※パラレルでフィクションな静臨です
なんちゃって時代物なので実際とは大きく異なります。実際の出来事とは全く関係がありません。




夏をつれて友が来る。


臨也は茹だるような暑さの中、じわじわと耳障りな蝉の声を聞きながら急勾配の坂を登っていた。
半袖から出た白い腕を紫外線が容赦なく焼く。肌があまり強くないので帰ったらひりひりと引きつる痛みで地獄だろう。
今夜は眠れないかもしれないと考えるのと同時に、やはり無理してでも長袖を着てくれば良かったと後悔する。しかし後悔先に立たずとはこういうことだろう。
ただでさえ苛ついているというのに、この纏わりつくような鬱陶しい湿気が余計苛立ちを加速させた。

昭和17年――この時代、日本は先の日清、日露戦での華々しい勝利で勢い付いていた時であった。しかし日露戦で疲れ果てた兵力や、最早実権を軍部に握られていた皇室等多々の影を残しながら泥沼の戦争に足を踏み入れ始めた時代でもある。
しかし、軍に従事している人間ならともかく、臨也のような一般市民には凡そ実害は無い。

「やあ、久しぶりだね」
「遅ぇ」
「……これでも急いだんだけど」

不機嫌を露にする友人――平和島静雄に臨也は口を尖らせる。彼は全国津々浦々、漫遊の旅に出ていて夏の始まりには決まって帰ってくるのだ。

「君こそなんなのさ。この俺をわざわざ呼び出して迎えに来いだなんてさ。そうじゃなくてももう少し早く電報が打てなかったのかい?」
「忘れてたんだよ」
「なら無理して帰って来なくていいよ」
素っ気なく言い放つと静雄は気分を害したように眉を潜めた。
「それにしても……これまた酷い格好だ」
臨也は横目でちらりと静雄を見やり、はぁ、と溜め息を吐く。ぼろぼろの国民服に顔は髭が伸び放題。熊みたいだ、と呟いた。
「先に風呂入れよ……それに君……なんか臭う」
顔をしかめると静雄は心外だとでも言うように自らのにおいを嗅ぎ、それから納得したように頷く。
その瞬間タイミングよくぐう、と静雄の腹の虫が鳴いた。どこでどんな生活をしてたんだよ、臨也は横を歩きながら溜め息を吐いた。
「確か……君の好きなおはぎが拵えてあったと思うけど……」
伺うようにちら、と視線を遣ると、静雄が満面の笑みを浮かべている。
(……単純な奴……)
これは風呂よりも何よりも先におはぎに飛び付きそうだと、少々複雑な思いを感じて臨也は肩を落とした。
「……おはぎより先に君は先ず風呂。それからちゃんと髭もあたって」
機嫌の良い大型犬を連れているような気になって臨也は益々複雑な気分になった。

静雄とは大学時代に共通の友人を通して知り合った友人で、夏の間だけ臨也の家に居候している。
友人とは言っても理屈っぽい臨也と野生の勘で生きる静雄とでは考え方が違うのか互いに喧嘩ばかりしていたが、それでも気が付くといつも一緒に居る気の置けない友人だ。そして自分とは全く正反対の静雄に、臨也が惹かれるまで対した時間はかからなかった。

――――それから数年。臨也はその気持ちを静雄に打ち明けないままでいる。


「おい、おはぎ何処だ」
涼しげな藍染の浴衣に着替えた静雄は濡れた髪からほかほかと湯気を上げながら弾む声で言った。
髭をあたってさっぱりした姿は何処の色男かと思う。臨也は立ち上がり、お勝手の棚から小さなおはぎが沢山乗った皿を出す。
「美味い」
早速その中の一つを取り、満足したような顔をした静雄は頷いた。
「相変わらず波江さんの作るもんは美味ぇな」
波江というのは臨也の家に通っている手伝いのものだ。中々の美人だが臨也よりだいぶ年上で未だ未婚という変わった女性である。弟に現を抜かしている為臨也の家に手伝いとして通っているのだ。
臨也はと言えば、そこそこ名の知れた物書きとしてそれなりの収入を得ていた。因みに静雄の収入源も似たようなものである。
普段は国地を旅して回っているが、こうして塒へ帰ってくるとそれらの体験を手記にして出版社へ売って金を稼いでいる。
しかもそれが中々どうして売れているらしい。
兎角、独り身で収入もある臨也ならばそこそこの給金も出せるし何より家で弟ばかり構っていられるより健全だと言うことだろう。
そのような事情を差し置いても、波江は仕事が出来る有能な手伝いとして重宝していた。最近では臨也の仕事の秘書の真似事までさせている。

「……で、最近手前はどうなんだ?」
「どうって?」
「いや、だから分かるだろう……」
ごにょごにょと口ごもった静雄に内心、ははぁ、と合点を打つ。
「俺と波江は君が思ってるような関係じゃないよ」
呆れながら棚からおはぎと一緒に持ってきた麦茶を酒のようにあおると、臨也は静雄の反応を伺った。静雄はと言えば、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。

波江を手伝いに、と知り合いに持ち掛けられた時から何か別の魂胆があるとは思っていたのだが、正しくそれがこの話である。
嫁き遅れの娘を変わり者で独り者の書生に……とでも思っていたのか。全く迷惑な話である。しかも二人の見目が整ってる事から周囲も静雄のような反応をするから更に困っている。
言い切ってしまえば、臨也と波江には手伝いと主人という以上の関係は無かった。どちらかが一方的に……という事も有り得ない。何故ならば波江は臨也の想い人を存じていたし、臨也も波江の片恋の相手を知っているからだ。その二人が互いに慰め合う事など有り得まい。
臨也は複雑な思いを抱えて静雄を見た。
静雄は納得したのか「そうか」と頷くと黙々とおはぎを食べている。
「君……床屋に行った方がいいね……。襟足がだいぶ伸びてきてる」
手を伸ばして静雄の襟足に触れると、静雄は「ん」とだけ返事をした。無口なのはいつまで経っても変わらない。
「秋になったらまた何処か行くの?」
「そうだな……中東辺り行ってみようかと思ってる」
臨也は冷たい麦茶を啜りながらぼんやりと尋ねた。
「ねぇ、情勢も悪くなっているみたいだしさ……君もそろそろ旅に行くのは控えたらどうだい?」
さわさわと簾越しに生温い風が吹き込んできた。だいぶ日が伸びたものである。
静雄は気の無い生返事をすると臨也の手から麦茶の入ったグラスを引ったくって煽った。自分で入れれば良いじゃないかという臨也の言葉は右から左へと流れたようだ。
「そうだな……」
「国内はだいぶ剣呑な空気になってきたよ……。去年の奇襲から、日米の関係は悪化してる。俺は一応大学で研究してる事があるから学者として兵役が免除されるらしいけど、ドタチンなんかは戦争が始まったら召集されるみたい。新羅は陸軍病院に派遣されてるし」
静雄は二杯目の麦茶をあおりながら何かを考えているようだった。臨也は団扇ではたはたと温い空気をかき混ぜながらこのまま何処へも行かなければ良いのに、と薄く考えた。
「門田は軍に行くのか……」
そうぽつりと呟くと静雄は窓の外を見た。縁側の夕顔が薄紅色の花を咲かせている。臨也はふと、今日の夕飯は夕顔の御味御汁がいいだろうかと考えた。
「俺も……そうだな」
「……」
このまま何処へも行かなければ良いのに。
臨也は俯いていた。今の情勢で戦争等始めても二つの戦争で疲弊しきった日本に勝てる筈がない。数年で泥沼、敗戦に至るだろう。そうすれば必ず、静雄も門田も召集されていく。臨也にも戦争に関する研究依頼が幾つか来ていた。逃れられない。
「でも手前は行くなよ」
「何?」
「手前が出るようになったらいよいよ負けも近いって事だしな」
からかうような口振りで此方を見た静雄に臨也は首を傾げる。
「それどういう……」
「手前、弱ぇしな。手前なら出ても出なくても変わんねぇだろ。なら無駄死には少ねぇ方が良いに越したこた無ぇよ」
「は!?」
同じ男として聞き捨てならない言い草に臨也は眉を潜めた。別に臨也は弱い訳ではない。確かに体格は静雄や門田に比べれば華奢な方だが、それはあくまでも静雄や門田と比べた場合の話である。
「ちょ……」
「さて、腹もくちくなったし原稿でもやるか……〆切がやべぇんだよな」
静雄ははぐらかすように立ち上がると臨也に背を向けて、書き物用の机に向かった。
居間の片隅に設けたその台は、夏の間だけ下宿する静雄の為に作った物だ。静雄は原稿に勤しむ際何時もあの机に向かっている。
臨也は自分より広いその背中を見ながら、一体何時まであの背中が見られるのだろうかと考えた。
このまま行くと日本は必ず戦争を始める。
早かれ遅かれ静雄は出征していくだろう。自分ももしかしたら……わからない。その上遠方で戦死した場合は、遺骸が戻らない事の方が多いと聞く。運良く同じ時期同じ部隊に配属されたとしても、戦争が激化したら一体何時まで一緒に居られるのか。
否、万が一無事に帰って来られたとしても静雄はいつか結婚をして、この生活は否応なしに変わっていくだろう。それには耐えられる。しかし……
(その時俺は一体何年、君を待てば良いんだろうね)
臨也の独り言等知らぬ風がふわふわと居間に吹き抜けていった。
昭和17年七月の話である。