都内某所で取り立てをしていた平和島静雄が彼の天敵である折原臨也の気配を感知し、追跡を開始したのがおおよそ十数分前の出来事である。

そして彼にしては珍しくアンニュイでブルーなメランコリーに浸っていた折原臨也が、代々木公園でぼんやりと物思いに耽っていたのがつい数分前の事だった。



「いーざーやーくーんーよー」
「シズちゃんさぁ……何でここにいるわけ? 君、池袋にいたんじゃないの?」

臨也は背中に尋常ではない殺気を感じながら振り向かずに呟いた。
状況は経験から容易に想像出来た。案の定苛立ち混じりの不機嫌な低音が臨也の鼓膜を揺らす。
「るせぇ」
「……はぁ、本当に君、日本語通じないよねぇ……」
臨也はそれに肩を落とし、力なく答えた。
「悪いね。俺、今日はそんな気分じゃないんだけど……」
「あ゛?」
静雄はどこからか引き抜いてきた標識を片手に、いつどのタイミングでも臨也に殴りかかれるような間合いを詰めつつ、不意に鼻腔を擽った覚えのない匂いに首を傾げる。
恐らく臨也は徐々に静雄が互いの距離を縮めていることに気が付いているだろう。しかし静雄が彼のデッドゾーンとしている半径1m内に踏み込んでもなお微動だにしなかった。
「てめ、またなんか企んでやが…………あ゛?」
訝しげに思った静雄がベンチに腰掛けた臨也を覗きこむ。
「………あっ」
瞬間、臨也から小さな悲鳴があがり、臨也のファーコートと同化していた黒いモフモフとした塊が一目散に繁みに向かって飛び出していった。
そしてちら、と微かに静雄を見た臨也は「はぁ」とわざとらしい溜め息を漏らす。
「………………猫?」
「そうだよ。シズちゃんが怖い顔して威圧するから逃げちゃったじゃないか」
いまいち状況が見えていない静雄に、臨也は「どうしてくれる」と不機嫌を露にして唇を尖らせ、猫が逃げ込んだ繁みを見た。静雄もつられて繁みに視線をやるが、先ほどの黒い塊の姿は見当たらなかった。

「……煮干しとかさきいかとかわざわざコンビニまで行って買って、やーっと膝まで来てくれたのにさぁ……」
文句をぶつぶつと呟いている臨也の傍らにはコンビニの袋に入ったつまみ類がはみだしている。
確かにあの格好つけの臨也が常備しているとは思えない装備だ。静雄は得体の知れない不気味さを感じながら尋ねた。
「猫好きなのか?」
まさか、そんなことあるわけないとでも言いたげな静雄に臨也は更に不機嫌そうに眉間の皺を深める。
「何その意外って顔。別に好きじゃないよ」
「じゃあなんで」
野良猫なんかに構ってるのだ。
静雄がそう言いかけた言葉を遮って臨也はうーんと唸る。
「んー……気分」
それから事も無げに言い放ち、黒い服についた毛を注意深く払った。
――気分?  臨也の癖に実は動物好きなのだろうか。それとも人間愛とやらが生物単位に飛躍したのか? 静雄は理解できないものを見る目で上から下まで臨也を眺める。
「……なに考えてんのかわかんないけど、シズちゃんが思ってるのとは多分違うと思う」
(おぉ、違えのか)
考えていたことを先読みされ、静雄は思わず小さく仰け反った。
それを見た臨也は胡散臭げに目を細め、機嫌の悪さを隠すことなく表情に表した。
「ちょっと体温が懐かしくなっただけだよ。動物は好きでも嫌いでもないし、特別猫が好きとかでもないから」
そしていつも何か良からぬ事を企んでいる時のような維持の悪い笑みを口許に浮かべ、嘲笑混じりの声で静雄に言う。
「君はこういう猫とかウサギみたいなふわふわモコモコした小動物が好きだろう?」
臨也に言われると大変ムカつくのだが、言われてみれば確かにふわふわモコモコした小さい動物は嫌いではない。
(猫……………)
猫も悪かないがやはり静雄としては飼い主に忠実な犬の方が良い。散歩とか、憧れる。
突然の猫の出現によってすっかり冷静になった静雄は、遠回しな臨也の挑発には応じず、くわえた煙草から紫煙を吐き出した。
「……いや、俺は猫より犬派だな」
「犬?」
「おう」
二人して猫が消えていった茂みを眺めながら、静雄はふと妙な気持ちを感じた。
顔を見るなりいがみ合っている相手とこうしてのんびりとなんでもない日常会話をしているなんて。
すっかり興が冷めた静雄は天敵である臨也が傍らにいるにも関わらず標識を持ったまま大きな欠伸をした。
「…………犬、ねぇ」
挑発が通用しないと早々に解した臨也は小さな溜め息をつき、遠い目をして呟いた。
「俺は犬は嫌いだな」
ぽつんと白い紙に落としたインクのような湿った暗い声で臨也は言う。
「あ? 別に好きでも嫌いでも無ぇんじゃなかったのかよ」
「さっきのは『動物は』って言ったつもりだったんだけど」
「犬も動物だろ」
「別に」
別にってなんだ、お前はどこぞのお騒がせ女優か。
静雄は思わず臨也を見、臨也にしては珍しい眉をぎゅっと寄せた寂し気な横顔にぎょっとして目を疑う。
そして臨也の視線がある一点を集中的に見つめていることに気が付く。
「つか、おまえ、なに見てんの」
臨也の視線の先を追うと、そこには散歩中のゴールデンレトリバーが飼い主の女の子と楽しげに歩いていた。
「犬嫌いだったんじゃねぇのかよ」
「嫌い」
「じゃあ見るの止めりゃいいだろ」
「別に」
不意に黙った臨也にふとした苛立ちを覚える。いや、それでもキレるほどではない。これはもしかしたらくそうぜぇがノミ蟲君なりの愛情表現というやつなのかもしれない。ここは大人としてぜひ穏便に済ませたいものだ。
静雄は自分に言い聞かせ煙草の煙を深く吸い込んだ。
「犬すげぇかわいい」
「……そう」
なんとなく呟くと、意外にも返答があり驚いた。
静雄は吸いかけの煙草を揉み消し、両手をポケットに突っ込んで臨也と犬の両方を交互に見る。
ゴールデンレトリバーというやつは大型で図体がでかい割りにのんびりした顔立ちをしているようだ。ただリードを着けて散歩しているだけだというのに、跳び跳ねるように飼い主に寄り添っている。飼い主の女の子が小柄なせいか引き摺られているようにも見えるが、きちんと飼い主の歩幅に合わせているらしくあんなホンワカした顔でも賢いことがわかった。
「……なかなか賢いじゃねえか」
思わず呟くと、臨也が横目で静雄を見た。
「あれくらい、普通。都会で大型犬を飼うなら躾はしっかりしないと。離してもちゃんと付いてくるよ」
「詳しいな」
ぽつぽつと呟くように話す言葉を受け取って臨也を見ると、臨也は視線をずらして口を閉じた。
――――無言。静雄も別に話しかけたわけではないので特に気にしない。暫くそうした沈黙が続いた。


(……………さみぃ)
流石に十数分も冬の寒空の下でじっとしていると身体が冷えてくる。静雄は温かいコーヒーでも買おうとベンチから少し離れた所にある自販機へと向かった。
110円入れ、温かいカフェオレを手にしてから再びベンチに戻ろうとしてふと考え込む。そしてもう一本温かい缶コーヒーを買った。
「おい」
臨也の寒々しい首筋にコーヒーを当てると、臨也の身体が「ぎゃっ」と大袈裟なほど跳ね上がった。それから驚いたように目を丸くして静雄を見る。静雄は平然とカフェオレのプルタブを起こし、温かいそれを啜っていた。
「ん、」
どこぞのアニメ映画の少年のようにコーヒーを臨也に突きだし、静雄はドカリとベンチに腰掛けた。
「……なんで?」
「気まずいから」
コーヒーを受け取り、訝しげな目を向ける臨也が問う。
別段憚れる事でもないので静雄それに正直に答えた。臨也は警戒心を剥き出しにしながら暫く静雄を見ていたが、静雄に他意が無いことを察して再び視線を戻した。
餌付けされる猫というのはきっとこんな感じなのだろうと不意に思う。

「…………犬」
コーヒーを両手で包み込むように持ち、臨也は唐突に口を開いた。
「あ?」
「別に聞かなくていいよ。俺が勝手に喋ってるだけだから」
「別に聞きたか無ぇよ」
遠くなっていく犬と飼い主の姿を遠目に見ながら臨也はプルタブに目線を落とした。意外でもなんでもないが睫毛が長い。

「……」
(……ま、間が持たねぇ……)
重いような軽いような正体不明の間に耐えかねて、静雄は息を詰める。
「……あのさ、シズちゃんって犬に似てるって言われて嬉しい人?」
「あ!? 普通は嬉しく無ぇだろ」
臨也の質問の意図が判らず、静雄は首を傾げた。それに臨也は興味深げにふぅん……と漏らす。そして思案するように宙を見つめた。
「……あんだよ」
「俺昔犬飼ってたんだ」
「犬?」
臨也が犬か。性格悪そうな犬になりそうだ、いや、動物は素直だからまず臨也には懐かないのか……。悶々と思考を巡らし、静雄は混乱する。
「金色のゴールデンでさ、俺が8歳の時に4ヶ月で貰われてきて、俺が寂しくないようにってこだったとらしいんだけどさ、別に寂しくなかったし両親が満足ならいいかなって思ってたんだよね」
淡々と話す臨也に笑気も起きず、静雄は固唾を飲んだ。臨也が犬を飼ってたとはおおよそ信じられない話だが、嘘を吐いているようには見えなかった。
「犬ってね、結構賢いんだ。飼い主をよく見てるって言うか、普段はおとなしいんだけど俺が四木さんと会ってくると唸るし、怒って餌も食べなくなるし」
犬畜生っていうけど、結構ナイーブなんだよね、とかなんとか。臨也は笑いながら言った。シズちゃんより賢いよ、と笑う姿に腹が立ったがとりあえず今は我慢する。
「俺別に動物とか好きじゃなかったけどさ……」
そう言って臨也は缶コーヒーを握り締める。臨也が過去形で話す理由は静雄もうっすら気がついていた。
「ゴールデンって、癌の発症率が他の犬より高いんだって。10歳以上生きるのは珍しいって」
そこまで淡々と喋っていた臨也が不意に沈黙し、静雄は眉をひそめる。
「…………死んだのか?」
「シズちゃんにデリカシーってものは無いの?」
静雄のはっきりとした物言いに半ば呆れたように臨也は苦笑した。
動物ドラマのセオリーだ。最後は動物か人間のどちらかが死ぬ。でも前向きに生きていこうというやつ。
「……………とかいって! ちょっと懐かしくなっただけだよ。もう犬は飼わないと思うしね。あ、ペットロスとかじゃないよ? やっぱ俺も仕事とかでずっと一緒には居られないし、散歩とか病院とかで時間も取られるしね」
そう勝手に自己完結した臨也は唐突に立ち上がり、持っていた缶コーヒーをポケットに突っ込んだ。
そして踵を返し、いつもの跳ねるような軽い足取りで静雄に背中を向けた。
静雄からほど離れたところで臨也は突然「あ」と立ち止まった。静雄は想像していなかった行動にビクリと震える。
「あ?」
「コーヒーありがとう。あとシズちゃんって犬に似てるね」
「はぁ!?」
臨也の妙な行動が理解できず固まっていた静雄は、空になったカフェオレの缶を片手で潰し、首を捻った。
それから再び何事もなかったかのようにひらひらと手を振り、跳ねるように去っていった臨也の後ろ姿はまるで小さなノミのようだと、静雄は釈然としない気持ちを抱えながら見送った。
「なんだあいつ…………意味わかんねぇ」





ちょっとアンニュイになっただけ。