扇風機が生ぬるい夏の風を悪戯にかき回していた。
外ではジワジワと都会に似つかわしくないアブラゼミが必死に夏を食んでいる。

「あついよー」

あー、と、見るからに暑苦しい黒ずくめの男が、この部屋唯一の扇風機の前を陣取って何やら言っている。
俺はそれをなるべく視界にいれないように背を向けて団扇を扇いだ。

「ねーシズちゃーん、あつい」
「んな格好してっからだろ」
「じゃあ脱いでるとこ見たい?」
「なんでそこで『じゃあ』になんだよ」
「折原さんのストリップショー?」
「アホか」

軽く脇腹を小突いたつもりだったのだが、予想に反して臨也は大袈裟に腹を押さえてごろごろと転げ回った。
しかし、奴は大抵いつも大袈裟なので今回も大袈裟に反応しているだけなのだろう。

「し、シズちゃんさぁ……俺のこと本気で涼しくしちゃう気?本当に穴開くかと思ったよ」
「大袈裟だっつの。いくら俺でも軽く小突いただけだぞ」
「はぁ?……じゃあいいさ。見てみろって。これ絶対痣出来てると思うな俺的に」

そう言うとおもむろに半身を起こした臨也は、べろんと黒いシャツを捲りあげて腹を出す。
露になった奴の白い脇腹辺りには、確かにくっきりと俺の手刀の痕が赤く残っていた。

「手前が弱すぎんじゃねぇの?」
「まぁねーシズちゃんならそう言うと思ったよ。あー痛い。でもすずしー」

捲りあげたついでに扇風機の風で服を膨らませ始めた臨也は、目を細めて言った。
ガキか、とも思うが同時に奴がそこを陣取っているとこちらには全く風が吹いてこないと言うことに気がつく。

「おいノミ蟲、邪魔だ」
「……」

臨也は途端にだんまりを決め込みそっぽを向いた。あまつさえ人の神経を逆撫でするが如く口笛まで吹き始める。

「おい」
「なになに聞こえないなぁ」
「…………うぜぇ」
「ひどっ」
「聞こえてんじゃねぇか」

耳を捻るように引っ張ると、臨也は「あだだだだだだだだっ」という尋常でない悲鳴を上げて扇風機から離れたので、今度は俺が同じように扇風機の前に陣取った。
こりゃ確かに汗を乾かせるうえに風通しがよくなって涼しい。

「ちょっとーズルくない!?」
「ズルくねぇ」

ズル賢さの権化のような奴が何を言ってやがる、と何やら喚いている臨也を無視する。

「凶暴な上に横暴だなんて最悪すぎるから大人しくそこを俺に明け渡しなって悪いことは言わないからさぁ」
「うぜぇ」

横暴も何もここは俺んちだ。
先程とは打って変わって気色悪い猫なで声ですりよってくる臨也をひっぺがし、束の間の心地よさに浸る。
これでこの五月蝿いノミ蟲が黙って静かにしてりゃ最高なのだが……。

「やだやだあーつーいー!!」
(暑さで脳ミソ沸いてんのか?こいつは)

あろうことか子供のように手足をばたつかせながら暴れ始めた臨也にぎょっと目を剥く。
俺の借りている部屋はあくまで普通のアパートで、新宿の中心地という家賃の馬鹿高い場所に無駄に広い部屋を構えているどこかの誰かとは違うのだ。
騒げば下の階に響く。それに170の男が手足をばたつかせたりなんかしたものならば、それこそ回りの物が目茶苦茶になる。
案の定、部屋の隅に積み上げておいたプロレス雑誌の塔が雪崩を起こした。

「やーだーあーつーいー!!!」
「五月蝿ぇ!黙りやがれ!あと暴れんじゃねぇ!」

ゴツッ
と、鈍い音をたて、俺の拳が臨也の頭に降り落とされた。
途端にしーん……と、静かになった黒ずくめの身体を前にして、安堵する。だが同時にひやりと背筋が凍った。奴が動かない。
咄嗟にわしゃわしゃと黒髪を掻き分け、殴った所を見るが幸い血は出ていなかった。(瘤にはなっていたが)

「おい大丈夫か?」

しかし問いかけには全くと言って良いほど答えない。
しかも完全にうつ伏せの状態で倒れているため、表情も窺えず俺は柄にもなく非常に焦った。

(まさか死んでねぇよな?)

もしも殺してたら幽と両親やじいちゃんばあちゃんに申し訳がすまねぇ。
とりあえず新羅を呼ぼう、と携帯を取り出した時だった。

「…………ぐす」

ぴくり、と臨也の腕が微かに動く。

「おい!」

慌てて臨也の肩を掴むと、臨也があろうことかとんでもない顔で振り向いた。

「ぐずっ……しっしずちゃんの、どあほぉぉ」

まず、倒れた時に鼻をぶつけたのか両方の鼻の穴から大量の鼻血を垂らし、さらにそれが頬を伝った涙と混ざり、果ては涎だか何だかが顔面中にべったりと貼りついていた。
しかもそれが畳の上に落ち、赤黒い水溜まりを作っている。
げえぇ、と蛙を踏み潰した時のような声が思わず洩れ、慌てて洗濯物の山からタオルを引っ張り出して臨也の顔面と畳を拭いた。
果たして血と言うものは落ちるのだろうか。

「〜!!何泣いてんだよ!手前は餓鬼か!」
「………ひっ、ぐずっ、いたいよぉーしずちゃんのばかぁ……あほぉ……脳筋ー……」
「喧嘩売ってんのか?」

ビキ、と頭に血が登る音がしたが、臨也の泣きっぷりが余りにも凄まじいのでなんとか衝動を抑えた。

「…………」

それから数分、俺は臨也の鼻を押さえてやりながら、相変わらずぐずぐずと泣いている臨也の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫でた。
なんとなく沈黙が続き、部屋には臨也のすすり泣きの声だけが響く。
そういえばこんなにもこいつが静かなのはだいぶ久しぶりだ。

「訳わかんねぇし……つか、泣くんじゃねぇよ」
「……びふっ」

返事の代わりに臨也は顔を埋めたタオル越しに小さく噎せた。
ここまで大人しければさすがにクソノミ蟲でも少しは可愛げがある。
そういや幽も昔はよく鼻血を出したなぁ……等とそんな昔をふと思い出し、ふっと笑った。
すっかり手持ちぶさたになってしまったので、先日買った空気清浄機のスイッチを押し、煙草の火を点けた。

「……シズちゃんくさい……」
「ああ?」

不意にタオルの間から泣き止んだらしい臨也が顔を上げた。
どうやら鼻血は止まったようである。
こいつのせいでタオルが2枚も駄目になった。最悪だ。

「……あたまいたい」
「あん?」

わしゃわしゃと頭を探ってやると、殴ったところの瘤が確かに熱くなっている。
さすがに強く殴りすぎたかと、大人しい臨也につられて若干反省した。
そして血が固まって酷いことになっている臨也の顔をタオルで拭いてやり、ある程度汚れが落ちたところで新しいタオルを渡してやる。

「………びぇ」
「だああ!だから泣くんじゃねぇよ!」

タオルで涙を擦ってやると臨也が呻いた。タオルを離すと擦った箇所が赤くなっている。

「……目ぇいたい……あたまもいたい……のどかわいた……シズちゃんなんてだいっきらい……絶対ストリップなんか見せたげない」
「安心しろ。俺もだ。あとんなもん別に見たかねぇっつの」
「しねよ、シズちゃん」

ぐじぐじと未だに鼻をすすっている臨也にタオルを押し付けてやりながら、窓から部屋を通り抜けていく涼しい風が俺の頬を撫でた。


(夕メシはこいつの奢りだな)


ふとそんなことを思いながら俺はゆっくりと紫煙を吐き出した。


おわり