ぱたぱたぱた、と近づいてくる気配に気づいた。 振り向くとそこには、俯きがちな雪色の髪があった。
「ひゅ、ヒューイ、あの……その、ええと…」
何ですか、と丁寧に返事を返すヒューイだが、内心では軽く驚いていた。 何故なら数ある実験体の中でも特にヒューイを嫌っている、リオンが自ら彼に声をかけてくることなど滅多になかったからだ。 しかも、喧嘩腰でもなく、敵意を剥き出しにしていないなどと、片手の指どころか、これが初めてのことかもしれない。
だがその態度はしどろもどろで、話しかけてきたにも拘わらず何を言うか決まっていないらしい。 ヒューイが興味深そうにリオンの様子を観察していると、リオンはばっと顔を上げて後ろ手に持っていたものを差し出した。
「こ、これ、受け取ってよ!」
差し出されたのはまだ温かいマドレーヌ、湯気に乗って香ばしい香りが鼻孔を擽った。 一体どういう風の吹きまわしだろうとヒューイは内心で首を傾げた。 例え毒が入っていても死ぬことはないが、相手が彼女なら十分にあり得る可能性だ。
「クリスと一緒に作ったんだ……食べてみてよ、きっと美味しいからさ…ていうか美味しかったから」 「マドレーヌ、か……」
そういえばクリストファーが最近お菓子作りに凝っている、とシャムから聞いたような気がする。 ヒューイはそんな情報を思い出しながら、見かけは形の良い貝殻型のマドレーヌを一つ、口に入れた。
それは素直に、市販されているものよりも美味しいマドレーヌそのものだった。 毒のような刺激臭もなく、自然と二つ目に手が伸びていく。
「……美味しい?」
「ええ、美味しいですよ」
そう答えると、リオンは緊張を解きほぐしたようでほっと肩の力を抜いた。
浅く息をついてから、マドレーヌの入った小さな編み籠を傍らにあった机の上に置く。 それで自分の役目は終わったとでも言わんばかりに、彼女は無言でその場を立ち去ろうとした。 気付いたヒューイは、片手にマドレーヌを持ったまま短くリオンを呼びとめた。
「リオン、」
「な、……むぐ、」
「ありがとうございます、美味しかったですよ。それと、クリストファーにも礼を言っておいてください」
「む………んむ」
振り向きざまに「何、」と言おうとして開いた唇の間に、ヒューイによってマドレーヌが突っ込まれる。 驚きながらもしっかりと菓子を頬張り、だが眉間には不機嫌そうな皺が刻まれていた。 にこりと、傍から見たら爽やかな青年の微笑を、リオンは胡散臭いなとは口に出さず、会釈して今度こそ立ち去る。
足取りは次第に早足となっていって、その顔はのぼせたのかと見紛うほど真っ赤に染まっていた。
バタン
ドサッ
リオンはとある部屋に駆け込むと乱暴に扉を閉めそのままソファに飛び込んでクッションに顔を埋め、くぐもった声を上げた。 彼女の声を聞き、近寄ってきたのは、にたにたと楽しそうな笑みを浮かべる、西洋風の貴族服を纏った青年。 青年がいることに気づいているのだが、リオンは構わず奇声を上げ続けていた。
「ああああああ、うああああああ!」
「やあ、お帰りリオン。どうだった?」 「さ、さ、最悪だよ、もう……っクリスとはチェスなんて二度としない!」 「それでも罰ゲームをしっかりこなすあたり、リオンっていい子だよね」
慣れないことはやるものじゃない、とぼやく少女と、その様子を見てケラケラと笑う青年は気付かなかった。 自分たちの創造主が、扉を一枚隔てた向こう側で薄い笑みを浮かべながらその会話を聞いていた、ということに。
親孝行⇔罰ゲーム
――薄々は気付いていたが。 ――まったく、お前はたまに面白いことをしてくれるな。 ――だからこそ、俺も退屈しないですむんだ。
fin. 09.0816. チム様へ
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