黒猫戯曲 | ナノ


1930








 ぐい、と頬に付着した生暖かい液体を拭うと、暗闇に慣れた目に鮮明な赤が映る。鉄臭いそれをぺろりと舐めて、リオンはすぐに吐き出した。
 肩に乗っていた白鼠に降り掛かった飛沫をハンカチで拭いてやり、彼女は大量に溢れ出し水たまりのようになった血の傍へ足を運ぶ。

『The work was over.』

 血文字と、その横に可愛らしく猫の絵を描いて、リオンは窓から飛び降りて仕事を終えた。
 帰り際、つい最近会ったことのある気がする二人組を見かけたのだが、気にしないことにした。







「こんにちは、フィーロ」
「お、リオン。どうしたんだよ」
「蜂の巣のお酒、気に行ったんだ。甘くて美味しい」
「蜂蜜酒をか?」


 子供みたいだな、と笑って頭を撫でてくるフィーロの方が子供だ、という事実を口に出さず。
 リオンは大人しく帽子を脱いで『蜂の巣』に居座ることにした。どうせ明日か明後日にはニューヨークを後にする予定なのだから、それまでに楽しんだって罰は当たらないはずだ。

 ――殺し屋、って時点で大分罰あたりだけど、ね。

 血の匂いは染みついていないだろうかと、リオンは自分のジャケットの匂いを嗅いでみた。
 だけど微かな鉄の匂いも、店の甘ったるい臭気が掻き消してくれるような気がして、腰かけた椅子に掛けておいた。


 適当に寛いでくれ、と運ばれた蜂蜜酒を小皿に数滴垂らし、カルチェに与えている最中
前触れもなく、酒場の扉が大きな音を立てて開いた。酒場内にいた全員がその音の方向に顔を向け、リオンもそれに倣う。
 そこには年老いた紳士が立っていた、誰も見憶えがないのか、言葉を失っている。

 ただ一人、フィーロと言葉を交わしていたマイザーを除いては。


「………セラード………」

「久しいなぁ、マイザー・アヴァーロ!実に二百数十年ぶりだ!」


 セラード、という名を聞いて、リオンは赤い双眸を見開く。
 その目に宿ったのは、純粋な、憎悪。それに気付く者は、誰もいなかったけれど。


 フィーロが扉の向こうに倒れた店主のセーナを見て声を上げる。激昂したペッチョとランディが拳でテーブルを叩き、反動で皿が落ち、相席だったリオンの皿も落下して粉々になった。
 だがそんなことを気にする余裕がないほど、リオンの鼓動は強く、早く脈打つ。


「あいつはかつて私の………私の仲間十三人と……弟を…殺した男です…」


 少し躊躇った後、マイザーは端的にセラードとの因縁を口にする。フィーロを始め、カモッラ達は逃げろと告げるマイザーを見捨てて逃げるわけがないと言う。
 マイザーの敵は俺らの敵、セーナに手を出した時点で十分に敵、そう判断した彼らが懐から抜いたのは銃。
 最初に撃ったのはランディで、それに続きペッチョ、更に他の幹部たちも未だ立っているセラードに銃弾を浴びせかけた。


「無駄だ……あいつに銃はきかない……」


 マイザーの呟きを拾ったリオンは高ぶる感情を抑え付け、事の顛末をその目に焼き付ける。
 上半身を穴だらけにしてもなお、セラードは立っていた。
 どうやら痛覚はまともに機能していないらしい、それだけを見るとするなら同じ土俵なのかもしれない、が、彼が不死者でリオンが人造人間である限り、どんな方法を使っても同じ土俵になど上がれはしない。

 あるいは、昨日悪魔の甘言に唆されるがまま、不死の酒を口にしていればそれは違ったのだろうか。


「……おい……マイザー……」

「なんでよぉ……あの爺、まだ立ってんだよ……」

「理由は後で説明しますから、とにかく逃げてください!」


 口元を大きく歪めたセラードが足もとに置いていた黒いケースの鍵を開ける。ほぼ痛覚がないのだと、彼自身がそう一人ごちた。
 ケースの中身に逸早く気づいたらしいフィーロが全力で床を蹴り、一気に間合を詰めケースを蹴り飛ばそうとする。
 ついでに、身を屈めているセラードの顔面も蹴り飛ばしてやろう、と。

「若いな…」

その足が、セラードの腕に受け止められる。

「うむ…若い。それが何より腹立たしい」

 バランスを崩したフィーロの腹に、セラードの蹴りが叩きこまれた

「がっ……」

 そのまま後ろに蹴り飛ばされ、鈍く呻きながら元の位置、マイザーの横で床に叩き付けられる直前で、いつの間にかその場にいた、リオンに受け止められ、緩やかな衝撃が伝わった。

「っ、リオン、助かっ……た、」
「どういたしまして」

 背後のリオンを振りむいたフィーロは、言葉の途中で表情を凍りつかせる。自分よりも幼く見えるこどもが、その顔に本物の殺意を滲ませているのだ。


「フィーロ……『出納係』として命令します……あなたはすぐに裏口から出て逃げ……いや……頭領と秘書にこの事態を伝えてください」
「で、ですけど、マイザーさんは…」
「……大丈夫です……私は、まだ死ぬつもりはありませんよ……」

 一瞬戸惑ったフィーロだが、マイザーの意志の強さを悟り間髪入れずに駆け出した。
 何故かその場に残ったリオンに、さぁあなたも早く逃げてください、そう言おうとしたマイザー。だが既に隣に小柄な姿はなく、視線を巡らせればリオンは黒いコートを羽織っているところだった。


 そしてセラードがケースから取り出したのは軍用短機関銃。本気かよ、と幹部の誰かが信じられない様子で呟いた。
 引き金を引くしわがれた指に、躊躇いなど感じられない。逃げたフィーロを狙った銃弾の嵐を一身に受けたのはマイザーで、貫通した弾が少年に当たることはなかったようだ


 がちゃり

 リオンは静かに、あくまで冷静を装って、コートの裏側から長年愛用した銃剣を取り出す。
 背後ではマイザーが噴水のように血を噴き出していたり、幹部たちが丸椅子をセラードへと投げつけていたり、殺伐とした状況にも関わらず。
 狂気か狂喜か、どちらともとれない表情を顔に張り付け、準備のできたリオンは惨状へと身を投じることを決心する。


「ご苦労だな。名も無き犠牲者ども」


 やべ、焦燥と絶望を孕んだ声で誰かが呟いて、機銃の弾は壁を跳ね回れば避けれるよといつかの教えを思い出していたリオンを襲ったのは衝撃。
 ただ、それは銃弾の雨などではなく、幹部の一人――ペッチョが、咄嗟にリオンを庇ったためのものだった。耳を劈くような轟音、それに合わせて横幅があるペッチョの体が躍る。

「なん、……で、」

 リオンの肩にしがみついていた白鼠の小さな体を銃弾が直撃し宙に舞うのを見て、真赤だった視界は黒に閉ざされた。







 軽い脳震盪を起こし数十秒間気を失っていたリオンは、白鼠に頬を引っ掻かれて目を覚ます。確かに撃たれたはずなのに元気に動き回っているカルチェを見て、もしかしたら、という希望に縋り辺りを見回すが、すぐ傍に横たわっているペッチョの体の前面は赤く染まり、離れた位置にはランディが倒れたまま動かない。
 彼らの血飛沫を全身に受けたリオンは鉄臭さなんかよりも、解せないことがあった。


「変な、奴」


 ――会ったばかりの人間なんて見捨てればいいのに、僕は一人でも大丈夫だったのに
 リオンは体を起こしながら、改めてセラードへの殺意を露わにする。


 気を失っている中、聞こえた気がするのは、先ほどとよく似た機関銃の音。
 駆けつけてみれば横たわっていたのは、フィーロと、ガンドールの三兄弟。
 誰がやったのか、リオンの中で思い当たるのは一人だけ、例え実際の犯人は違ったのだとしても。



「セラード……!」



 片手には銃剣を、もう片手には諸刃のナイフを。
 リオンはポケットにカルチェを仕舞って、セラードを探して駆け出した。


 雨のように浴びた真赤な血が、いつの間にか染み一つ残っていないことになど、気づくことはなく。



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