新羅宅からノミ蟲を担いで自宅に戻ってきた俺は、万年床となっている布団を足で部屋の隅に追いやり、ぐうすか眠るノミ蟲を床に下ろした。
布団にノミ蟲臭が移るのは嫌である。俺は全身に移った臨也の臭いに眉をひそめ、風呂場へと向かった。ノミ蟲特有の香水のようなシャンプーの匂いのような甘ったるい臭いが全身からする。不快だ。俺は甘味は好きだが、この臭いがこのノミ蟲から漂っていると思うと大変不愉快である。
染み付いたノミ蟲臭を消すべく洗い専用のタオルで全身をごしごしと擦る。
全身の二度洗いを済ませ、ようやく少し落ち着いてきた俺は着なれたジャージに袖を通し、ノミ蟲の眠っている寝室兼居間に向かった。
さすがに俺の家なのでむせかえるようなノミ蟲臭はな感じない。それでも微かに臭う甘い臭いはノミ蟲特有のものだ。
今すぐにでもこの不快な臭気の元を風呂にぶちこんでやりたい衝動な駆られた。が、そうなると意識の無い奴の服を剥いで介護よろしく全身を洗ってやらねばならないことを思い、馬鹿馬鹿しくなってやめた。
とりあえず……俺は相変わらず阿呆面を曝して眠りこけている臨也の傍らにしゃがみ、まじまじとその顔を見た。
そして煙草を一本取り出し、ゆっくりと紫煙を肺に取り込む。
(…………顔は悪くねえんだよな)
黙って目をつぶってさえいれば、自分を慕う双子によく似た端正な顔をしている。
今はあの小憎たらしい口は閉じられているし、悪くはない。嫌いではない造りだ。
「あ?」
とりあえず、熱はないかと臨也の額に手を当てる………が、発熱など感じられない。むしろ臨也の体温は自分よりも低いくらいだ。
(クソッ……あの藪、騙しやがったな)
後で殺す、と心の中で決意し、俺は早速眠るノミ蟲を窓から捨てる事に決めた、が、ふと思うところがあってやめた。
幸い、奴は間抜け面をして眠りこけているし、俺は奴の顔の造形自体は嫌いではない。それに、恐らくこんなにも間近で奴の顔を眺める機会など他にないだろう。
物は試しと言うことでそこで俺は、今日は存分にノミ蟲野郎の顔を眺めてみることにしたのだ。
よくよく観察してみると、意外にも睫毛自体が薄いことに気がつく。体毛が薄いのかもしれない。眉はきっちりと形よく整えられていた。俺もそこまで体毛は濃い方ではないが、幽の仕事が仕事なので、幽に連れられてそれなりに見た目は気を使っている方だ。しかし、芸能人でもない一般人の男が、女のように見た目に拘りすぎるのは少々みっともない。
そこまで考え、結局臨也であることを意識してしまった俺は、苛立ちを飲み込み、紫煙を吐き出した。
「ぅ……んん」
すると煙が苦しかったのか、不意に臨也が眉を寄せて身動ぐ。起きるだろうか、という懸念は徒労に終わった。もそもそと寝返りを打った臨也は再びすうすうと穏やかな寝息をたて始める。
「……んだよ。吃驚させんな」
むに、と頬をつねる。そういえばこうして改めてノミ蟲の顔を触ったのは初めてかもしれない。
吹き出物の痕ひとつない肌は、柔らかくて弾力があり少しひんやりと冷たかった。こんなクソ野郎でも頬は柔らかいのか、と感心する。
手触りが良いのでそのまま手の甲で頬を撫でていると、臨也がもぞもぞと頬を手に摺り寄せてきた。なんだろう。デジャヴである。俺は幽の家の飼い猫である唯我独尊丸を思い出した。以前、家で独尊丸を預かった時にこんな動作をしていた筈だ。こいつは猫か。
そこで俺はふと、臨也の口元に指を寄せた。確かこうすると猫は寝ながらでも指を甘噛みし始めるんだったか。とはいえノミ蟲はどこまでいってもノミ蟲で決して猫ではないのだが。
ふにふにと柔らかい唇に俺の指が触れると、臨也がふにゃふにゃと明らかに人語ではない言語を発し顔を背けた。
「ん、」
「なんだ、噛まねえじゃん」
起きるかと思い、わざと口に出して呟いてみるが、臨也は相変わらず情けない顔で寝こけている。
これは新羅の野郎に薬でも盛られたな、等と考えながらこれでは起きない筈だと一人合点をついた。いい機会なので俺も、思う存分ノミ蟲の観察をすることにする。
睫毛に縁取られた瞼に手を乗せ、眼球を観察すべく閉じられた瞼を指で軽く押し上げる。そういえば眠っている人間の眼球がどうなっているか前から気になっていたのだ。睫毛が指先にチクチクと当たる。睫毛は薄くとも長さはあるらしい。半開きになった瞼の間から見慣れた紅い眼球がきょろりと覗いた。
(白目向いてるわけじゃねえんだな)
「んンッ」
暫くその様子を観察していたが、不意に臨也が嫌々と頭を振るように身動ぎ両腕で顔を覆い隠す。俺は慌てて手を引っ込めたが、臨也が再び動かなくなったことを確認すると、観察に邪魔な手を無理の無いところに退けた。そして再び瞼に指先を寄せると臨也は嫌がるように退けた手でおれの指先を払い除ける。
「目は嫌か。そうか」
あのノミ蟲に接しているとは考えられないような穏やかな声で、俺は臨也の瞼から手を離し、頭に手を乗せた。わしゃわしゃとかき混ぜるように撫でると、臨也がふにふにと口元を緩ませる。
これは、そうだ。姿形は確かにノミ蟲だが、これはきっと違うものだろう。
(犬か…………イタチか?)
猫にしては図体がでかい。イタチにしてもだいぶでかいので、俺は頭を捻って考えた。
(黒豹……)
大きくて、かつ、こうして俺が撫でてみたい動物だ。俺は以前テレビで見た猫じゃらしにじゃれる黒豹の姿を思い出した。
そう考えるとだいぶ心が和んだ。可愛らしさまで感じてくる。
俺は臨也……もとい黒豹の頭を改めて撫でてみた。思っていたよりも固くてベタついている。しかし爽やかな整髪剤の匂いにワックスかと合点を着く。やはりといってはなんだが、自分と使ってるものが違うようだ。
ぐしゃぐしゃとかき混ぜると、ただでさえ乱れていた黒髪がさらにぐしゃぐしゃになる。ざまぁみろ、と無様な様子を見て思った。
しかし、


「………………駄目だな」


やはりどこまでいってもノミ蟲野郎はノミ蟲野郎だ。うっかり認識してしまった事実に予想外のダメージを受けた。
「……………………胸糞悪ぃ」
誰に言うわけでも無く呟き、俺は改めて深呼吸をした。ノミ蟲臭が肺一杯に満たされていく。気分が悪い。
いつの間にか俺に背を向けて寝返りを打っていた臨也の背中に軽い殺意を思いだし、俺は再び深く深く息を吸った。
(落ち着け、落ち着くんだ、俺)
呪文のように繰り返し、臨也の肩に手をかける。くっと手前に軽く引くとごろりと臨也の身体が仰向けに横たわった。
臨也は相変わらず阿呆面を晒して安心したような顔をして眠っている。
意外にも無邪気なその表情は、やはり薬を盛られているからかもしれない。
安堵しきった寝顔に独尊丸を思い出す。
いや、こいつはそこまでかわいくはない。
整髪料でベタついた手を臨也の服で拭い、なお香る手のひらの匂いを嗅いだ。覚えのあるライチに似た甘いような爽やかなような香りは紛れもなくあの臨也の匂いだ。
――――最も、俺は街に存在している臨也の身体から染みでている体臭や香水で奴を探しあてているわけではないので、奴と対峙した時にいつも嗅いでいる匂い、に覚えがある……というだけの話だ。いくら俺でもそこまで人間離れしている覚えはない。奴が街を訪れる時に匂うのは、俗に言う『きな臭い』と言うやつだ。この街が妙にざわついている時は大抵臨也の奴が一枚噛んでいる。
ともかく、奴のこの匂いは出会った頃から変わらない。高校時代などは臨也と同じ整髪料を使っていると言うだけで苛ついてぶっ飛ばしてしまった奴もいる。最近では流石に整髪料の匂いだけでキレる事はなくなったが、それでも気分がいいものではない。苛立ち始めた感情を抑え、やはり蟲なら蟲らしくその辺りに放って置けばよかったと心底後悔した。

ともあれ俺は熟考する。

議題は街にも人にも有害な正に害虫と表すに相応しいこのノミ蟲野郎の処理を如何するか、だ。
拾ったものを再び捨てるのは人として駄目だ。仕方がないので臨也の身体を跨いで上に乗ってみる事にした。
「ん……っ、うぅ……」
体にのし掛かる重みの為か臨也が眉を寄せて唸る。何をしているのだろうかと自分でも訳がわからないが、こうした方がノミ蟲野郎の面が見易いのだ。
頬をつねってみたり鼻をつまんでみたりしてみる。他意は無い。あえて言うならば好奇心だ。学生の頃はこの顔を思い出しただけで苛々としたものである。今もだが。
しかし、しかし、どうだ。冷静になって見てみるとこいつの顔も悪くない。
俺は煙草の火を点けて、深く深く息を吸い込んだ。



(……………まぁ、そうだな)




「悪くは、ない」






若さを乗せると恋が始まる。
奴がくるとムカッとする。
自ら乗って深呼吸。




謎謎です