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水底を夢む





最近、彼女のことを考えるとグシャグシャになる。

 

とはいってもまあ、今に始まったことじゃないし、グシャグシャになるっていうのはもちろんただの比喩だ。実際に俺の身体がどうこうなるとか、心が蝕まれてゆくとかそういうわけでは決してない。そして、今までの人生において指折り数えられるほどに俺を苦しめた、あの病気を越えるような感覚だというわけでもなければ、その後決勝戦で一年生に負けたときの感覚ともまったく比べようもないようなものだ。



むしろ、それらの体験のせいである程度、特に精神面において他の人間よりダメージを受けにくいという自負がある。それなのに、たった一人の。たった一人の女の子が目の前に現れるだけで、一気に心の奥がまるで握りつぶされたみたいに苦しくなる。ゆっくりと気道を絞められていくみたいに。いつからだったか、いつも気づけば彼女の姿を追っていた。思わず目をそらしたくなるほど苦しいくせに。まるで矛盾している感情に心が拒否反応を起こしてまた、複雑なかたちに小さく折れ曲がるのを繰り返し持て余すこの有り様は一体なんだ。



「名字さん、まだ残ってたの?」
「うん。でももう少しで終わるから」
「実行委員長、大変だね」
「そんなことないよ。幸村くんこそ、まだ部活忙しいのに、色々手伝ってもらっちゃってごめんね」
「俺はむしろ今まで何も手伝えなかったから。いまからでも俺にできることがあれば何でも言って」
「ありがとう」



俺を突き動かすものは、いつだってテニスだと思っていた。テニスしかないと思っていた。そう信じていたかったのかもしれない。だってテニスは自分との戦いであり、どれだけ長い道のりだとしても、自分の弱さを克服した先にいつか必ず光が見えるものだって俺は思っているから。でも、この感情は。決して俺一人が、いくら努力したところでどうこうできるようなものじゃないと分かっているからこそ。



「演劇はどうしても、また幸村くんにお願いしたかったんだ」
「それはありがたいけど、名字さん、そのために色々走り回ったって聞いたよ」
「そんなに大したことはしてないよ」



ほらこうしてまた、彼女が照れたように笑うたびに俺の心は簡単に握りつぶされる。普段の彼女は誰が見ても真面目でしっかりものの、絵に描いたような優等生なのに、俺と話すときにはたまにこんな風に無防備な笑顔になる。でもきみは、こんな風に俺が思っているなんて、これっぽっちも気づいていないんだろうね。なんとかしてこの子が欲しいって、どうにか自分のものにしてしまいたいって心の底でずっと願っているのに。この願望を貫き通すための手を、柔らかそうなその肌や艶めいた髪の毛に、触れられる距離にいるはずなのに、どうしても伸ばすことができずにいる。



「名字さん」
「うん?」
「あの人は来るの?文化祭に」
「......うん、来てくれるって」
「そうなんだ」
「だから実行委員長頑張ってる、なんて、ちょっと不純すぎるよね」
「そんなことないと思うよ。名字さんが頑張ってることに変わりはないから」
「ありがとう。ねえ、幸村くん」
「なんだい?」
「いまの話、二人だけの秘密にしてね」



名字さん、好きだよ。そんな風にほんのり赤く染めたほっぺたを緩ませて、俺じゃない他の誰かを想う姿も全部。時々、いっそ君のことを嫌いになれたらどんなに楽だろうかと思うこともあるけれど、そんなのはもう無理なんだ。だからこうして今日も、誰よりも近くで君を見つめながら、どうしようもないほどに丸まってしまった心を解放する方法を、いつまでも探せないふりをしている。







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