タタン
リオンは軽い足取りで床を蹴る、跳ね上がった勢いでナイフを突き出し切っ先で顎を狙えばクリストファーは上体を反らして避け、そのまま勢いに乗って手を床に就き、後ろへ一回転。 突き出したナイフから手を離し、直後左手で逆手に掴んで振り下ろすも彼の逃げ遅れた髪を数本切り落としただけだった。
流れるようなナイフの持ち替えに、クリストファーは「ひゅう」と感嘆の口笛を吹き鳴らす。 まだ体勢が整わず中腰の状態にある彼の足もとに、即座に身を落としたリオンの足払いがかけられ、慌てた様子もなく、彼は赤い目を細めて飛び上がり、鮮やかに足払いを躱した。
万有引力に従い降下していく最中、クリストファーは右足を跳ね上げる。 予備動作なしに繰り出した足を引き戻している最中だったリオンの顎に、その爪先が命中。 彼女は仰け反って後ろへ弾かれ、受け身も取れず背中から床に叩き付けられた。
視界が明滅するのは顎を打ち抜かれたからだ。 裸電球を背負い真っ黒な影となったクリストファーが力の抜けた手からナイフを蹴って部屋の隅へと追いやる。 にぃ、と八重歯だけの歯を見せて、彼は笑った。
「僕の勝ち、だね」
「ぼくの負け…」
ぼーっとした頭でリオンはその事実だけを受け入れる。 頭に手を当てて、もう片方の手で体を支えながら上体を起こした。
クリストファーはやはり強かった。 彼は素手であったはずなのに、かすり傷一つつけられなかった、そんな彼女の不満を感じ取ったのか、クリストファーはケラケラと笑い声を上げる。
「でも、僕の髪を切った。傷まではいかなかったけど大きな進歩だよ、まだ一カ月も経ってないのに」 「クリスはスパルタだからねぇ……嫌でも強くならなきゃって思うようになる」
つられて笑えば、リオンの目も自然と細まる。 つい最近得た、クリストファーによく似た、しかし微妙に位置の違う赤目が。
「それで、目の調子はどう?」 「んー、まあまあ。この前よりはよく見えるようになってきた」 「ああほら、あまり擦らないで。またヒューイさんのとこにつれていくよ?」 「それは断固として拒否します」
ナイフを回収しながらリオンが首を横に振る。 そして得物をクリストファーに向けるあたり、まだ模擬戦を続けるつもりでいるらしい。 仕方なさそうに青年は数歩前に出て、指先をくいくいと動かす。 挑発に乗ることなく機会を窺うリオン。
「……じゃ、リオンさんいっきまーす!」
ふざけた調子で言えばゆらりと体が前に傾く。 と思えば意外な所に移動していて、どうやらこのトリッキーで変則的なスピードの出し方は、
「それ、チーに教わったでしょ」 「そうだよ、チーメイさん速くてかっこいいもん!」 「僕の方が強いのに」 「クリストファーは仕事があるから。ぼく寂しいなー」
平和的な会話に反して、ヒュンヒュンとナイフが閃く二人の間。 だけどそれが彼らにとって、一番『平和』な時間だったのかもしれない。
袖口から覗くリオンの手首はまだ細い。 同じ十代の子供に比べても細すぎるそれは、明らかに異常で、手首を一周する痣のような痕も残っている。 そんな細腕にナイフを握らせるのは可笑しいことなのかもしれないけれど、それを選んだリオンをクリストファーは止めなかった。 それが償いの感情から来るものだとも分からずに、ただ止められなかった。
――そんなんでよくナイフ振れるよなぁ……。
「……リオン、ちゃんとご飯食べてる?」 「んー、あんまり」 「まずはたくさん食べて肉つけなよ」
攻撃を避けながら器用に苦笑してみせるクリストファー。 知ってはいる、彼女が約三年間食事を取らず、ただ栄養を摂取してその命を繋いでいたこと、無理に食べさせれば即座に手洗いへ駆けこんで胃の中の物を全て吐き出すこと。 だけどそれが、自分たち『人造人間』の運命だということも、知っている。 今こうして生き残っているだけで、とても運がいいのだ、と。
クリストファーはそう思っているからこそ、こうして彼女を鍛えていた。
「僕が美味しいお菓子作ってあげる、それなら食べるよね?」 「やた! 食べるっ」 「よし、それじゃあ頑張らないと」
会話の最中にも繰り広げられていた戦闘は、突き出されたナイフを腕と脇の間に挟んで刀身を折ったことで終わりを告げる。 刀身が無くなったナイフとクリストファーとを見比べて、リオンはやがて笑顔を咲かせて言う、「やっぱりクリスは凄いね!」
不自然が浮かべる自然な笑顔に自然とクリストファーもつられた。 取りあえず美味しいマドレーヌを焼かないと、という気持ちになれる。
不自然の昔々
(ね、リオン。僕と互角に戦えるようになったら、僕の銃剣を一個あげる) (本当? ……時間はかかるだろうけど、ちょっとやる気出てきた!)
10.0117. それが本当になるのは二十年くらい後の話
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