黒猫戯曲 | ナノ


過去






 数日前まで、至ってごく一般的な環境に身を置いていた少女は、咽喉が潰れるまで絶叫していた。
 両手、両足を決して切れそうにない太く厚い皮帯に拘束されながら、唯一自由な首を時折動かし、栗色の毛を振り乱しながら。

 灰色の双眸は最大限にまで見開かれ、目尻が裂けそうなほどだ。
 その瞳からは涙が溢れ、同じように大きく開かれた口からは唾液が流れ、鼻水を垂らして、ただ意味のない絶叫を咽喉が潰れるまで叫んで、叫んで、鳴いて、鳴いて、吠えて、吼えて、咆えて。



「ああぁぁあっあああぁぁぁあぁああああぁっぁっぁぁぁぁあああああぁぁあぁああああ」



 来る日も来る日も鳴いて、啼いて、鳴いて、理由は至って単純、身を引き裂くような凄まじい痛みを受けて感じているから。
 理由は知らない、聞かされない、ただ彼女にあるのは『痛み』という事実だけ。
 白い天井越しに白衣を着た科学者達が、彼女に痛みを与え続ける。
 何をされているのかは分からない、痛みでそれどころではなかったし、聞く余裕すらなかった。



「アアぁぁあァァあああああっぁぁぁああっぁぁぁぁあァァアアっぅがあああっはァァアああああ」



 痛覚という痛覚が痛みを訴え、涙は枯れることなく溢れ、唾液と共に意味をなさない絶叫はだだ漏れだった。
 それを特に何の感情も持たない瞳で観察している白衣の中の一人、年若く見える黒髪に金の双眸を持つ男性。
 彼こそが彼女を『造った』当事者であり、この『実験』の実行者である。


「あああぁぁああっつぅぅゥゥあああああっぎぎあああァァアアァっぐぅぅあああああっああァァアア」


 この『実験』が開始されて三年、つまり彼女が絶叫を初めて上げてから三年ほど経った頃。
 変化は唐突に訪れた、と言っても過言ではないかもしれない。
 それはもう唐突に、しかしそれでいて顕著に、変化が起きた。

 偶然、例の男性――ヒューイ・ラフォレットが、単独で『実験』を行っている時のことだった。



「っく……ははっ、ぁ…ハハハハハハ!ヒヒャハハハハハッハハッハハハハ!アハハっ、アハハハハハハ!」




 実験台である少女は、唐突に、笑い始めた。
 長年の実験の拘束で、骨っぽい手首足首に痣となって残った傷が擦れるのも構わずに、ガチャガチャ、ガチャガチャと手足の枷を鳴らすほどに体を痙攣させて。
 拘束されていなかったなら、今頃彼女は体を「く」の字に折り曲げてそこら辺を笑い転げ回っていたことだろう。

 今も痛みを、常人には耐えられないほどの痛みを、その身に感じているはずなのに。
 ヒューイ・ラフォレットは、驚くことも無く、しかし興味深げな目をして見ていた資料から目を離し、少女へと視線と言葉を投げかけた。



「何が、おかしいのですか?」



 骨と皮だけになったような少女の答えは、とても、どこまでもシンプルなものだった。


 そう、それは―――


















 三年もすれば短かった少女の髪は伸び、背中のあたりまで伸びている。
 だが、目に見えるほど決定的に変わったことがある。

 髪が、色素が抜け落ちたように白くなっていた。
 まだ毛先の方は茶色が残っているが、これから生えてくる髪は全て白髪となるだろう。
 そして碌な食事も与えられず、ただ『栄養』のみを投与されていた少女は頬が削げ、手足は骨と皮だけしかない、痩躯というよりも骸骨のようだった。


 彼女は覚束ない足取りで、白く、広い部屋に立っている。
 少し離れた位置では、筋骨隆々、とまではいかないが、割と逞しい部類に入るであろう中年の男が立っていた。
 虚ろな灰色の眼はどこを見ているのか定かではなく、不意に、かさかさに乾いた唇が震えた。



「ころせば、いいの」


 空気が擦れ合ったような、本当に小さな声だった。
 しかし答えは、部屋の外から、放送となって返ってきた。

「はい」

 簡潔すぎる答えが返ってくる後か、前か、少女が持っていたのはどこにでもあるような、小振りのナイフ。
 ハンデでもつけたのか、男の方は素手であったが、先に動き出したのはそちらだった。
 繰り出され、少女の薄い腹に吸い込まれていく、拳。


「ぅ、」


 呻き声のような、短い悲鳴を上げて、彼女が倒れるかと男は思う。

 だが、倒れなかった。

 拳を腹にめり込ませたまま、かくんと下を向いていた顔が、出来の悪い操り人形のように上を向く。
 灰色の瞳は本当に曇り空のように淀んでいて、口元はどこか狂気的につり上がり、歪んでいた。


 右手に持っていたナイフを、紙のような体重を乗せて、男の心臓の真上に突き立てる白髪の少女。
 男は両手を少女の方に置き、握り壊しそうな勢いで掴むが、彼女は容赦なくナイフを捻って空気を侵入させる。
 ごぽり、中年の男は血の気泡を口から零して倒れ伏した。




 ――が、異変が起きる。


 引き抜いたナイフにべっとりと付着した血液は、まるで意志を持った生き物のように蠢き、倒れた男の元へ還っていく。
 彼はいわゆる『出来そこない』の不死の酒を飲まされた、『不死』だけを持つ出来そこないの不死者であるのだが――、
 その情報を与えられていない少女はこてんと機械的に首を傾げ、再び殴りかかってくる男を眺めた。

 そして、先ほどと同じように腹部を殴られたその時、彼女は全く冷静なままの脳内で、あることを思いつく。

(――― ――)




「何なんだ、お前―――」

 男は彼女の冷静すぎる瞳に違和感を感じる、彼は知らなかった、実験体と紹介された白髪の少女が、痛みを感じないことを。
 繰り返される実験の中、彼女の正気と共に、痛みすらどこかへ持っていかれてしまったことを。


 やはり少女は、口元を歪ませたまま、腹に拳をめり込ませたまま――。


 数日前、ヒューイに問いかけられた時と全く同じ答えを返す。



『笑み』

 もっと的確に表すなら、狂った笑み。
 それが彼女の、人造人間として生まれた『不自然』な少女の、導き出した答えだった。




 ヒューイはガラス越しに繰り広げられる光景を観察している。

 今回の実験は今までとは異色なものとなった。
 何故なら実験体、被験者は、自然な『人間』としての生活や、幸せを知っていたのだから。
 尤もそれらは彼の手によって、植え付けられた偽造の記憶、与えられた理想的な両親の、実験の副産物的存在であったが。
 それでも彼女が幸せや普通を知っていたのは事実で、普通の人間が育つ過程を踏んだ上でここまでの結果が出せるとは。
 流石のヒューイも、僅かに口元を緩ませていた。


 ――そう言えば、彼女は三年前に人を殺したらしいですね
 ――全くの偶然だったらしいですが、
 ――何でも強盗犯が親の死体に足を躓かせ、机の角に頭をぶつけたところ、
 ――既に死体となったそれを咄嗟に果物ナイフで刺した、んでしたっけ。


 ガラスの向こうでは、少女が狂的に笑っていた。



『アハハハハ!アハハッハハハハハハ!!』



 出来そこないの不死者の、首を、抱えて。
 彼女が腰かけているのは先ほどまで立ち歩いていたはずの、首の持主。
 首から下の胴体に座って、今にも体へ戻ろうと蠢いている首を抱えている。

 心臓を刺して死なないなら、全部元に戻るなら、戻させなければいい。

 それが彼女の出した、単純な答えだったのだろうか。
 ぎざぎざな切り口から見て力任せに、鋸のように引き切ったらしい。
 それでいてナイフの刀身には血が一滴も付いておらず、少女の白い髪も肌も服も真っ白のままだ。
 どこまでも頭がイカレそうな光景を、ヒューイは淡々とした目で眺め続ける。

 暫く放っておけば、ごとごとと動き続ける首を片手で抑えつけ、眼球を抉ったり、舌を切り落としたり耳や鼻を削いだり、遊び始めるから面白い。


 ――まぁ、彼は後でパルメデス先生にお返しするとして。

「実験は終わりです」


 少女は眼球を握り潰しながら、声のした方向へ振り返る。

 どこまでも白い部屋に立ち入ったヒューイを、その目に映して、にっこり、満面の笑みを浮かべて、一言。




「わたし、きみのことだいっきらいだよ」


 ヒューイは珍しく、心からの苦笑を表に現す。
 これから数十年、彼女に嫌いと言われ続けることとなるヒューイだが、これが記念すべき第一回目だった。
 そんなことをまだ知る必要もないヒューイの中で、取りあえず彼女をこれからもまだ使える『実験体』として――
 その不自然な生命を、数十年は続かせることを決定した。


 少女はヒューイが何を考えてるかなどに意識をやることなく、手の中で再生し、男の眼窩に戻ってがたごと蠢き続ける様子を楽しそうに観察していた。
 それはまるで、昆虫の観察日記をつけて楽しそうに笑いなおかつ節足動物の足をもいだり、複眼の一方を潰す残酷な行為を笑いながら行う、無邪気な少年のようだった。



世界が変わる瞬間
(わたしが壊れる瞬間)



 痛みを刻まれ、狂気を得て、痛みを失くした少女が『黒猫』と名乗る殺し屋として世に名を知られることになるのは。
 これから、十数年後の話。


fin.
09.0728.



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