小説 | ナノ
きみのかたちに欠けてしまう恋
※「満ちない夢のまま」続き
「名字、ほんまどんくさいなあ!そんなんじゃ嫁の貰い手あらへんわ」
そう笑いながら言って私を小突くのが中学時代の彼の癖であった。あのころを思い出してしまって思わずふふと笑ったら、彼はコーヒーカップを置いていぶかしげに眉をひそめた。
「なに笑っとるん」
「別に、ちょっと思い出し笑い」
ふうんと言ったきりそれほど興味もないのか、忍足くんは再びコーヒーカップに目を戻してしまった。私はやっぱりあのころのことを思い出す。最近になって青春時代のことをよく思い出すようになった。短い私の人生の中でも決して忘れることができない大切な思い出だ。
忍足くんと街中で偶然再会してから、連絡先を交換して何度かご飯を食べに行ったり飲みに行ったりするようになった。あのころよりほんの少しでも、私は大人になれたんだろうか。中学生だったあのころ、私は忍足くんのことが好きだった。ただの友達としか見れないとあっさり振られてしまったけれど。もしかしたら忍足くんは、もうとっくにそんなこと忘れてしまったかもしれない。
卒業してからは高校が離れてしまって連絡をとることもなくなって、それでも片隅には大切な思い出として保存されているあのころの恋は、切なくて苦しくてほろ苦いまま終わってしまったけれど、私にとって間違いなく人生の大きな糧になった。卒業してからというもの、私は自分で言うのもなんだけどめちゃくちゃがんばった。猛烈にがんばった。おしゃれも勉強も自分の将来も好きなこともちゃんと考えて、あのころ輝いていた、大好きだった彼にちょっとでも近づきたいと、いつかまた出会ったら成長したなと思ってほしいと、そんな不純な動機がいつの間にか私を押し上げて、猛烈な受験勉強をさせ大学に合格させアメリカへ留学させカナダへ実習へ行かせていた。あの頃の私にはとても想像できない自分の人生。
あの日偶然再会したとき、彼がわたしのことを覚えていたなんて正直うそだと思う。目を丸くして、口にはしなかったけどこいつ誰やっけ?みたいな。そんな表情をしていた気がする。私はといえばそんな大切な思い出を忘れるはずがないのでなるべく緊張と動揺を隠して、友達だったあの頃のように普通にふるまおうと努力した。私は彼のおかげで、たくさんの努力の仕方を覚えたと思う。彼は中学時代に比べて当然ながら大人っぽくなっていて、だけど当時の少年っぽい面影もあってどきりと心臓を鳴らしたことは秘密である。それから何度か会うようになっても、だけどお互いあの時の話題は一切口に出さないまま。
話があんねん、という一文だけのシンプルなメッセージを受け取ったのは、昨日まさに寝ようとしていたときに鳴り響いたスマートフォンでのこと。ちょうどよかった、私も話があるから。と約束を取り付けて、いまカフェの窓際の席でふたりで向かい合っている。
「ねえ」
「ん?」
「話ってなに?」
「あー...、」
自分から呼び出したくせに、彼は一向に言葉を進めないままコーヒーカップに視線を落とし、何度もカップを口に運んでいた。コーヒーを飲む姿がやっぱり大人びていて、あの頃のチャカチャカしていた彼の姿とは遠くて、思わず目を細めてしまう。確か来年から研修医の実習が始まると言っていたっけ。思えばあの頃からいつもそうだった。いくら近づこうとしたって、いつだって忍足くんはその俊足をもって、遠い先の先までどんどん先に進んでいってしまう。あの頃から全身に纏うきらきらした輝きは今でも変わらない。だから私は追いかけようとしても追い付けない。あの時から、いまでもずっと。
「あのね」
「なんや」
「私も話があるって言ったでしょ」
「...おん」
「私、就職が決まったの」
「えっ」
「春から研修で大阪に戻るんだ」
目を丸くした彼が勢いよく顔を上げたので、ようやく目が合った。「ほんまに?」「うん。まあ研修の後はどうなるか分かんないけど」そう言うと彼は...まじか。もう一度呟くように言って下を向いて、息を吐いて、頭をかいて、あーと唸って。正直予想外の反応すぎて思わず目を瞠ってしまった。おめでとう、の一言でも言ってくれるんじゃないかという、私の淡い期待はあっけなく打ち砕かれた。
「それで?忍足くんの話ってなに?」
「......」
忍足くんはぎゅっと眉間に皺を寄せてから私を真っ直ぐ見据えた。もう一度深く息を吸ってからため息のように吐き出して。話っちゅーのは、もう一度私を捉えた瞳が急に真剣になって、心臓がまたどきりと跳ねる。あの頃ずっと大好きだった、一瞬でもいいからその瞳に映る特別になりたかった。じっと私を見つめるのは、あの時から変わらない意志の強い瞳。
「名字」
「なに?」
「俺、ずっと名字に聞きたかったことがあって」
「うん」
「でも、それはもうええわ。それより、俺と付き合うてくれへん?」
まどろっこしいことはもうやめや。ぽつりと呟いた忍足くんが私の反応を伺っている。思わず耳を疑った。言葉がうまく出てこない。だってこんなの。私の都合のよい聞き間違いかもしれない。
「...なんか言うてや」
「......付き合うって、忍足くん、私のこと好きなの?」
「あ、当たり前やろ!好きやなかったら付き合うてなんて言うわけないやろ!」
忍足くんが私を好き。その言葉の意味を理解するまでに大層時間がかかってしまって、ほっぺたの端っこを赤く染めた忍足くんが、テーブルの上に放りっぱなしだった私の指先を遠慮がちにそっと握ったときに、彼の言葉が嘘でも冗談でも都合のよい幻でもないことをようやく理解する。
忍足くん。私、たくさん努力したよ。あの頃の忍足くんの影を追い続けて、追いつきたくて。もしいつかまた会えたら、ちょっとでも振り向いてほしいと思って。でもいくら一人で頑張ってもどれだけ前を見続けていても、隣にあなたがいないなら何も意味なんてなかった。そんな簡単なことに気づくのに、こんなに時間がかかってしまった。
「......あのね、忍足くん」
「...うん」
「私、ずっと忍足くんが好きだった」
ずるずる何年も未練がましくてごめんね。引かないで。そう言う声が滲んでしまって、視界もじわじわと揺れだしてしまう。俯いた私の視界のはじっこで、忍足くんがもう一度私の指先を強く握って「...引くわけないやんか」どこかほっとしたように言った忍足くんの声も少し滲んでいたような気がしたのは、気のせいだったかもしれないけれど。
しばらくしてからようやく顔を上げたとき、名字、と言って笑うあの頃の忍足くんが重なった。