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アリスブルー・イン・ブルー




「名字〜」
「丸井くん。どうしたの?」
「数学の問題集忘れちまったんだけど、貸してくんね?」
「いいよ。あ、でも私五時限目に数学だから、それまでに返してね」
「りょーかい。サンキュー!」
「丸井、早うせんと昼終わる」
「お。悪い仁王!じゃーな、名字」
「うん。またあとで」


丸井に向かってひらひらと手を振る名字の笑顔はいつもと変わらない。俺は寄りかかっていたドアから身体を浮かせ、丸井が教室を出てから踵を返した。振り返り際にちらりと彼女のほうを見てみたら、ほんの一瞬だけ目が合ったような気もしたがそのまますぐに逸れてしまった。別に何とも思わなかった、と言ってしまえば嘘になる。


「あー助かった。数学のヤマセン当てるからよー」
「お前さんの場合、そもそも宿題なんかやってこんじゃろ」
「そーだっけ?でも名字いっつもちゃんとやってあっからなー。まじで助かるわ!」
「お前、何回名字さんに借りとるんじゃ」
「週3くらい?」


俺は呆れて肩を竦めて見せたけれど、当の丸井は悪びれる様子も見せなかった。名字も名字で、いつしかそれが習慣のようになってしまっているので今更気もしていないだろうとは思う。そして俺は、丸井が彼女の教室まで出向くのにわざわざ付き合う。どんなに忙しくても腹が減っていても。


「名字さんもいい迷惑なんじゃなか?」
「平気平気〜、あいついい奴だもん」
「へえ」
「あーでも、毎回視線が痛いんだよな」
「視線?」
「そ。ああ見えてあいつモテるから」


だから教室の男たちの視線が刺さるんだよなー、そう言って笑って、メロンパンにかぶりついた丸井の横顔を見た。ああ、なるほどなあなんて上っ面だけで納得する振りをする。名字がモテるだなんてそんなもん、とっくの昔から知ってる。


「本人はまったく気づいてねーみたいだけど」
「名字さんらしいのう」
「その鈍感さがかえって罪だよな」
「お前は?好きになったりせんの?」
「はあ?ないない。ただの友達」


がぶり、と、再び黄緑のそれにかみついた彼はどうやらその「友人」よりもずっと食べ物に執着があるらしい。ふうん、と空返事をしたら丸井が俺のカフェオレを奪って飲んだ。


「なに?オマエ名字に興味あんの?」
「べつになか」
「そーだよなー、仁王のタイプじゃねーよな。計算高い女が好きなんだろ」


駆け引き上手な人と言え。人聞きの悪いことを言う丸井をじろりと睨んでから、無意識に大きくため息をつく自分がいた。そんなことは分かっている。名字はどちらかといえば天然寄りの人間で、自分の性質とも好みとも全く違うし、接点もなければ会話すらしたこともない。ただ、丸井に向けられる笑顔だったり、廊下で友達と会話をしているときだったり、図書室で本を読むのを見かけたときだったり、気がついたらいつのまにか彼女を目で追っていた。



「あ。そういえば、」
「うん?」
「名字、昨日告られてたな。サッカー部の奴に。断ってたみたいだけど」


だからどうしたって言うんだ。メロンパンを食べ終えて今度はクリームパンを頬張っている丸井は、ことあるごとに名字の恋愛関係にまつわる近況を事細かく伝えてくる。そして、さしてその後その話題を広げることもない。交友関係が広くてとにかく知り合いの多い丸井には仲の良い女子生徒も多いようだったが、誰とも当たり障りのない距離を保っているように感じる中、名字だけは特別距離が近いように思えた。あのコミュ力の塊のような丸井が特別親しくしている相手。だからちょっと興味がある、ただそれだけのはずだった。










「あの」



だから彼女がB組の廊下で俺を呼び止めたときは、正直うっかり言葉を失ってしまう程度には驚いた。俺に話しかけているらしい、と気がつくまでにずいぶん時間がかかった。いつもなら決して合わない視線がゆるりとかち合って、なんだかむず痒いような居心地の悪さを感じる。


「すみません。丸井くんいますか?」
「...ああ。教室にはおらんみたいじゃの」


そうですか、と形の良い眉を下げて俯く彼女を見下ろしていた。伏せたまつげがやわらかそうな肌に影を落としている。ちらりと時計を見やれば最後の授業が始まる時間が迫っていた。昼休みの丸井と彼女の会話が頭を過って、彼女がここを訪れた理由がわかったような気がした。


「数学の問題集?」
「そう。まだ返してもらってなくて」
「ちょっと待っとき」


確実に丸井が悪いと思った俺はそのまま丸井の席まで歩いて行って、プリントやら何やらが乱雑に詰め込まれた机をごそごそと漁った。だけどお目当てのものはどこにも見当たらない。机にないならロッカーか、と思ったけれど、あいにく俺はヤツのロッカーの番号を知らなかった。


「悪い、見当たらんかった」
「そうですか、すみません。ありがとうございました」
「...待ちんしゃい」


ぺこりと律儀に頭を下げて、そのまま背中を向けようとした彼女を引き留めた。いくら気心の知れた友人だからとはいえ、せっかく親切心から貸したというのに自分が害を被るんじゃ割に合わなさすぎだろう。しかも週に3回も親切心に甘えておいて。すぐ近くの自分の席から数学の問題集を引っ張り出すと、廊下に佇んだままだった彼女に差し出した。驚いたように俺と問題集を交互に見る名字がまるで小動物みたいだったので、自然に口元がふと緩む。


「なかったら困るじゃろ。俺の貸しちゃる」
「...でも、悪いです」
「気にしなさんな。あとで丸井には言うとく」


しばらく逡巡していたようだった名字は、早よしないと授業始まるぜよ、という俺の催促に観念したのか、ありがとう、と言って、その細っこくて滑らかそうな指先で差し出された問題集を受け取った。ああ、これはモテるだの人気があるだのと言われるのも分かるな、と正直思った。そして丸井が贔屓にしているというのも。本人に自覚はないだろうが、名字には男を惹きつけて離さないなにかがある。現に俺だって今この瞬間、名字の発しているその不思議な何かが一体何なのか、その深淵をほんの少しだけ覗いてみたい衝動に駆られているのだから。






「なあ、名字さん」



気がついたら言葉が勝手に口から滑り落ち、すでに廊下の少し先を歩いていた彼女を引き留めていた。名字は足を止めてこちらを振り返る。周りの雑踏が消えていくような感覚に陥った。名字がいま、俺だけを見ている。他の誰でもない、俺を。


「悪いのう。ちゃんと後で返しに行かせる」
「え?」
「好きなんじゃろ、あいつのこと」


思えば俺はもう随分と前から名字のことを目で追い続けていたわけだが、それは単に彼女が丸井のお気に入りだからという純粋な興味であった、と、思い込んでいた。今の今まで。ただの純粋なる興味だけなら、人間観察の対象であるに過ぎないなら。わざわざこんなことを言う必要なんかない。同情やおせっかいをする必要だってない。やめておけばいい。放っておけばいいのに。初めて名字と一対一で向き合って、ようやくその理由を知ってしまった。だからさっきからずっと、まっすぐに俺を見つめる名字の瞳から目をそらせずにいる。






「......違うよ」




ああやっぱり。と俺は思った。その言葉が真実なのかそうでないのか、その瞳の温度から伺い知ることはできなかった。掴もうと手を伸ばしたら、霧のように消えていってしまう。追いかけようともどうやって追いかけたらいいのかも分からない。そもそもこの感情に名前をつけていいのかさえ戸惑われるのに。「これ、ありがとうございました。後で返しにきますから」そう短く言って頭を下げて、そのまま何もなかったみたいに再び踵を返した名字の背中が遠ざかっていって、生徒たちの雑踏の中に消えてしまうのをぼんやり見ていた。初めて俺に向けられた笑顔は、今にも泣き出しそうだった。








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