それはざぁざぁなんて生易しいものじゃなかった。まさに暴風雨と言うに相応しい。ごうごうびゅうびゅうとアスファルトに大きな雨粒を勢いよく叩きつけ、勢いで跳ね返った小さな水滴で足元はすでにぐっしょりと湿っていた。
そのくせ気温は梅雨らしく蒸し暑くて、濡れた部位が生暖かく張り付いて恐ろしく不快である。
こんなことなら新宿になど来るんじゃなかった。不快指数は既にメーターを焼ききっていて、特に何をしていた訳でも無いのに静雄の米神には青筋が立っている。バーテン服の黒いパンツは水分を含んで色が変わっていたし、革靴にもかかわらず雨水の滲みた足は靴下と革靴が摩れて熱を放ち、蒸れて暑い。その上くわえていた煙草の火は消えている。
ビニール傘なんてものはまるで意味を持たず、水滴のついたサングラスはただ視界を遮るだけの何者でも無かった。それが余計に苛々を助長する。静雄は思わず傘の柄を握り潰しそうになる衝動をどうにか堪え、歩速を上げた。
「ノミ蟲ィ……今日こそブッ殺す」
そんな物騒な事を呟きながら、バーテン服を着た不機嫌を体現化した池袋の自動喧嘩人形は新宿の情報屋邸へと急いだ。


******


「うわぁ、今日はすごい雨だね」
一方、新宿の情報屋邸では、その部屋の主である折原臨也が窓の外をブラインド越しに見ながら喫驚の声を上げた。
「これは外出なくてよかったねぇ、波江」
そしてデスクに向かって淡々と仕事をこなす秘書に向かって無邪気に笑う。秘書である波江はそんな雇い主を一瞥し、無言のまま手元の作業に視線を落とした。
「君ってさぁ本当につまらない女だよね。『きゃ☆本当ですぅ〜帰りどぉしよぉ〜でもでもぉこんなに降ったら海でもできちゃいそうですよね〜波江しんぱぁい☆』くらい言ってみても良さそうなものを」
「気持ち悪い」
人の神経をわざと逆撫でするような臨也の言動にも動じず、波江はあくまでも冷静にその言葉を一蹴する。しかし当人である臨也も対してショックを受けるでもなく「酷いなぁ」と言いながらブラインドから離れた。
小一時間程前から興じているチャットでは臨也のHNである『甘楽』と数人のメンバーが他愛ない池袋の日常について話している。
「退屈だなぁ……」
こうも酷い雨だと外に出て趣味の人間観察に勤しむこともできない。今自分以外の他の人間たちは何をしているのだろうか。ーーと、臨也はデスクの上でちかちかとランプを点灯させている黒い携帯電話をかちかちと弄り始める。
「あ」
「今度は一体何よ?」
突然声を上げた臨也を、波江は訝しげに見つめる。臨也はそんな波江をちらりと横目で見やり、やがて心底うんざりしたような表情で盛大な溜め息をついた。
「この雨の中申し訳ないけど君は今から帰った方がいいかもね」
「はぁ!?」
窓の外は相変わらずの豪雨だ。一体この家主は突然何を言い出すのかと思い、波江は一瞬考えを巡らせそして一つの答えを導き出して溜め息を吐く。
「…………この雨の中?」
「そう、この雨の中。……というかよくわかったな」
「わかるわよ」
わからいでか、といった風潮で荷物をまとめ始めた秘書に、臨也は大きな溜め息を吐いてデスクに腰掛けた。
「物わかりのいい秘書を持って俺は本当に幸せ者だよ」
言葉とは裏腹に、臨也は携帯に直接送られてきたメールに顔をしかめる。
「それじゃお先に」と出ていった波江の後ろ姿を見送り、デスクの上の冷めたコーヒーに口を付ける。
メールの受信時刻は今から約5分前だった。そして目撃現場からここまでの距離は約15分である。つまり「やつ」の到着時刻まであと10分少々ということだ。
今からダッシュで逃げたとしても外は生憎の豪雨であり、足場は最悪だ。ーーそれに俺は濡れたくない。
「いや、でも、待てよ……」
波江を帰したのはミスチョイスだったかもしれない。彼女を使って居留守でもなんでも決め込めばよかっただろうか。
ーーいやそれは意味がないな。
相手はそもそもあの「池袋の自動喧嘩人形」である。やつの出鱈目な怪力に出鱈目な理論の前にそれが通じるとは思えない。
ーー甘楽「甘楽ちゃんピーンチ☆」ーー

カタカタと軽快な音を立ててキーを叩きながら、臨也は書き込みとは別の事を考えていた。
(……というより、俺も人間だったんだな)
いくら完全無敵の情報屋でも、ぼーっとしていてミスチョイスをすることもあるのだ、と自己再認識をし直す。
「やばいなぁ……」
とりあえず、鍵は開けとこう。またドアを壊されちゃかなわないからな。まぁやつがドアノブに触れることなんてまず無いから、意味はないだろうが。
冷えた渋いコーヒーの最後一口を胃に流し込み、臨也はブラインド越しに外を見た。
嵐か?と疑う程の悪天候である。
「あっはっは、最悪」
さてどうしたものか、と、臨也は空のコーヒーカップを片手にキッチンへと向かった。コーヒーメーカーに常備されているコーヒーをとぷとぷとカップに注ぎ、ふむ……と思考を巡らせる。
しかし残念なことに考えれば考えるほどに妙案は遠ざかっていく。
(……まぁ、いいか)
たまにはあの理不尽な暴力につきあってやるのも悪くは……いや、悪い。痛いのは嫌いではないが「やつ」からの暴力というのにはどうにも我慢ができない。
(入り口にガムテープかなにかでとりもちみたいにしておくか?ゴキブリみたいにガムテープくっつけてる姿は結構面白いな。それともペイントボール……)
まるで子供の悪戯のようなアイディアを実行すべく、ガムテープを取りに立ち上がった臨也の耳につんざくようなガシャァァァァン!という破壊音が響いた。
ぱらぱらと砕けたモルタルの落ちる音と共にみしみしと軋みをあげている入り口、それと連動するようなどすどすと荒い足音が、その男の来訪を告げていた。

(さぁて、俺はどこに行こうかな)

大魔人がやってくるまでに賢者の折原は逃げようかな、と財布と携帯をコートのポケットにねじ込んでひらりとマンションの ベランダから部屋を後にした。