折原臨也は孤独か否か?



『そりゃ、まあ、孤独だろうな』
池袋の街角でサイモン・ブレジネフは誰に言うわけでもなく呟いた。
平和を好む彼は、目の前でぼろ雑巾のようになって蹲っている『それ』を見下ろしながら眉一つ動かさずに『それ』を片手で軽々と持ち上げた。
おおよそ170p強はあるであろう『それ』を、まるで猫の子供でも抱きかかえるかのように横に抱き、サイモンはそのまま人通りの多い表通りを避けてずんずんと歩き始めた。
長年の訓練で常人とは比べ物にならない程特化した五感で、鼻をひくりと動かすと、空気に交じって微かな血の匂いがした。元はロシアの傭兵だったとか社会主義党の軍関係者だとかそういった噂が実しやかに流れているが、あまり多くを語らない彼の過去の真実を知る者は誰もいない。
それは勿論、サイモンが今抱えているぼろ雑巾のような『それ』――――もとい、折原臨也であっても、だ。
たとえ、臨也が腕のいい情報屋であっても、ソースの存在しない情報など知る由もないだろう。
それに、サイモンの所属していた部隊は表向きには存在しておらず、サイモン自身、自分が母国ともいえるあの極寒の大地に『存在していたか』もわからないのだ。臨也が仮に国家機密レベルのデータまでハッキングできるような天才ハッカーを雇っていたとしても、呆れる程卑怯なこの男が、国際レベルの重大犯罪を犯すとは考え辛い。
つまり、彼の身元を知る唯一のニュースソースである彼自身が口を閉ざし続ける限り、彼の過去を知る者は少なくともこの『池袋』という街には存在していないのだ。
サイモンは人知れずひっそりと佇む小さなアパートの扉を開き、臨也をベッドの上にそっと座らせた。
「…………っつ」
体勢を変えた瞬間、臨也が柳眉を寄せ苦痛に歪んだ表情をしたが、固く閉ざされた瞼が開くことは無かった。
古めかしい外見とは裏腹に、こざっぱりとした―――と言っては聞こえがいいが、殆どベッドと申し訳程度の棚が備え付けてあるだけの殺風景な部屋である――――の、棚から消毒薬やら包帯やらを取出し、水を張った桶とタオルを数枚用意した。
土埃やその他よくわからないでぐちゃぐちゃのどろどろに汚れ、びりびりに破かれたコートを身体から引きはがし、濡らしたタオルで汚れた頬や腕を丁寧に拭ってやる。
「……っぐ、ぅ……」
眉を寄せ、顔を顰めた臨也の双眸がぱち、と見開く。
「サイモン?」
見知った黒人の姿に臨也は目を瞬かせ、口を開いた。
『ここ、どこ?』
臨也は思った疑問をそのまま口にすると、きょろきょろと辺りを見渡そうと首を動かした。
「…………っう、……いっ、たぁ……」
だがしかし、回した首がごきん、と悲鳴を上げ、臨也は痛みに悶絶するように呻く。
『サイモンの家?』
あえて臨也の疑問には答えず、サイモンは黙々と作業を続けた。
何枚かの汚れたタオルが床に積まれ、臨也は下着を残してほぼ裸も同然の姿でベッドに腰掛けている。
『これさあ……事の発端は粟楠会からの依頼で追ってた案件だったんだけど、最終的に行き着いた情報の先にどうやら俺の知り合いがいたみたいでね。そいつ、俺のせいで両手の指十本まるまる失くしちゃったみたいでさ、俺の事をいたく恨んでたんだ。それで数十人でフルボッコにされちゃった。酷いよね。
その粟楠に依頼されてたその情報っていうのが、海外からの密入国者を扱う人身売買組織だったんだよね。彼、そこの幹部っていうか、幹部の使いっパシリというか……をやってて、まあ元から、妊娠させた彼女のお腹蹴って流産させるような薬中のつまんないチンピラのダメ男だったんだけど、お金に困って薬のバイヤーみたいなこともやっててさ。あろうことか粟楠の赤林さんが仕切ってるとこで売っちゃったんだよね。しかも14歳の女の子に。
俺はその流産させられた彼女にその相談受けたんだ。「彼氏を助けてほしい」ってさ。健気だよね。自分はその男のせいで二度と子供が出来ない身体にさせられたのに。若いから関係ないと思ってるんだよね。「赤ちゃんできないからいっぱい中出してもいいんだよ」とか言うの。俺、笑っちゃった。だからさ、俺、彼女の彼氏に教えてあげたんだ。「粟楠会の赤林さんはとってもとってもいい人だから“誠心誠意”謝ればきっと許してくれるよ。不安なら俺もついて行ってあげる」って。彼さ、本当にとてもおバカさんだったらしくて、それ本気にしちゃって床におでこ擦りあわせて「すんませんでした」って謝ったわけ。あの粟楠の赤鬼に。もうお腹がよじ切れるかと思ったよ。笑いをかみ殺すので精いっぱい。
……でもそんなんで本当に許してもらえる訳なくって、ま、彼は彼なりの“誠意”をみせたわけだけど。そんなおバカさんがよくあんなところに生きてたなあって感動したよ』
よくもそんなに口が回るものだと感心させるほど、臨也はよく喋った。
流石に普段からあの平和島静雄とやりあっているせいか、見た目よりもよっぽど頑丈ならしい。骨はどこも折れておらず、捻挫と打撲と脱臼、大小の擦り傷切り傷ばかりである。
サイモンはペラペラと流暢なロシア語で喋りまくる臨也の言葉を無視し、さもこれが自分の仕事であるかのようにてきぱきと手を動かし続けた。
しかしながら、大したことは無いとはいえ切り傷の中には酷く出血しているものもあり、臨也があの路地で力尽きていたのはほぼ、これらの出血が原因だと思われた。
失血死するほどの量ではないとはいえ、その状態で走り回っていたのだから当たり前だろう。
たとえ追手を振り切ったとしても池袋に行けば静雄がいる。逃げても逃げても臨也には常に命を狙う敵が付きまとい、それをあざ笑うかのように振る舞う。その行為が臨也自身の首を絞めることになっているのだ。
『……こんな事を続けているといずれ死ぬぞ?』
やがてサイモンがゆっくりと重い口を開いた。
『やだなぁ。君、前に俺の事思いっきり殴った癖に心配してくれてるの?優しいなあ、サイモンは』
『命を粗末にするな』
はぐらかすようにけらけらと笑う臨也とは反対に、サイモンはいつもの寿司屋の客引きの雰囲気とは全く違う低い声で、冷たく、唸るように言った。
『俺の人生じゃん』
『お前が死んだら悲しむ奴がいるだろう』
サイモンは臨也の双子の妹を思い浮かべた。
あの双子は口では兄に向って死ねだの殺すだのと物騒な事を言っているが、決して兄の事を憎んでいるわけではない。サイモンの働く寿司屋にもよく訪れる彼女たちをよく観察していればわかる。
『わあ!それって誰かな!両親?それとも九瑠璃と舞流?新羅はないよね。ドタチンかな?まさかシズちゃん?それはないない』
大げさに手を振って否定する臨也を見つめながら、サイモンはこの寂しい孤独な青年に心の底から同情した。
『俺は死なないよ。だって死ぬの怖いもん。生きていればみんな俺の事覚えててくれるけど、俺が死んだらみんな忘れちゃうだろう?俺がみんなの事をどんなにか愛していたかなんてさ』
『忘れないさ』
『どうしてサイモンにそんな事が言える?君はみんなの心の中が覗けるわけじゃないだろう?それなのに他人の本心なんて語れるわけないじゃないか』
臨也は自分で建てた理論を自分で崩すような言葉遊びを続けながらくすくすと笑う。
本当にかわいそうなやつだ。臨也は愛を語っているが、奴は本当の愛と言うものを知らない。否、愛することは知っているのだろう。愛で、慈しみ、愛おしいと思う心が愛だ。
だがしかし、臨也の愛は歪んでいる。
何が原因でそうなったのかはサイモンの知るところではないが、臨也の愛は相手に伝わらない愛である。相手に全て伝える事だけが愛ではないが、臨也の愛は重い。
どんなに幸せな家庭で育った人間でも、人はいくらでも人に対して残酷になれるということをサイモンは身を持って体感していたが、臨也は少し違う。
臨也は愛している、つもり、なのだ。