企画『プラタナスの木漏れ日に』提出作品
※35歳シズイザ







僕たちは日常を過ごしている。



「シズちゃん、つり橋効果って知ってる?」
ある日の朝のことだった。テーブルごしに見慣れたシズちゃんと向かい合って食後のコーヒーを啜っていた俺は、不意に声をあげた。
「知らね」
シズちゃんはバターとイチゴジャムたっぷりの、見た目だけで一日の接種カロリーを半分は行ってそうなトーストをかじりながら目だけをきょろりと動かして答える。
シズちゃんの髪は10年経ってもいまだに金髪だ。
まあ似合うからいいけれど。

――あ。寝癖。

ふと見ると、シズちゃんの傷んだ金髪が変な方向に跳ねていた。
「シズちゃん寝癖ついてるよ。…えー、結構有名なのにぃ」
「聞いたんだから知らなくてもいいだろ」
跳ねた髪を手で押さえつけ、シズちゃんは少し照れたように口を尖らせる。
「だからね、つり橋効果っていうのは、命の危機とか怖いことがあると心臓がドキドキしちゃうじゃない?そのドキドキを恋愛のドキドキと勘違いして恋が始まっちゃうってアレです」
「なんねぇだろ。普通」
がぷ、とシズちゃんがまたトーストを食べる。
あんなにカロリーが高そうなのにシズちゃんが本当に美味しそうに食べるものだから気になって仕方がない。
もう俺たち若くないんだからさ。いや、シズちゃんは相変わらずあり得ないほど運動しているからいいのかもしれない。
「いやいや、それがね、あるんだよ。知らないの?心理学でも実証されてるんですーシズちゃんってバカじゃないけど学がないよね」
シズちゃんの眉間がぴくりと歪み、不機嫌そうな目で睨まれた。相変わらず短気だと思う。長い長い付き合いの俺でもそう思うのだから、それはそれは相当のものじゃないだろうか。

シズちゃんとは25の時から付き合い始めたから、もう10年も一緒にいる。高校からいがみ合ってた時期も含めると20年?
人生の半分以上じゃないか!
それに付き合ってすぐに一緒に暮らし始めたから、10年間ほぼ毎日シズちゃんと一緒に過ごしていることになるだろう。
我ながらよく飽きなかったものだ。

「短気だなー!別に貶してないだろ」
俺はそれに不満を洩らしながら、シズちゃんのカップに手を伸ばす。
ゲロみたいに甘いカフェオレだ。もう慣れたけれど、シズちゃんの淹れる甘いコーヒーに対して、俺は一言物申したい。
糖尿病とかになったらどうするんだろう。タバコも実は少し控えてくれないかな、と思っている。
俺は子供が産めないから、この先病気をしても、俺かシズちゃんのどっちかが先に死んでも、看取ってくれる人がいないのだから。
「それでさぁ、続きなんだけど……」
俺が言い終わるや否や、シズちゃんはあっという間にジャムトーストの最後一口をぱくんと頬張る。
相変わらず良い食べっぷりだ。
「俺たちって絶対それだと思うんだよねぇ」
「はぁ?」
カフェオレを飲み干したシズちゃんが首を傾げる。
ビクターの犬にちょっと似てる。
「だって俺たち、10年前までずっと顔を見れば自販機投げたりナイフ投げたりして殺しあってたんだよ?それが今さら一緒に暮らしてるとかさぁ……あり得なくない?」
「あり得ねぇだろ」
間髪入れずにシズちゃんが言った言葉に納得する。
「でっしょ?」
「違ぇよ」
「はぁ?」
口直しに自分のブラックコーヒーを啜りながら、俺も首を傾げた。
「だって別に俺、手前の事怖ぇとか思ったことねぇしよ」
「はあ?別に俺だってシズちゃんが怖いとか一回も思ったこと無いしね!化け物化け物とは思ってたけどさ」
「ならあり得ねぇじゃねぇか」
「えー?だからなん……あ」
「な?」
そうか。
思わず言いかけた言葉を飲み込み、俺は声をあげる。
よく考えたら俺もシズちゃんも別にお互いの事を怖いと思って無いんだから、つり橋効果にならないじゃないか。
「それって、え?それじゃ俺たちはなんでくっついてたわけ?」
「知らね」
疑問いっぱいの俺を残し、シズちゃんがガタンと席を立った。
「手前も食うか?」
冷蔵庫に入ったアロエヨーグルトを手に、シズちゃんは席に戻ってくる。
それ俺のじゃん。
あーあ、楽しみにしてたのに。
シズちゃんからヨーグルトを受け取り、俺は口の中だけでもごもごと文句を言う。
「つかよ、今の話の続きな」
「ん?」
さすがに10年も一緒にいるともなれば、シズちゃんの性格がわかってくるもので。
シズちゃんは意外と、ひとつの話題についてじっくり話すのが好きだ。(あまりにも納得できない・理不尽な主張には怒るけれど)
ヨーグルトを食べながら俺はシズちゃんの言葉に耳を傾ける。
「ならそれって普通なんじゃねぇか?」
「普通?俺たちが?」
「“俺たち”じゃねぇよ。……あー、なんつったらいいんだ?」
シズちゃんはがしがしと頭を掻きながら、頭を捻っていた。
その様子を見ながら、俺はヨーグルトを口に運ぶ。
「だからよ、別に怖くてドキドキを恋とかのドキドキだと勘違いしたんじゃないなら、そりゃなんで手前にドキドキしたかって、普通の……いや、普通に手前にドキドキしたんじゃねぇの?」
何故か頬を赤らめながら目を逸らしたシズちゃんは、食べ終わったらしいヨーグルトの空きゴミを、ゴミ箱に捨てる。

さっすがシズちゃん!
話が飛ぶね!

「……俺に普通にドキドキって、つまり……どういうこと?」
話がわからない俺は、ヨーグルトを食べながら首を傾げる。
まあ本当は二人で食べようと思って二つ買っておいたんだから良いんだけどね。
「だからよぉ……要するに俺らは何の勘違いもしてねぇっつーことだろ?……だから、それはその崖っぷち効果?とかじゃなくて、普通の、普通に恋愛したってわけじゃねぇのか?」
なるほど。
でも『崖っぷち効果』じゃない。『つり橋効果』だ。まあ似たようなものだけど。
たどたどしい口調で説明された言葉に納得しながら、俺は口の中でもごもごとスプーンを動かした。
「……シズちゃんにしてはよく考えたねぇ」
「“にしては”ってどういうことだよ」
コーヒーのお代わりをカップに入れ、席に戻ってきたシズちゃんは口を尖らせながら椅子に座る。
「じゃあさ、普通に恋愛って?俺たちって一体いつから恋愛になったのかな。だって10年前はお互いに凄く嫌いだったじゃないか。そこから今に至るって?何かきっかけは?」
ヨーグルトの最後の一口をスプーンに集め、俺は感じた疑問をそのまま口にした。
シズちゃんのカップからは芳しいコーヒーの薫りが香ってくる。
「きっかけなんてもの、別に無ぇだろ」
シズちゃんはしれっと言い放ち、コーヒーを口に含む。
30を越えて、ブラックが飲めるようになったらしく、最近では俺の秘蔵の豆にも手を出してきて大変だ。
前までは「コーヒーなんてどこが旨いのか」とかなんとか言っていたくせに、一度美味しいコーヒー屋さんに連れていったら、シズちゃんは途端にシェーキ党からコーヒー党に変身した。
俺の視覚的にも後者の方が渋くて好きだから良いのだが。
「でも俺は別にシズちゃんのこと嫌いだったよ?それはシズちゃんもでしょ?きっかけが無いならじゃあ、俺たちがなんでこうなかっていう原因は無いってこと?自然発生したの?」
自然発生はあり得ないと漠然と思った。だってあまりに不自然じゃないか。
自分で言って自分で突っ込んだ。
いやむしろ嫌いすぎて好きになったとか?……どちらかというと、そちらの方が信憑性があるかもしれない。科学的にどうなのかはわからないが、学術的には到底解明できそうにないあの首無しやシズちゃんがしれっと存在するのだからあり得るかもしれない。
「……おい」
悶々と考え事をしていた俺に、シズちゃんが低い声で問いかけた。
「……じゃあ、なるべくしてなった……っつー説はどうよ」
「運命論?俺、運命は信じてないよ?」
「違え」
「運命じゃないの?」
シズちゃんの言っている言葉の意味がわからず、俺は、うーん……と腕を組ながら唸った。
こういうところがあるからシズちゃんはただのバカじゃない。
「運命じゃねぇよ。つか本当に嫌いあってたかなんて主観だけの判断でしか無えだろ。なら元々嫌いか好きかなんてなんの証拠も無えじゃねぇか。……でも結果的に俺たちはこうなったわけだ。結果は変えられ無えから、それは、元々こうなるようになってたって事だろ」
「おお……」
シズちゃんすごいじゃないか。
一瞬、それが正しいように聞こえたよ。
よく考えれば穴だらけの論理なのだろうが、あまりにもシズちゃんが自信たっぷりに言うから、穴だらけでも正しいように聞こえる。
「……というか、シズちゃん、なんか俺に似てきたよね」
「あ?」
「ううん。なんでもない。……つまり、俺もシズちゃんもお互いにお互いのことが元から気になってたってこと?」
不穏な一瞬の空気を消し去り、俺は首を傾げた。
「だろ」
……ふむ。
シズちゃんはコーヒーを飲みながらこくりと頷く。
そうか。俺はシズちゃんのことが元から好きだったのか。
それなら今こうしていても納得できる。
「だとしたら10年前の俺たちは、相当若かったねえ」
「まあな。20代だしよ」
……そうかそうか、なんて納得しながら、俺は自然に上がる口角に気がついた。
気がついてはいたけれど別に気にしない。なぜなら俺たちはもう見栄も意地も関係が無い大人だからだ。
「なんか照れるね」
コーヒーのお代わりをもらうべく立ち上がった俺は、ちょっと笑いながらシズちゃんを見た。
相変わらずシズちゃんは赤い顔をして、照れたように俺から視線を逸らしている。
俺は空になったシズちゃんのカップを手に取り、自分のカップの隣に並べて新しいコーヒーを注いだ。
三杯も飲んだら、朝からお腹がたぽたぽになるかもしれないが、あと一杯くらい俺に付き合ってもらおうではないか。
だって俺はまだまだ話し足りない。
もっと俺と話そうじゃないか。これからも。
そう考えると何故かたまらなくなって、つい俺はニヤニヤしながら口を開いた。
「これからもよろしく、シズちゃん」
「あ?」
赤い顔をしたシズちゃんがこちらを振り向いた。
その顔が面白くて俺は思わずけらけらと笑った。







fin