例えばフランツ・カフカの『変身』とか?

水を被ると女になるとかもあるよね……読んだことない? えー嘘やっだーマジで?

あとは……紅茶を飲むと女になるのも知ってる。あれ、続きでないのかな。

朝起きたら女だったっていうのも定番だよね。

抱きつくと動物に!! とか……近いかな。


俺の手にふわふわの感触が触れる。くりくりの瞳は涙の膜がうっすらと張っていて陽光にキラキラと光っていた。
臨也は手のひらサイズのその生き物を手に、頬を微かに赤らめる。かわいい。
ふかふかの金色の身体を抱き、頬を擦り寄せるとみぃ、とそれは鳴いた。

「シズちゃん本当に猫になっちゃったの?」

みぃ、と仔猫は返事をするように鳴く。その隣には脱ぎっ放しのままのバーテン服と高級ブランドのサングラスが転がっていた。
臨也は途方にくれて仔猫の狭い額に自分の額を合わせて項垂れる。

「マジかよ……非常識にも程があるでしょうよシズちゃん……」

みぃ、と応える仔猫のあどけない表情に脱力し、臨也はフローリングの床に寝転んだ。
好奇心旺盛な仔猫は小さな前足で臨也の頬をてしてしとつついている。

「やめろって……くすぐったいよ」

ざりざりと小さな舌が臨也の首筋を削るように舐めた。しかし無邪気な姿を見ては、振り払う気にもなれない。臨也は溜め息をついた。


本来ならば、人間が猫になるなど非常識かつあり得ない話だ。
しかしここは魍魎跋扈する池袋。ヤクザから首なし妖精までなんでも有りの街である。それならあの、格闘ゲームで言う所のチート男、平和島静雄の一人や二人、猫になったって何も驚くまい。
事の発端は、臨也が恋人である静雄の部屋を訪れた事まで遡る。

『君って最低だねぇ! どうせ俺なんて全く信じてなかったって事だろう? まあ当たり前だよね! だって俺だし? 信じてくれなくて結構! もういい帰る!』
『ちょ、手前自己完結してんじゃねぇよ! …………っおい!』

はて、喧嘩のキッカケは何であったか……。臨也は仔猫の喉を撫でながら首を傾げた。
いずれしても原因は思い出せないほど些細な事だった気がする。

「シズちゃーん……」

大人しく抱かれている仔猫に顔を寄せ、臨也は二度目の溜め息をついた。仲直りってどうやるんだっけ、いつもどうしてたっけ。そもそも最後に自分から謝ったのは一体いつの事だったか。
それにこれは謝るべきなのか? 次々と浮かぶ疑問符に自答を繰り返しながら思考を巡らせる。

「つかそもそもシズちゃん猫だしさぁ」

それ以前に、いくら元人間だとは言っても猫に人間の言葉が判るわけがないだろう。こうなっては取りつく島もない。

「カエルになった王子様はお姫様のキスで戻るんだったっけ……?」

ふと思い出した子供の頃に呼んだ絵本を反芻し、臨也は仔猫を抱き上げた。
ふわふわの毛に顔を埋め、鼻から息を吸う。微かにミルクの甘い香りがした。
みぃ、と首を傾げる仔猫の顔に自分の顔を近付け、目を瞑る。



「―――――おい、お前何やってんだよ」
「えっ?」


ふかふかの感触が唇に触れたか否か。思わぬ所からかかった声に、臨也は間抜けな声を上げて起き上がった。

「な、なんでシズちゃんここにいるの……?」

それに応えるかのように臨也の胸で仔猫がみぃ、と鳴く。
臨也の問いに対して、静雄は奇妙そうに眉を潜めた。

「なんでって……俺ん家だからに決まってんだろ」
「猫になったのかと思った……」
「はぁ!?……つかお前、たまに変なこと言うよな」

私服に着替えたらしい静雄は、豆鉄砲でも食らったかのような顔をしたあと、手提げのビニール袋を下ろして破顔する。

「……手前が勝手に出てったからムシャクシャしてよ。んで、外出たらこいつが居てよ。撫でたらついてきたんだよ」

臨也の腕の中に仔猫はまだ居る。つまり、静雄は猫にはなっていないと言うことだ。
臨也はほっと安堵の溜め息を吐くと同時にぼそりと呟いた。

「猫になったんじゃなかったんだ……」
「だからなんだよ猫って」
「だって……」

非現実的な想像に取りつかれていた事が気恥ずかしくてモゴモゴと言い淀んだ臨也は下を向いて、仔猫を見つめた。先程まで大人しかった仔猫は今は何故かジタジタと暴れている。
みぃ、と鳴いた仔猫は小さな手足を突っぱねて臨也の腕から抜け出そうともぞもぞと動いているようだった。
さっきまであんなに腹がたっていたのに、仔猫の無邪気さと、思いがけず現れた静雄のせいで自分が今まで何に怒っていたのかすら忘れてしまった。

「……その、さ…………あっ」

臨也が体制を変えようとしたその瞬間。
一瞬の隙をついて正に風のような速さで飛び降りた仔猫は、あっという間に臨也の手を逃れて開けっ放しの扉から外に飛び出していった。

「あー……」

仔猫を追いかけようと伸ばした臨也の手は空を掴んだ。が、その手が仔猫のふわふわな毛皮を掴む事はなくしょうもなく項垂れる。

「あ……ぅ、その、いや」
「逃げちまったな……ま、仕方ねぇか」

どんどん小さくなっていく仔猫の後ろ姿を見送り、静雄は臨也の肩に手を置いた。
しどろもどろな臨也の顔を覗き込み、静雄は首を傾げる。耳まで真っ赤になって臨也の頬が熱くなっていた。

「…………ううぅ、もういいから、気にすんな!」
「はぁ!?」

静雄の手を払い、照れ隠しのようにぴしゃりと言い放った臨也は逃げるように押し入れに飛び込んだ。勢いよく扉を締め、残された静雄は呆然と首を傾げる。

「……なんだありゃ……?」

首を傾げる静雄を置き去りにして、押し入れに閉じこもった臨也は、羞恥心に顔を真っ赤にして畳まれた客用布団に丸まっていた。