例えて言えばドカン、と一発バズーカで能天をぶち抜かれた感じだ。 ぐるぐる、と、景色が回っている ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる 全然気持ちよくない酩酊感が身体を支配している。 (まぁた、いつもの通りだよ) ぐるぐる回る意識の中で臨也はぼんやりと考えた。 せっかく良い雰囲気になったところでまた同じことの繰り返しだ。 (わかりあえないんだよねぇ) だって生きてる場所が違う。 見てるものが違う。 ぐるぐる、と臨也の意識が深遠に堕ちていく。 静雄に殴られて意識を失うときはいつもこうだ。 ぐるぐる ぐるぐる 深淵で見えのある目付きのウサギが、ニヤニヤといやらしい顔で笑っていた。 (ああ、あぁあぁあ、なんかむかつく、あいつ、クソ) あまりにも意識がぐるぐると回るため、胃がむかむかして今にも吐きそうだった。 しかしあのむかつくウサギはニヤニヤニヤニヤ笑っている。 非常に苛々した。 臨也はウサギを捕まえてやろうと必死に手を伸ばした。 だがしかし、その手がふわふわの毛に辿り着くことはなく、ウサギは臨也の手からひらりと逃げる。 (クソ……ッ!) 臨也も負けじと手足をばたつかせてどうにかウサギに近付こうともがくが、臨也の手足は虚しく空を切るだけに終わった。 そしてガクン、と、突然テレビの罰ゲームのように足元が崩れ落ちていく。 遠ざかっていくウサギと深淵にまっ逆さまな臨也。 「ちょ、う、わぁぁぁぁぁぁあ?!」 「――――!」 ビクン、と大きく身体を震わせて臨也はぱちりと目を開ける。 「おい、大丈夫か」 大丈夫じゃねぇよくそ野郎。 臨也は、思わず口をついてでそうになった言葉をごくりと呑み込んだ。 思い出したように殴られた頭がじんじんと痛い。 時差ボケと疼痛で気分は優れない。臨也は静雄をきっと睨みながら苛立ちの溜め息を吐いた。 ……しかしその反面、静雄はあれでよかったのだと安堵する。 「――悪ィ」 静雄は自分が気を失ってから今の今まで、終始申し訳なさそうに眉を潜めてしょんぼりとしていたらしい。眉尻を下げて長身の身体を丸め、小さくなっている。 「最悪。このDV男」 素直に頭を下げる静雄のつむじに臨也は冷たく言い放った。瞬間、ぴくと静雄の肩が震える。そして捨てられた犬を彷彿とさせる傷付いた表情を浮かべた。 臨也の中の欠片ほどの良心がずきりと痛む。 (…………うっ) 静雄にもし、犬耳があったら恐らくそれはしょげたように完全にぺたりと臥せっているだろう。 しかしそんな良心などという確認不可能なものに惑わされている場合ではない。 臨也はゆっくりと息を吸い、できるだけ静かに、かつ静雄に言い聞かせるように口を開いた。 「やっぱ俺、シズちゃんとは結婚できないよ。だってシズちゃんすぐキレるんだもん。俺怖くて何にもできない」 その中でも口答えを一切挟めぬように一息に言い放つ。 こんな姿を見たら尚更食い下がる訳にはいかない。 静雄はあくまでも、折原臨也の天敵でなければならないのだ。 そうじゃなければならない。 それ以外はあり得ない。 それはきっと自分が人を愛するがごとく決められた事実なのだ。臨也は静雄が嫌いで、静雄も臨也が嫌いで憎んでいる。 それで自分たちは何年もやってきた。今さら仲良くなんてできるはずもないし、したくもない。 相手の出方を見つつ臨也は続ける。静雄は黙って項垂れたままだった。 「シズちゃんはさぁ……それでいいの?喋らない従順な俺なんてさ、俺じゃないよね?それともさ、シズちゃんはそういう俺がいいの?」 ぴくり、と静雄の頭が震え、臨也の言葉が一瞬つまる。 (俺の良心なんて、元々あってないようなものだろ……!) 自分で自分に言い聞かせるように心の中で何度も「気にするな」と、唱え続ける。 それなのに……それなのになぜ、この胸はずきずきと痛いのだろうか。 静雄は下を向いているので臨也の姿が見えていない。それを確認すると、臨也は頭を抱え……とはいっても実際に抱えた訳ではないが、項垂れた。 そもそも犬はそれほど好きではない。いや、嫌いではないが好きでもない。 呼吸器に綿を詰められたように息苦しい中、臨也はそれをごまかすかのようにぎゅっとシーツを握りしめる。 その罪悪感や気まずさを払拭するように、臨也は自分の両頬をぱんっと力強く叩いた。 そして目を瞑ったままふるふると頭を左右に振り、ぱち、と目を見開く。 (……よし……よっし!) それで自分に気合いを入れた臨也は、睨み付けるように静雄を見た。 音で顔を上げたらしい静雄の鳶色の目と、臨也の視線がぶつかる。 「ね……っ、ねぇ、シズちゃん。ていうかさ、俺、シズちゃんに嘘ついてたんだよ?」 「あん?それがどうした。……んなもん、手前にとっちゃいつものことだろ」 頭に疑問符を浮かべながら静雄は首を傾げる。それを機と言わんばかりに、臨也は畳み掛けた。 「いいの?シズちゃんそういうの嫌いじゃないか。でも仮にシズちゃんと俺がくっついたって、俺は嘘つきだから結婚しても嘘をつき続けるよ。シズちゃんが正直者で曲がった事が嫌いなのは知ってる。だけどね、俺が嘘をつくのもやめられない。仮に……もし仮に、俺がシズちゃんを好きになったとしてもそれは変わらないよ。変えようとも思わないし。シズちゃんのために俺は俺を変えられないよ」 臨也はゆっくりと、だがしかし確実に自分の気持ちを吐露すると、ほっと息を吐いた。 ……正直な気持ちだった。 むしろ、自分の言葉が余りにもすらすら出てくることに臨也は驚いていた。 ――俺は俺を変えられない。 今まで自分が信じて、正しいと思ってきたものは今さら変えられない。変えたくもない。 臨也は静雄を嫌っていて、静雄も臨也の事を心の底から嫌悪していなければならないのだ。好きになんてなれない。なるつもりもない。今までも、そしてこれからも…… 「だからどうだってんだ」 「え?」 突然腕を掴まれ、臨也は顔を上げる。真剣な顔をした項垂れていた筈の静雄の姿がそこにはあった。 「手前は本当にちっせえノミ蟲だな……性格とか考え方とか、自分が変えようと思って変えんじゃねぇだろ。行動の結果として変わったらそれでいいんじゃねぇのか?手前が変わりたくねぇならそれでいいよ。俺は変わった手前を好きになったわけじゃねぇからな。手前のクソノミ蟲な所を全部含めて好きだ」 「す……っ?!き……っ、とか……!!」 頬がカッと熱くなり、臨也はじっと見つめてくる静雄の真っ直ぐな眼から視線を逸らした。 (な……) なんだなんだなんだ!! 顔を見るだけでヘドが出ると思っていた静雄の顔がなぜか妙に格好よく見える。 臨也は赤面する顔に羞恥を覚えながらも、静雄に腕を掴まれているせいでそれを隠すことができない。 「なんだよ……!しっ、シズちゃんなんて、どっ童貞の癖に!」 「あ?……何言ってんだ?」 臨也は咄嗟に苦し紛れの悪態を吐くが、子供の悪口のような言葉しか出てこない。 「離せ、よっ!」 渾身の力を込めて掴まれた腕を引き離そうとするのだが、そもそもの力の差でびくともしなかった。 ……いよいよこれは逃げ場がない。 臨也はせめて、静雄の目を見ないようにきつく目を閉じた。 「……………………おい」 臨也の鼻先に熱い息が吹きかかる。思わず後退りしようと身体を動かすが、腕を掴まれているせいで身体が微かに揺れただけで全く動かなかった。 静雄の一段低い声が鼓膜を振動させた。 これ、女なら一発で子宮に届いてイチコロなのではなかろうか、と意味の無いことを考えながら臨也は縮こまる。 「手前、俺がそんなに嫌か?」 条件反射でこくこくと頷き、臨也は腕を引いた。すると、力強く握られていた筈の腕がするすると動く。 「?」 臨也は掴まれて血の気が失せた腕を擦りながら、うっすらと目を開けた。 案の定、話しながら徐々に力を込められていった腕にくっきりと赤い跡が残っている。しかしそれ以上に、自分にそんな跡を着けた張本人の姿が目に入った。 静雄は静かに臨也から離れ、やり場がないようにがっくりと項垂れている。 「……だよなぁ……」 そして臨也が彼と出会ってから一度も聞いたことの無いような湿った声で静雄が呟いた。哀しみと諦めと自分に対する情けなさからくる苛立ちの混ざった声だ。 静雄は自分の両手を見つめ、ぎゅっと拳を作る。 「………………シズちゃん?」 一連の流れの中で、自分に非は無いはずである。それは確かに、結婚をする気も無いのにそれを仄めかす言動で静雄を騙した事に関しては完全に臨也の非だ。 しかし、しかし、だ。いざとなってそれを渋った臨也に先に手を出したのは静雄である。世の中にはマリッジブルーという言葉もあるではないか。婚約者(仮)がマリッジブルーになったからといって殴る男がどの世界にいよう。少なくとも自分は殴らない、と臨也は密かに思っていた。 とはいえ、いくらマリッジブルーと言えど、高跳びをしようと思ったのは流石にやりすぎだっただろうか……。 そこまでの思考に行き着いて、不意に臨也ははっと気がついた。 (つか俺なんでシズちゃんと結婚する方向になってんの!?) それだけはない。あり得ない。 臨也はブンブンと頭を左右に振り、今までの思考を消そうとした。 しかし、だ。今までに無いくらい暗く、落ち込んでいる静雄を前にして、臨也は揺れていた。 この静雄を見ていると、本当に静雄は臨也の事が好きなのではないか?と思えてくるのだ。でもそれはあり得ないのだ。 「シズちゃん。……ねえ、あの、シズちゃんはさ、本当に」 あり得ない。あり得ない。だがしかし、何千万分の一という確率だって確かに存在するのだ。偶然を愛する臨也が、ここまでお膳立てされた偶然の行方を逃してなるものか。そう理性では思っているのに口が開かない。 例えこれがたちの悪い静雄の嫌がらせだったとしよう。それなら昨夜、手を出して来なかった理由も納得がいく。ならあの門田作のウサギの置物はどうだろうか。それもよく考えたら臨也をからかおうとした九十九屋が静雄に力を貸したという事も考えられる。チケットの事もあるし、何せウサギの置物の行方をいち早く知っていた奴のことだ。可能性は充分にある。 いつもの臨也ならば、猪突猛進、単純明快な静雄の策にハマったとしても、静雄の癖によくやったものだと高笑いしてうえで千倍返しにして逃げるはずだ。 ならば、何故口が動かないのだろうか。 臨也は頭を抱えた。 もし騙されていたら?その時はその時で笑えばいい。静雄の癖によくやったと大笑い出来るだろう。 しかし、笑える気がしなかった。 もし静雄に騙されていたとして、今までまんまと引っ掛かっていたのは事実なのだ。 うっかり静雄が格好いいだとか、一瞬抱かれてもいいと思った事が全て静雄の思惑に乗せられたことになる。 そう考えると、腹立たしい筈の出来事なのに、何故かずきずきと胸が痛くなった。 あり得ない事が起きていて、それは自分が思っていた通りの事実だったというだけの話なのに。 「シズちゃんなんて……」 考えれば考える程、胸が痛くて堪らなくなる。 ああ、あれもこれも、全部嘘だったのか。 静雄にしてはたちの悪い、最悪な嫌がらせだ。 「さいあくだよ……」 なんて情けない。静雄に聞こえないような小さな声で呟き、臨也は項垂れる。 そして半ば自暴自棄になって顔を上げた。 つづく!! |