NY ジェノアード邸
「悲しい……そして楽しい話をしよう…」
青い作業着の男は低く呻くようにそう言い、しかし両手を大きく広げ天を仰ぐかのような体勢で喜びを表していたのかもしれない。 その手にある工具も一緒に、背中の後ろ側へ振りかぶるような形になり、彼は見様によっては眠そうな青い目をそのままにして、口元でにっこりと晴れやかな笑顔をつくる。
「会いたかった!」
ぶぉん。
そんな音がして、彼の手にあった工具――太さが女性の腕ほどある規格外のモンキーレンチが放られた。 それなりの速度を持って回転し、一見すると銀の円盤に見える凶器が、『会いたかった』相手へ一直線に飛んでいく。 あからさまに嫌な顔をした少年のような少女は、ゆらりと身体を後ろへ傾けていった。 そのまま床に倒れ伏すかと思えば自らが倒れていく一連の動作の最中に勢い良く右足を振り上げ、間近に迫っていた回転し円盤状になったレンチの中心を蹴り上げた。 形容しがたい鈍い音を立てた直後ぐらぐらと不安定に揺れながら上方へ舞うレンチ。 少女ことリオンは右の爪先に予想以上の衝撃を受けたことに渋い顔をしながらも、体操選手のように床に手をつき後ろへ一回転し着地した。 立ち上がると足の調子を確かめるべく、とん、と爪先で床を叩く。
「僕も会いたかったけどねグラハム、出会い頭にそれはないんじゃない? それともNYでは大多数の人が初見で死んじゃうような挨拶が流行っているの? だったら僕も今度からもっと前衛的な挨拶を考えてみようと思うんだけどどうだろう」
つい一瞬前まで確実な死の危険に晒されていたにも関わらず、リオンにはそのような危機感が見当たらない。 そして相対して宙を舞ったレンチを見上げるグラハムにも、罪悪感の類は存在しないかのようだった。
「楽しいな……ああ、楽しい話だ。再会を望んでいたリオンに会えたのはとても楽しい、テンションが上がる。だが同時に悲しくもある、何故なら今お前がした行動の一連の流れは! どこぞの赤目野郎を彷彿させる! これが悲しくなくてどうだと言うのだ!」 「そりゃあ僕の動きは大体クリスを参考にしたものだから仕方ないんじゃない、ほら、自分じゃ分からないけど口調もよく似てるって言われるんだ。やったね?」 「赤目野郎とリオンの間には切っても切れない絆的なアレがあると見受けてしまった俺は三流戯曲の間男にも劣る立ち位置だと言うのか!」
ぐおぉお、と唸りながら無意味に頭を抱えて悶々とする男を余所に、ごおんと低い金属音を立ててモンキーレンチが落下した。 残念ながら普段彼に的確な突っ込みを入れ、経過はどうあれ最終的に事態の収束を図る役割の相方が不在だ。 そしてリオンもまたそのような器用な真似は出来ず、どちらかというとグラハムの側、狂人染みたそれに近い立ち位置だった。
「ねえグラハム、その悲しい話も詳しく聞きたいんだけどその前の悲しい話も聞かせてくれないかな、本当に悲しい話だったら僕も一緒に悲しんでその悲しみを共有してみたいんだけど」
それは同情というよりも単純な興味といった様子で、赤い眼にはきらきらとこどものような輝きが宿っていた。 反して淀んだ青い目を前髪の下から彼女へ向けたグラハムは、頭を抱えて振り乱していた所為かよろよろと覚束ない足取りで愛用のレンチを拾いに向かう。 豪奢な絨毯の上に落ちたそれを拾おうと腰を屈めたところで限界が来たらしく、どさり、うつ伏せに倒れた。
「そう……悲しい話をしよう……俺はジャグジーたちを探しに来たんだがどこにも見当たらない…シャフトには探させているが、所詮俺は出会いの女神にも見放されてしまった駄目駄目野郎なんだ凄いだろうリオン、いっそ笑え、俺も笑いたい」 「あは、それは悲しいね。一人身って悲しい。ジャグジーはニースとデートで、他の皆は皆でその後を付け回してるんだって」 「……全員でか?」 「そ。全員で」
世界は平和だねぇ、へらりと笑って冗談みたいに穏やかな声でリオンがそう言ってみせるが、グラハムは答えになる言葉も見つからず、上げかけていた顔を突っ伏して毛の長い絨毯に沈んだ。
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