「新しいカモッリスタの誕生に……乾杯!」
――何がどうしてこんなことになったんだろう。
リオンは赤い瞳を半眼にして、めでたい席の祝杯を両手で握り締めながら戸惑う。 鼻に染みる匂いは間違いなくアルコールのもので、見た目が子供の時分にそれを渡していいのだろうかと思ったが、実際に生きてきた年齢が外見に比例するものとは限らないわけであって。 つまり、酒を飲むことに抵抗はないし何度か飲んだことはあるものの、理由はわからないが、何故かそれを口に含めずにいた。 それどころか、肩に乗っている白鼠も小さな爪で頬を引っ掻いてくる。 どうしても祝杯を飲みほす気になれないリオンは、目の前で繰り広げられる馬鹿騒ぎを眺め、こうなるまでの成り行きを、一つずつ思い出すことにした。
⇔
息せき切って走ってくるフィーロが探し、見つけたのは、茶色のコートを纏った、恵比寿顔の男性。
「すいません、マイザーさん!」
「おや、フィーロ…お帰りなさい。そちらの方は?」
「リオンっていうんですけど、怪我してしまって、」
フィーロが開かせる手のひらはすっぱりと切り傷が走っていた。 恐らく、(あくまで厚意)ナイフを返そうとした際に何らかの不手際が加わって切れてしまったのだろう。 マイザーと呼ばれた糸目の男は微かに眉を潜め、彼よりも身長の低いリオンに目を合わせるため少し屈んだ。正面から顔を合わせた瞬間、マイザーは何故か一瞬、酷く驚いた顔をしてみせたものの、それを取り繕うよう笑みを浮かべ、刺し障りのない言葉を選ぶ。
「すみません、手当するので少しついてきて頂けませんか?」
しかし返事は返ってこない。 リオンは丸く目を見開いて、マイザーの顔を凝視している。 口は半開きで、どこか間の抜けた子供そのもので、瞳の紅さは自然にあり得ないような色だったが、そこはあまり気にならなかったマイザーは目前の子供が、自分たちを恐れて口を利けないのではないかという考えに至った。
「私たちは、その、社会に表だって顔向けできる人間ではありませんが……悪いようにはしませんから」
ぽたぽたと手を伝う血と、同じ色の瞳を交互に見て、言う。 そこでやっと意識を取り戻したかのように、リオンは、はっと息を吸い込んだ。
「あ…、別に痛くないから平気です」 「でも、」 「舐めておけばなお…らない、雑菌が入る。でもそのうち治ります」 「はぁ、」 「というわけでフィーロ、僕は大丈夫だよ」
と、言ったのだがフィーロは何を思ったか、リオンと肩を組んで引き寄せ、不良を薙ぎ倒していた時とは正反対の、無邪気な笑顔を浮かべてマイザーを見た。
「マイザーさん、それと言い忘れてたんですけどね、こいつ、俺の命の恩人なんですよ!」
⇔
結局、酒場の女将であるセーナに傷の手当をされ、綺麗にまかれた白い包帯を見て、溜息を吐く。 それならば歓迎しなくてはいけませんね、というマイザーの本気か冗談か分からない笑みを皮切りに上司の許可は得たとばかりに、フィーロはリオンを蜂の巣まで連れ帰ってきた。
今日は、何やらフィーロの大事な儀式が執り行われるらしく、流石に部外者であるリオンは入れてもらえなかったが、その後に開かれる宴会に参加しろということで、奢られた蜂蜜ジュースの甘ったるさに頬を緩ませながらうとうとしていると、劈くような銃声と、絹を裂くような女性の悲鳴が聞こえた。
「ひゃああああああ、アイザックが殺されたあああああっ!」
流石にそんな騒ぎが起これば、リオンの眠気も吹っ飛んでしまう。 殺されたとは叫んだものの、血の匂いはしなかったので恐らく大丈夫だろうと踏んだリオンは指先に蜂蜜ジュースをつけて、白鼠に舐めさせていたりして暇を潰していた。
人騒がせなカップルの、アイザック・ディアンと、ミリア・ハーヴェントも加え、開幕する馬鹿騒ぎ。 フィーロがマフィアと似たような組織、カモッラとして生きてもあそこまで楽しげにしているのだ。よっぽど気の良い構成員なのだろう、リオンはそう考えて、その考えは見事に当たっていた。
最初に絡んできたのは、ペッチョとランディという時計の短針長針みたいな二人組。
「よーぉあんた、フィーロの命の恩人なんだってな!」
「聞いたぜ、だったら俺らの恩人だ!」
両側から絡んできたので居場所がなくなった白鼠は慌ててテーブルに飛び降りる。チチ、と軽く鳴いた鼠を見て、ランディが興味深げに首を傾げる。
「こりゃお前のペットか?」 「…、そう、かな」 「何だよそりゃ」 「や、今日、拾ったばかりなんだよ。ほら…ちょうど大きな火事が起きていた時に煤まみれになって」
騒がしかった二人が唐突に黙り込む。 両脇が静かになった理由を知らない一人と一匹は同じように首を傾げ、一人の方は一匹の方の頭を指先で撫でた。 優しげに細められる目が、何を映すのかは誰も分からない。
掛けられるのは、得体の知れない子供をこの場に導いた少年の声。
「名前、あんのか?」
「んー、まだ、ない。名前はまだ、ない」
「………?」
不自然に区切られた言葉に訝しげに眉を寄せるフィーロだが対して返された笑みは軽いもので、被りを振ってから意味が告げられる。 いつか読んだ日本の本でそんなフレーズがあったのだと、そう言うと、フィーロは感心したように息を漏らした。
「なら、今度ヤグルマさんと話してみるといいんじゃないか」
「ヤグルマさん?」
「あそこにいる、ほら、頭領の傍にいる、爺さんの方」
フィーロが頭領と言って示した人物のすぐそばには二人の人物がいて、その年老いた方がヤグルマというそうだ。 もう一方の、若い男の方は、名を知らないが、どうしてか目があったら終わりだと思わせそうな威圧感があった。 それを誤魔化し、リオンは白鼠を掌の上に導く。
「じゃあ…カルチェ」 「ん?」 「鼠の名前、カルチェ」 「…ぷ、ははっ。そのままじゃん」
吹き出すフィーロと、復活したペッチョとランディ。二人組は先刻同じ地位に立ち並んだ少年に顔を寄せて尋ねる。 『カルチェ』とはどういう意味なのかを。
「ペッチョさん、ランディさん。それは―――、」
フィーロが屈託のない、人によく好かれそうな笑みを浮かべて答えている最中、未だ空になるどころかちっとも減らない最初の杯を揺らしながら、リオンは呟く。
「calce……ふふ、皮肉だね。僕は黒猫で、君は白鼠。どうにも相容れない存在に聞こえるけど、僕は君を食べたりしないから安心してよ」
白鼠、今しがたカルチェ-白-と名付けた相棒からは返事が返ってこない。 所詮動物の知能はその程度、というわけではなく、その小さなアーモンド形の双眸がきっちりと見据えていたのは、先程名前と役柄だけ紹介された、幹部の中の一人。
秘書のロニー・スキアートという人物だった。
その切れ長で鋭い瞳と、目が合うリオン、彼は周囲の人間たちとは何かが『違』っていた。
息が、詰まる。
杯を手にしたまま、リオンの思考と動きが停止した。 動物的な本能が足を竦ませる、尤も人工的な生命にそんな本能があるのか彼女は知らないのだけど。 肩の上で鼠が身震いしていることに気付かないふりをして、手にしていた杯を一気に煽ろうとするのだが、気がつけば目前にその男はいて、杯が唇に触れる直前で止まった。
「…お前は、その酒を飲まない方がいいだろう」 「どう、して」 「それは不死の酒だからだ」 「な、っ!!」
あまりの動揺に手から滑り取り落とした杯を、秘書の男は目にも留まらない動きで受け止める。 ぱくぱくと酸素を求める魚のように口を開閉させるリオンを横目に、彼はふっと鼻を鳴らした。
「俺はロニー・スキアートという。お前の創造主とも一応知り合いなのだがな」
「……僕、は、リオン…フォーネロ」
周囲を見回せば、マルティージョ・ファミリーの面々のみならず、いつか見たことのある三兄弟やその家族、更に二人の店員までもが不死の酒を口にしているのだ。 これはある意味重大な場面に立ち会っているのではないかという動揺と、自らの創造主を殺せる可能性が増えたという喜び。 二つの相反する感情が渦巻き、リオンの呼吸を浅く、早くさせていく。
「この酒はお前のもの、どうするかは自由だ…まあいい」
「……はは、こんなものがあるから、僕は、」
親切に返された杯が割れる直前の力で軋ませ、リオンは口元を歪ませる。 まあいい、という言葉を最後にして、ロニーは騒ぎの中心へと戻って行った。
立ち尽くしていたリオンは、気を紛らわせようとすぐ傍のテーブルでごそごそと怪しい動きをしていたカップルに目をやった。 ここで自分の呼吸を乱されるのは癪に障る、例え先刻のロニーということが人間ではないにしても。彼女は無理に口元で弧を描き、彼らの手元に目をやってわざとらしいくらいに明るい声を出した。
「ねぇ、君たち何してるの?」 「よくぞ聞いてくれました!俺たちは武器を作ってるのさ!」 「私たちの最強武器だね!」 「当たった奴は涙とくしゃみが止まらなくなるすぐれものさ!」 「えげつないね!」 「本当にえげつないね」
二人が袋詰めにしているのは、胡椒と石灰だ。 そんな粉っぽいものと粘膜を刺激する香辛料を顔面などにくらったら、結果は容易に想像できる。 手慣れた様子で小袋に詰めている二人を眺めていると、彼らは突然リオンへ向き直った。
「そういやあんたの名前を聞いてなかったな、俺はアイザック・ディアン!」 「私はミリア・ハーヴェント!」 「え、あ、僕はリオン、よろしく」 「よろしくリオン!早速だがこれ作るの手伝ってくれ!」 「僕は別にいいんだけどアイザック、そんなことしていたら出された料理が全部なくなっちゃうよ?」 「それは大変だ!ミリア、早くいかないと!」 「食いっ逸れだね!」
大げさにも見える驚き方をしたアイザックとミリアは大きなテーブルの方へと向かう。 幸運なもぐり酒場で、陽気なアウトロー達の酒盛りは続く。 不死の酒の代わりに口へ運んだ蜂蜜酒は、甘くて美味しかった。
ちびちびと酒を飲みながらアイザック達の代わりに胡椒を袋詰めにしていると、フィーロが近づいてきた。 先刻から聞こえていた頭領の胡椒を求める声を聞かなかったことにして、リオンはフィーロを見上げる。
「楽しそうだね」
「ああ、すげぇ楽しいと思う」
「そっか。いい人たちだもんね、家族みたいだ」
「そうだな。…俺は幸せだ」
ゆるく微笑みを湛えた少年を見て、リオンも笑う。 この時間が永遠に続けばいいと彼が願っているのは、何となくわかった。 いつかのリオンも、そんなことを願った時期があったような気がしたから。
絶えず途絶えず、陽気な笑い声は一晩中続く。 命の一瞬の閃きを誇示するかのように、アウトロー達は精一杯に人生を謳歌した。
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