小説 | ナノ




満ちない夢のまま


※大学生






ある晴れた日、反対側の歩道に名字を見かけた、ような気がした。遠い記憶を辿って破片を集めてみたけれど、どうにも腑に落ちなくて、もしかしたら他人の空似で全くの別人であったかもしれないとあの日の名字の影を思う。彼女は俺に気づいていない。


だけどそれはやっぱり名字だったような気がして、もう一度視線を向けてみたけれど、そこにはもう彼女の姿はなかった。やっぱり幻覚かそれとも単なる俺の見間違いなのか。だけど俺が名字を見間違うはずがない。忘れもしない中学3年生のとある夏の日、名字に告白されたからだ。同じクラスだった俺たちはそこそこ会話をする仲ではあったけれど、当時の俺にとって名字はクラスメイトであり友人で、それ以上でもそれ以下でもないと思っていた。俺はとにかく部活で忙しかったし、恋愛の願望はあれど実際恋だのなんだのと騒いでいる暇はなかったので、感謝の思いを伝えながらも丁重にお断りし、これからも友達でいてほしいと伝えた。名字は、本当にすまんと何度も謝る俺をなだめながら、こっちこそいきなりごめんね。聞いてくれてありがとう、と言って笑っていた。そして部活が終わり、そのまま流れるように訪れた卒業の日も、じゃあまたね。おう、またな。だなんて、他のクラスメイトと何も変わらない挨拶を交わして別々の高校に進学してしまえばそれっきり、連絡を取り合うこともなかった。



だけどやっぱり、と思った俺はきょろ、と視線を動かしてみるけれどやっぱりどこにもその姿はなかった。のちに付き合った彼女たちのどこかにいつでも、名字のかけらを探していることに気がついたのは最近のことじゃない。告白されたあの日以来、俺は名字のことを意識していたということに気がついてしまった時は盛大に頭を抱えた。こんなに後悔するなんてあの時は思いもしなかった。あの日頷いていればよかったのに俺のアホと何度も思ったけれど、連絡はとらなかったしとれるはずもなかった。今さら何で?なんて言われたら空しい以外の何物でもない。隣に誰か他の男がいようものなら心がぽっきり折れる。男とは大概未練がましくて繊細な生き物だ。経験上、女のほうがよっぽどあっさりしているし、それに強い。


だから早く忘れようとしていた。早く忘れて、名字以上に想える女の子を捜したけれどどこにも見つからないので最近はもう諦めて、愛とか恋とかについて考えるのをやめた。実際サークルやバイトに打ち込んでみたら案外簡単で、たまにコンパだの何だので遊びに出かけるだけ。彼女が欲しくないとはいわないけれど、作ろうとも思わない青春真っ盛りなはずの俺はどこかおかしいんやろか。


もしも、あれが名字やったら俺はどうしたかな。会いたかったような気もするし、会いたくなかったような気もする。第一、さっきの彼女が名字だという保証は全くない。ほんのちょこっと雰囲気が似てたなあと思っただけやし。...未だに彼女の幻影を追っている自分はかなりヤバいという自覚はあるけれど、何故そこまで彼女に未練がましい思いを抱くのか自分でも最早もうよく分からなかった。そんなことばっか考えとるから幻覚見たりするんや。いよいよ本格的にヤバい。そんなことを思いながら角を曲がったら、誰かにぶつかりそうになって思わず身構える。





「忍足くん?」
「え、」
「やっぱり忍足くんだ。久しぶり!覚えてる?わたしのこと」


角を曲がる前、もしかしてそうじゃないかなと思って。目の前の彼女が微笑んだのが、昔の名字に重なったけれど一瞬で消えた。それは確かにずっと忘れることのできなかった彼女本人ではあったけれど、確証は持てなかった。「......名字?」ようやくそれだけ呟くように言うと、「覚えててくれたんだ」と笑った彼女のほんのり色づいた口元がまた緩やかにカーブを描く。髪を耳にかける仕草をする彼女の、桜色に彩られた指先が揺れた。


「忍足くん、東京に住んでるの?」
「あ、ああ、こっちの大学通ってんねん」
「そうなんだ。全然知らなかった。中学校以来だもんね」
「...それ、何や重そうやな」
「え?ああ、うん。大学の教科書」


俺の知っている名字は、天然でどこかちょっと抜けていて、いつでも肩につくかつかないかの黒髪を揺らしていて化粧っ気は全くなくて口紅どころかネイルだってもちろん塗らないし、私服も特別おしゃれというわけでもないし、英語が全然できなくてついでに数学も苦手で、何もないところで簡単に転ぶのをからかうと照れたように笑っているような女の子だった。



それなのに今、目の前にいる彼女は。


上品な色の栗色のつやつやしたストレートヘアが胸元で揺れて、その奥には小ぶりのネックレスが輝いている。やりすぎない程度に、でもちゃんと化粧をしていて口紅もつけていてかっちりとした細身のジャケットを着て膝丈のスカートを揺らし、キャラメル色のヒールを履いて、さっきからすれ違う男たちはみんな彼女のほうに視線を寄越しているし、沢山の参考書とテキストを抱えてこの間3ヶ月の教育研修を終えてカナダから帰ってきたばかりだと笑う。



「ねえ今度、ゆっくり話さない?久しぶりに」



縁取られた長いまつげの奥に覗く瞳に見つめられてどきん、と心臓が鳴った。俺は、こんな名字を知らない。ただ、目の前で俺に笑いかける彼女の笑顔だけは、あの時とまるっきり同じやったから。どうしようもなく浅はかな、そんなわけあるはずがないと分かっていながら、もう何年も閉じ込められている、ずっと言えなかった祈りに似た願いだけが、心の中で勝手にむくむくと黒く広がってゆく。思わず口から飛び出そうになってしまったそれを必死に押し込めながら、精一杯笑顔を貼り付けた。







ーーーなあ、名字。今でも俺のこと、好き?










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