきり不機嫌さが滲み出ていた。むかついてるのは私の方なのに、なんで丸井がむかつくんだろうと思った瞬間、さっきまで触れるか触れないかだったそれが思いっきり下着に擦り付けられて、大きく上ずった声が出てしまった。慌てて口を抑えようとするけれど、それを遮るように丸井が無理やり私の肩を掴んで首だけこちらを振り向かせる。私の目にうっすら涙が張っていることに気がついたのか、一瞬だけ顔を強張らせたけれど、次の瞬間にはそれを見なかったことにするかのように唇に噛み付いてきた。思いっきり噛みつかれたのと角度が悪かったせいで、がつりと私の歯が丸井の唇に勢いよくぶつかって、少し顔を離した丸井の唇にはわずかに血が滲んでいた。ぺろり、とそれを舐めとる姿があまりにも扇情的で、思わずごくりと喉が鳴る。
みんな、丸井ブン太はアイドルなんかじゃない。可愛い顔してとんでもなく獰猛なオオカミだ。私は今まで丸井の何を見てきたんだろう。でも、こんなひどいことをされても、結局私は丸井を嫌いになることなんてできない。だって大事な友達だから。こんなことをされても、二人で笑い合っていたあのころのことを忘れられない私がいる。きっと丸井もそれを分かってやっているんだと思う。私の肩を掴んだ丸井の手のひらに込められた力が少しだけ強くなったような気がした。
「いい加減わかっただろ」
「は?わかったって、何が 」
「俺も男だって」
そんなこと、言われなくたって分かってる。分かってる、はずなのに。私を捉える瞳があまりにも真剣だから、思わず言葉を飲み込んでしまった。そんな私を見てまた少しだけ満足そうにした丸井が、ゆっくりと唇を近づけてきたから、反射的に思わずぎゅっと目を瞑った。
「次はちゃんと突っ込まれる覚悟しとけよ」
いままでのことが嘘みたいに、そっと触れるだけの優しすぎるキスだった。そう思ったのも一瞬だけで、そのまま唇を強く齧ってべろりと舐めあげた丸井がようやく私の身体を離したその瞬間、さっきあれだけびくともしなかったロッカーの扉がガタンと大きく音を立てて開く。脚に力が入らなくてそのままその場にへたりと座り込んだ私を見下ろしながら、丸井は意地悪な顔をして笑っていた。突っ込まれる覚悟って何だ。次の機会なんか絶対に与えない、と思って睨みつけたけれど、きっとそんなのも全部無駄だと頭の片隅で思ってしまったことが、いまだに体の疼きが止まらないことが。今まで見たことのない丸井の獲物を捕らえるような瞳が。ほんの少しだけ苦しそうで、どこか悲しそうなその笑みに心臓を揺らしている自分が。何よりも一番腹立たしかった。