5.キス | ナノ


キス




 ある夜、男は囁いた。

 ――明日を、今までのあんたの人生で一番幸せな一日にしてやるよ。

 彼の恋人は目を細めて笑った。

 ――そいつはなかなか難しいと思うぞ。なんせ元親……お前さんをこう呼ぶようになってから、幸せじゃなかった日など1日もないからな……。



   *.☆。.゜☆゜。☆゚*



 澄みきった冬の晴れ空に、祝いの砲弾が高々と打ち上げられた。

 その後を追うように、海に浮かんだ宴会場から、景気のいい声が上がる。

「――行くぜっ、野郎共っ!!」

「アニキィ!!」

 上機嫌な西の海の鬼は、それぞれに酒の注がれた器をかざした部下たちを見回すと、自身もまた右手に杯を握り、振り上げた。

「この世で一番強い男は?」

「アニキィィ!!」

 そして左手で、傍らに寄り添う男の腰を恥ずかしげもなく抱き寄せる。

「この世で一番可愛い男は?」

「官兵衛さァァんッ!!」

 一滴も飲む前から赤い顔をし、小さく肩を竦める恋人にちらりと視線を合わせ、笑う。

「この世で一番お似合いな2人は?」

「アニキとッ、官兵衛さんッッ!!」

「野郎共!祝いの言葉を言ってみろ!!」


「アニキの大事な官兵衛さんの、御誕生日に乾杯ッッッ!!」

 また立て続けに2発、祝砲が上がる中、海の男たちは改心の笑顔で祝いの美酒を煽った。

 宴の主役もまた、手にした酒を口にしながらも、自らを抱く鬼を見やり、苦笑する。

「……お前さん、毎回こういうの、よく照れもせずにやれるな……」

「照れる必要なんかねぇだろ? ここにいんのは、全員家族みてえなもんなんだからな」

「家族、か……」

 官兵衛がそう呟いて幸せそうに微笑みながらも、一瞬どこか遠くを見つめるような目をした理由は、過ぎ去った日の記憶が蘇ったからだと元親は気付いていた。

 本来ならば仇として恨みと憎しみを向けられてもおかしくない連中から、生まれた日を祝福される――この温かく、活気に満ちた家族の中に、今こうして自分が入り込んでいることが、かつての出来事を思うと感慨深いのだろう。

 昨夜官兵衛は「幸せじゃなかった日など1日もない」と言った。それは嘘ではないのだろうが、一方でかつての傷を忘れた日も1日もないのではないかと思えてならない。

 現に官兵衛は未だに月に一度、自らがこの地を侵略したその日に戦死者の墓碑に花を添え、祷りを捧げることを欠かしていなかった。

 悲しいことなど何もかも忘れさせてやりたいと思う反面、奪った命の重さを忘れず、悼み続けてくれることが少し嬉しくもある――随分勝手な話だ。

 ――だがどの道腹は決まっている。

 その魂に残る傷跡ごと全てを愛し、一生守ってやると。

「よっしゃ……行くぞ官兵衛!」

「ちょっ、も、元親?」

 甲板の至るところから歓声が上がった。

 元親が、自分より身の丈のでかい官兵衛を、か弱い姫君でも抱くように両腕で抱え上げたためだ。

「ヒュウ♪」

「かっこいいぜ!!アニキィィ!!」

 部下たちの声援を受けて狼狽えて真っ赤になる官兵衛。

「お、下ろしてくれ……いくらなんでもこれは、やり過ぎだろう?」

「やって過ぎることはねえだろ? 今日はあんたを一番幸せにする日なんだからな」

 官兵衛を抱えたまま、階段を降りると、甲板の部下たちは一斉に道を開ける。

 まるで花道のようなそこを通り抜けると、今朝早くに沖に出て元親自ら捕ってきた魚がどっさり入った箱の前に連れて行ってやり、そこでようやく官兵衛を解放した。

「どの魚が食いたい? 俺が下ろして料理してやるよ」

 官兵衛はまだ真っ赤な顔をしながらも、しげしげと箱の中を覗く。

「お、こいつは大漁だな……」

 元親の料理は海の男の料理だ。

 三枚に下ろしてそのままワサビと醤油で食べるか、衣をつけてカラッと揚げるか、豪快に鍋に放り込んでぐつぐつやるか――手の込んだものや、繊細なものは作れないが、今日この日に官兵衛の腹を満たすものは自分の手料理でなければ、と思っていた。

 官兵衛はじっくりと釣果を検分し、ぽつりと、

「――鼠頭魚(きす)がいるな……」

 ――と呟いた。

「鼠頭魚か……そいつなら天ぷらがいいな!俺に任せとけ」

 箱の中から一番形のいい鼠頭魚を掴み取る元親に、官兵衛はふっと意味ありげな笑みを浮かべた。

「――なあ、知ってるか? 元親。海向こうの国じゃ、口吸いのことを『キス』って言うらしいぞ」

「へえ……」

 相変わらず妙なことをたくさん知っている奴だと感心しながら、自分が引っ付かんだ淡い褐色の長細い魚を眺めた。

「――こいつを食ったら口吸いが上手くなったりしてな」

「は、そんな馬鹿な……」

「――後で試してみようぜ」

「も、元親っ!」

 ようやく赤みが引き始めていた顔が、またあっという間に色付くのを見つめていると、堪らない幸福感を覚える。

 ――俺のほうが幸せになっちまってどうするんだかな。

 そう心の中で呟きながらも、さて料理の支度をしようか……と、用意万端の厨に身を翻そうとした刹那――。


「アニキィィ!!」

 見張り台の上にいた部下が突然声を張り上げた。


「――こいつはやべえ……敵襲ですぜ、アニキ!!

 毛利の水軍がこっちに向かってやがる……!!」



「なん……だと……!?」


 あの野郎――まさかこの日を狙ってやがったのか?

 俺たちが官兵衛の誕生日の宴で盛り上がる……その隙を――どこまでも狡猾な野郎だ……。

「ちっ……しょうがねぇな、おい野郎共!迎撃の準備だ!!祝宴の邪魔もんには、とっととお引き取り願おうぜ!」

「やっちまおうぜ、アニキィィ!!」

 にわかにバタバタと慌ただしくなる甲板――元親は手にしていた鼠頭魚を元の箱に戻すと、傍らの恋人を見やり、ため息をついた。

「――すまねえ、一番幸せな1日どころか、とんだことになっちまったな」

 しかし官兵衛は口の端を吊り上げて、不敵に笑ってみせる。

「いいじゃないか、まだ今日1日は始まったばかりなんだからな。それに折角の機会だ……小生とお前さんで、あの男に一泡吹かせてやりたいもんだがね」

「……ああ、そうだな……!」

 そう応えながら、そっと愛する男を胸に抱き寄せた。

「――鼠頭魚はちょっとばかりお預けだ……代わりに、あんたにこれをやる……」

 ――真っ直ぐ目を見つめながら顔を近づけた。

 他の誰にも食わせられない、特別な「キス」をたっぷり味わわせるために。






《Happy Birthday☆》




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