世界が終わるその時は 「や」 鼻の頭と頬を真っ赤にしながらドアの前に立つ黒ずくめの男の姿に、外はえらく寒いな、と思った。 ドアを開けたままにしているおかげで、暖房のぬるい風と外の冷たい風が混ざり合って、夏場のクーラーのような肌寒い風が半袖の肌にぬるりとまとわりつく。 一見すると首なし妖精の発する影のような黒ずくめの男、もとい臨也は、冷えて指先が真っ赤になった手でコンビニの袋をがさりと顔の横まで持ち上げ「飲も」と一言そう言った。 「はやく、いれて」 臨也が言葉を発するたびに、臨也の薄い唇から紫煙のような白い水蒸気が細く溢れる。 臨也が部屋のインターホンを押してからものの数分しか経っていなかったが、冷たく重い空気は足元から部屋に流れ込んできていて、裸足の静雄の足先の体温を急激に奪っていく。 「おでんかってきた」 「冷めてんじゃねえだろうな」 「あっためてよ」 静雄の頭一つ下で靴を脱ぎながら臨也が言う。冷えて固まった足とコンビニの袋で塞がった片手のせいで随分脱ぎ辛そうだと、静雄はコンビニの袋を受け取りながら思った。 袋越しにじんわりと手のひらに伝わる温度はまだ温かい。ずっしりと重いもうひとつの袋は、まるで冷凍庫から取り出したばかりのように冷たかった。 静雄は缶類が入ったそれを居間の炬燵の上に置き、おでんの入った容器をそのまま電子レンジに突っ込む。点けっぱなしのテレビからは弟の恋人である娘が、アイドルにしては物悲しいラブソングを歌っていた。 「外さあ、凄くきれいな下弦の月だよ」 玄関から聞こえてくる、間の抜けた声にああそうかとだけ答えを返し、元居た定位置にどかりと座る。 「きょう、いい天気だったからさぁ」 不意にずしりと肩が重くなった。見ると、靴とコートを脱ぎ終えたらしい臨也が背中にのしかかっている。摺り寄せてくる鼻の頭と頬ががとても冷たい。 「重ぇよ……つか手前冷てえ」 「シズちゃんあったかい。ちょっとくらいいいじゃん。体温ちょうだい」 「ったく」 静雄は奪われていく体温に眉根を寄せ、臨也の腕を掴んで、胸の前まで引き寄せて膝の上に乗せた。 「しあわせ。ぬっくぬく。シズちゃん、足冷たい」 「引っ付けんな。冷てぇ、殺すぞ」 「やだ死にませーん。シズちゃんが死んで。あとおでん温まった?」 「うぜ。ちょっと待ってろ」 膝の上の臨也を降ろし、電子レンジに入れたままのおでんを取り出す。ほかほかと湯気の立つそれを臨也の待つ炬燵の台に乗せてから、静雄は再び同じ場所に腰を下ろした。 「あっつ……君、何分チンしたのさ……俺猫舌なんだけどー」 「しるか」 当然のように膝の上に滑り込んできた臨也を横目に、静雄は臨也が買ってきたチューハイに口を付ける。アルコール度数が限りなく低い、ジュースのような甘い酒だ。 臨也は、好き勝手に買ってきたつまみの類を机の上にばらまき、猫のように目を細めながら静雄の胸板に頭をぐりぐりと押し付ける。 「んー」 手前は猫か、と静雄は言いかけ、ああノミ蟲だったと言葉を飲み込む。臨也は臨也だ、猫のようだがそこまで可愛げもない。本当に猫ならば少しは可愛いのだろうが、生憎ノミ蟲はノミ蟲で猫ではない。 相変わらず懐いている臨也の体温が、徐々に自分の体温と混ざり合って温くなっていくのを感じながら、冷たいチューハイを嚥下した。 「ねえシズちゃん、21日になるよ」 アルコールでほんのり上気した頬が、温まった空気で少し熱い。臨也が手を伸ばし、言った。 「それがどうした」 「あした世界が終わるんだってさ」 如何にも楽しげに臨也は笑いながら言った。この顔は、終末論なんてものを鼻から信用していない顔だ。静雄も勿論、マヤの暦の終末論などという話は頭から信用しているわ毛ではないが、臨也の馬鹿にしたような態度は気に障る。いっそ、こいつだけ本当に終末に巻き込まれてしまえばいいのに。 「なんで世界が終わる日に俺の所にわざわざ来たんだよ」 「世界の終わりに、最愛の弟でも親愛なる上司でも、親友でもない、大っ嫌いな折原臨也と過ごすサプライズをするため!」 「殺す」 「あとシズちゃんのそんな嫌そうな顔を見る為でもある」 「わかった死ね」 調子に乗っている臨也を膝から落とすと、カーペットにつっぷした臨也がブーイングの声をあげた。 「酷い! 大っ嫌いな奴と終末を迎えなきゃいけないのは俺も同じだっていうのに」 「手前は好き好んできたんだろ。嫌なら来るな。そんで死ね」 「シズちゃんが死ねよ」 頭をカーペットに抑えつけ、ぐりぐりと鉄拳をかましてやると、臨也が痛い痛いと叫んだ。 そのままぎゃーぎゃーと騒いでいるところに、臨也の携帯のバイブレーションの音が鳴り響く。 「あ?」 「12時なった」 もぞもぞと静雄の下から這い出て、携帯を手にした臨也は、振り返ってそう言った。バイブレーションを止め、窓の外を眺める。相変わらずの夜空に、街のネオンが星の代わりに瞬いていた。テレビの番組はいつの間にか、くだらない深夜のバラエティに切り替わっていた。余りにもあっさりとした終末の幕開けに、拍子抜けする。 「ラッパの音聞こえた?」 臨也が首を傾げて言った。 「聞こえねえ」 「富士山噴火は?」 「今の所無いな」 「……終わらないねえ」 「残念だったな」 「まあ、新しいマヤの暦、見つかってたらしいしね」 興味を失ったのか、携帯を投げ出し、再び炬燵に潜り込んできた臨也の身体は、ほんの数秒炬燵の外に出ていただけだというのに、少しだけ冷たくなっていた。 「実はみんな気付いてないだけで、とっくに終わってたりしてな」 「なら今の状態は夢? それとも新世界が始まったの?」 大きな欠伸をしながら、臨也が呟く。 「新世界だか夢だか知らないけど、旧世界がせっかく終わったって言うのに、全然変わらないね。シズちゃんの怪力、消えた?」 「そう簡単に消えるかよ。超能力でもあるまいし」 長年自分を苦めてきたこの力が、そう簡単に消えてたまるものかと、静雄はチューハイを煽った。最近は多少コントロールできるようになったとはいえ、少しずつ少しずつ変化して今の状態を作り上げた細胞が、急に普通に戻るはずがない。 臨也は「なんだ」とつまらなさそうに声を挙げ、眠そうに静雄に擦り寄った。臨也は自分をで巨大な抱き枕か何かのように扱うが、静雄も静雄で、臨也をカイロ代わりにしているので、対して扱いは変わらない。 「つまらないな」 本当につまらなさそうに臨也は言うと、静雄の膝の上に半身を乗せ、眠そうに眼を瞬かせた。その様子を見ていた静雄はふと思いついて、口を開く。 「世界が終わって折原臨也が消滅したら、俺は手前の事愛せるな」 「世界が終わったらね。俺も君が平和島静雄じゃなくなったらシズちゃんの事好きになれると思うよ」 まあ、本当に世界が終わったらの話だけどよ。 静雄はチューハイの缶の底に残った雫を煽り、ごろりと寝転んだ。擦り寄ってくる黒い頭を抱えて目を閉じる。電源ボタンのプッシュと共にぶつり、と途切れたテレビの音が、いずれ来る終末のようだと思った。 終 |