call me | ナノ


※大遅刻いざたん




田中トムは思慮深い人間である。

折原臨也は常々そう思っていたのだが、どうやらそれは認識の誤りらしい。
田中トムという人間ほど適当で、曖昧で、その場しのぎな人間も居るまい。
GW明けの週始まりというだけあって、外はスーツ姿のサラリーマンたちが額に汗して働いている。そんな素晴らしい労働開始日和に、臨也は暇を持て余していた。
臨也はスライド式の携帯電話の電源を切り、その場で田中トムに関する思考を止めた。これ以上は時間の無駄である、と判断したのだ。ノートPCを開き、ネットにアクセスする。予想外に時間が空いてしまったので、チャットでもやろうと思ったのだ。仕事をする気分ではなかった。誰かととりとめの無い暇つぶしの会話でもしたい気分だった。しかし、案の定チャットルームには臨也以外の誰も居らず、臨也は嘆息をついた。仕方あるまい。GW中とは違い、今は平日の真昼間だし、チャットルームの住人はその殆どが学生である。社会人(?)もいないことはないが、そんな彼女も平日の昼間からチャットで遊んでいられる程暇ではないらしい。
かくいう臨也も、何も最初から暇だった訳では無かった。普段の彼は、情報屋という仕事をしているだけあって割と忙しい毎日を送っている。生き物のように変化していく情報を捕まえる作業に定時も休日も無い。情報収集に、クライアントからの依頼に対する調査結果の書類製作、やる事はごまんとあるのだ。臨也は滅多に休日を取らない。稀に仕事が無い日はあるが、このように暇を持て余すことなど殆ど無いに等しい。よって、今日のような日はイレギュラーなのだ。
池袋での事象に最も近い一般人としての田中トムはといえば、だ。借金の取り立てを生業としている彼は、債務者が自宅に居る可能性の高さからGW中はずっと出勤だったらしい。世の中における大型連休が終了してからようやく取れた休日が今日だった。
連休中に誕生日を迎える臨也に祝いの言葉をかけられない代わりに、連休が明けたら一番に会いに来ると言っていた。そして臨也は健気にもそれを信じ、待っていた。前日には部屋を掃除し、つまみと酒を用意して、待っていたのだ。
それなのに当日、約束の時間になっても現れないトムから着たものは、件名なしの本文『いけなくなった。仕事。すまん』の一行のメールだった。

仕方ないので一人チャットでもして暇を潰そうかとデスクトップPCの電源をオンにして、別段他人を装うメリットもデメリットもないと虚しくなり、PCの電源を落とした。机に突っ伏して女々しく溜息を吐く。
(トムさんなんで電話くれないの……)
―――― 今日休みだって言うから折角同じ日に休みにしたのに。
―――― 一緒にDVD観るって言ったじゃん……。
空しいと思う心と、腹立たしいような感情が交じって心臓が痛くなる。あんなの所詮口約束だ。破られても仕方ない。しかし、しかし、だ。直前になってから『仕事』では、流石にあんまりだろう。しかもあのような電報のようなメールだけを寄こされて気分が良いわけない。
(……って、俺は女子か)
そんな事でくよくよしている自分は余りにも女々しい。女々しすぎて涙が出る。それでも得意の詭弁で自分を納得させる気力にもならなかった。
はやくかえってきて、打ちかけた言葉をクリアキーで消し去り、こんなのはキャラじゃないと自分を納得させる。
よくよく考えてみれば、彼はあのいけ好かないバーテン男の上司なのだから池袋に行けば容易に会える筈だ。ここから駅まで徒歩5分、そのあと埼京線で池袋まで約10分、値段にして150円。さして遠い距離じゃない。子供の小遣いだって行ける距離だ。でも、行きたくない。
(もういい)
そうだ、会いたくない。会いたくないのだ。それが今の自分の心境を語るに相応しい。最も心境と言葉が合致している。
池袋に行けば高確率であのバーテン男に遭遇するだろう。なぜなら奴は『臭ぇ』などと理不尽かつ意味不明な高感度なレーダーで自分を探し当てて来るのだから。そんな探知機能など当然装備していない臨也には回避する手立てはない。ひたすら情報と自らの脚を駆使して逃げるのみだ。
(臭いなんてさ、言われたくないよね。トムさんの前でさ)
仮にも好意を抱いている人間の前で『臭い』だの『蟲』だのと罵られて、喜ぶ人間などいるのだろうか。いや、いる筈がない。いくらあのバーテン男が脳筋で、単細胞で、同じ言葉の羅列しか能の無いボキャブラ貧困野郎だとしても、憎からず想っている人間の前で言われた日には、悲しくて恥ずかしくて、いくらキャラじゃないと言われようとも泣きながら逃げ出すくらいのことはしてしまうだろう。ヒマラヤ山脈よりも高いプライドを持つ臨也ならば決して泣いたりはしないが。だから臨也は池袋には行けない。少なくとも、トムとこういう事になってからは一度も行っていない。仕事での用事も、プライベートでも、池袋の繁華街は尽く避けて来た。
(あいたいなぁ……)
トムについてそう思う度に、臨也は己の心境について驚く。だって、あの折原臨也が人間に対して、まっとうに恋をしている。そんな事は今までなら絶対にありえない事だった。
電話をしようか、メールをしようか、先ほどからぐるぐると回り続けている思案は、実行に移せないまま保留し続けている。
(なんですきになったの)
(なんでつきあってくれるの)
付き合い始めてから何度か喉を出かけた言葉だった。ぐるぐると廻り続ける思考にストップをかけたくて、携帯電話を握りしめたまま何度も何度も言葉を書きかけては消す。拗ねて『もういい』と唇を尖らせることもできない。自分はあの感情任せにどなり散らす男ではないから、彼を困らせたりはできない。
いっそ携帯電話を放り投げてしまおうかと、立ち上がった瞬間だった。
凄まじい爆発音と共に部屋がぐらりと揺れる。思わずたたら踏んだ臨也は、目を白黒させながらたった今起こった突発性の地震の原因について思案を巡らせる。
「いいいいいいいいざあああああああああやああああああああ……」
地を這うような怒気を孕んだ低い声に、辟易として溜息を吐く。借家であるマンションを破壊されるのは一体何度目だっただろうか。望んだ待ち人との関係性は微かに掠る。しかし、決して呼んではいない、そんな化け物の到来に臨也のアンニュイは加速していった。
どかどかと近づいてくる荒い足音の様子から推測するに、あの化け物はもうスピードでこの部屋に向かっているらしい。隠し扉から逃げる事も可能だが、人間に会いたくない。これはいっそ一発殴られて気絶でもして、あの化け物の良心を精神的に痛めつけた方がよっぽど良策だと思えた。
その時、ぷるる、と鳴った携帯電話に臨也ははっと我に返る。
『静雄行った止められなかったすまんおいかけてるからすぐ出てこい』
句読点がひとつもない、電報のようなメールに、臨也はすぐさま駆け出した。近づいて来る足音、比例して上がる心音。


「トムさんっ……!!!!」