少年、フィーロ・プロシェンツォは、カモッラであるマルティージョ・ファミリーと関わりを持つようになって数年経つ。 若集としていくつかの仕事に参加したことはあったし、多くはないが死体を見たこともあった。 多少の血に驚くこともないし、何度か死を覚悟したことがないわけでもない。
――やばい、こいつはやばい
フィーロは必死に息を殺して、路地裏に身を潜めていた。 情けないことに手がかたかたと震え、金縛りにでも合ったかのように体が動かない。 咽喉の辺りが引きつって、呼吸もままならない状態だ。
気が向いたので遠出し、帰る時間は深夜になったもののそれを咎める親はいない。 腕前にはある程度の自信があったので悠々と自宅へ向かう途中、フィーロは偶然にも堅気ではない輩の取引現場を目撃する。 そしてベタな展開とでも言わんばかりに、その場にあった空き瓶を蹴倒して勘付かれることとなる。
相手は多数、しかも銃器を所持しているらしく、ナイフ一本で挑もうと思えるほどフィーロは無謀ではなかった。 路地裏を縫うようにして逃げ回り、足の感覚がなくなる頃、ついに追い詰められそうになっていた。
ここで気付かれたら終わりだと本能が叫ぶ。 こめかみを冷たい汗が伝い、何かを話す男たちの声が近づいてきた。
「ねぇ少年、こんなところにいると危ないよ」
場にそぐわない、少年のような、少女のような中性的な声。 しかしその存在は当然とでも言わんばかりに、声の持主はフィーロの眼前で、身を隠しもせずに立っていた。 自分とほぼ背丈の変わらない、まだ子供であるらしいその相手は、夜の色に身を包んでおり、帽子からはみ出た白銀の頭髪と、血を垂らしたような真紅の双眸が月光を反射して輝いていた。
ひく、と咽喉を引き攣らせて、フィーロが何か言おうとするも、先刻の声に気づいたらしい追手の足音が近づいてくる。 もう駄目だと思ったフィーロだが、どうしてか、その子供は、足音のする方向へと迷うことなく進む。
「お、い、お前、隠れろって、」
「さぁてと、お仕事の時間だ。お兄さんたち死ぬ準備は万端ですかぁ?」
フィーロの言葉を丸っきり無視して、子供は明るく言い放つ。 ただ、その内容はあまりに物騒なものだったが。
二言三言、彼らは言葉を交わす。
そして銃声、ああ撃たれた、先ほどの、自分とさして年齢の変わらないであろう子供は撃たれたんだ。 フィーロは唇を噛んで拳を握り締める、何も出来ずにいたのが酷く悔しかった。
だが次に聞こえたのはケラケラ、ケラケラ、とても楽しそうに笑う、子供の声。 まさか、と思い、フィーロは壁からそっと顔を出して様子を窺う。 人気のない路地で、唖然とする男たちを前に、穴だらけになった帽子を指先で回す子供。
「僕はリオン・フォーネロ!君たちをさっくり殺しちゃう僕の名前、ちゃーんと憶えてから死んでね!」
本当に物騒な台詞に続き、さくりという軽い音が続く。 例えば、果物ナイフで林檎を切った時のような、さくりという音。 しかし更に後に続いたのは、びちゃ、ぼたぼた、という、とても嫌な音。
フィーロが見たのは、月明かりに照らされた、リオンと名乗った子供と。 先刻まで彼を追いかけていた三人の男。 目に見える不自然な点を挙げるとすれば、三人の男のうち一人が倒れていることと、リオンの手に、赤々と濡れて液体の滴る、ナイフが握られていること、だろうか。
⇔
ぱん ぱ ん
ざくざく、ぐさ、どしゃ、ぐしゃ
ど さっ
音が、止む。 フィーロは一部始終を見ていた。 返り血に頬を濡らしたリオンが、ゆらりと振り向く。 印象的な赤い瞳に射抜かれたような気がして、息が詰まった。
「あーあ、少年見てた?見ちゃった?」
フィーロが頷けば、リオンはわざとらしく肩を竦める。 目撃者である自分も殺されるのだろうかと頭を過ったが当の本人はその場に座り込みごそごそと何かを始めた。
恐る恐る近づいて、何をしているのかと手元を覗き込むフィーロだがその行為を理解した途端、苦虫を噛み潰したような顔をして目を背けた。
リオンは絵を描いていた。 コンクリートの地面をカンバスに、今しがた殺した男たちの血液を画材にして。 鼻につく血臭による吐き気を堪えながら、フィーロは口を開く。
「お前、何者だよ…」
「んー、殺し屋」
ぐるりと首だけが振り返って、にっこりと子供らしい笑顔が浮かべられる。 カモッラの関係者である自分も堅気ではないことを理解していたが、あちらはもっと深い闇に身を浸している。 瞬時に理解したフィーロは、まだ震える右手を抑えて俯いた。
視界に入る赤い子猫の絵は、たまに新聞に載ることがある。 通称『黒猫』と称される殺し屋が目の前にいることが信じられないと同時にその『黒猫』が自分と同じ背丈の、まだ子供であることに驚いた。
す、とリオンが立ち上がる。 何事かとフィーロは顔を上げ、すぐ目の前に来ていた相手の赤い目に気押された。 何だ、と呻くように言うと、リオンは頬に付いた血を拭おうともせず口を開く。
「君、名前何ていうの?僕はリオン」
「……フィーロだ。フィーロ・プロシェンツォ」
「そっか。…………あ、フィーロ、今すぐ逃げるといいよ」
「?」
どういうことだ、と尋ねようとした瞬間ゆらりとリオンが動く。 状況を理解できずにいたフィーロが聞いたのは、乾いた破裂音。
ぱん ぱ ん
リオンはゆっくりとフィーロに背を向け、ナイフを投げる。 ぎゃ、という短い断末魔を上げて、まだ息があったらしい男は今度こそ死に絶えた。
「まったく、人間のくせに生命力無駄に高いんだから」
溜息を吐くリオンの足元には赤い水溜りができている。 それは返り血なのだろうと、フィーロはそう思った、だが、
「フィーロも早く家に帰りなよ、夜のニューヨークって危険だから」
そう言って歩くリオンは足を引きずっていて、血の足跡が後に続く。 よく見れば黒いコートの一部が真新しく濡れて、中央には穴が開いていた。 つまり、撃たれた、のだ。
(さっき不自然な動きをしたのは、まさか)
「な、お前、リオン!」
「なに?」
「何じゃないだろ、お前もしかして俺を庇って……」
「ああこれ?平気だよ、痛くないから」
ひらひらと真っ赤な手を振って見せるリオンの表情には苦痛といったものがまるでない。 それでも出血しているのは確かで、なのにどうしてそんな涼しそうな顔をしていられるのだろうか。 フィーロはリオン以上に顔を青くして、どうしたものかと葛藤した。
そうこうしているうちに、リオンはふらふらとどこかへ姿を消そうとしているではないか。 今まさに闇夜へ溶け入ろうとしていたリオンの腕を咄嗟に掴んだフィーロは、振り返ったリオンに一拍して、盛大に吹き出されることとなる。
「く、あははは! フィーロってば僕より痛そうな顔してるよ!」
「……リオンがおかしいんだろ、馬鹿じゃないのか」
「うん、まぁ、そうかもね。それより僕、もう行かないと。じゃあね、フィーロ」
フィーロの制止の声も聞かず、するりとすり抜けたリオンは後を追う隙もなく闇に溶け入るようにして立ち去った。
リオンがその後どうなったのかは知らないが、それから、新聞に『黒猫』の死亡記事が載ることはなく、白髪赤目の子供が撃たれて死んだという記事も見つからなかった。
悪夢のようなあの体験は、本当にただの悪夢ではなかったのだろうかと、フィーロがそう思い始める数年後、『黒猫』と再会を果たすことになるなどとは。 しかもそれが、少年の"主役"としての物語の始まりとなる一連の事件の真っただ中などとは。
二人とも知る由はなく、ただただそれぞれのペースで、螺旋階段を降り続けるのみ。
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