見えざる弾創 いつものように“主”からの文を預かった風魔小太郎が、いつものように舞い降りた石垣原の坑道には、いつもとは違う顔があった。 「お前は、北条の……こんなところで出会すとはな」 風魔を目に留めるや、微かに口の端を吊り上げて微笑したその女は――かつて小田原を陥落させた傭兵団の長。 雑賀孫市だ。 「おお、風切羽。お前さんも来たか」 その傍らで盃を手にした官兵衛が、心なしかいつもより上機嫌で声を掛けて来た。 「ちょうど鬼島津に貰った酒で一杯やってたとこだ。お前さんもどうだ?」 ここでは滅多に手に入らない筈の酒――御座を敷いただけの粗末な宴席だったが、簡単なツマミも何種類か並べられている。 官兵衛の機嫌がいいのはこれのせいなのか、あるいは珍しい客人の為なのか。 客人は御座の上に胡座をかいた官兵衛の右隣に片膝を立てて座り、静かに盃を煽っている。 だがそんなことは、まるで関わりのないことだとばかりに、風魔はすすめられた徳利を無視し、“主”の書状を無言で差し出した。 「ん? ああ、いつもすまんな」 官兵衛のほうも慣れたもので、気を悪くしたふうでもなく書状を受け取り、すぐにその場で目を通し始めた。 書状に記されている内容は、恐らく先日の官兵衛の文に対する答えだ。 要請に応えて東軍に降った場合の具体的な待遇についてということだったが、氏政が弁舌を尽くして懸命に家康と交渉をしただけに、官兵衛には破格といって言い待遇が用意されている。 「まあ、なかなか悪くないな……」 当然ながら、好感触な様子だ。 「この条件なら、東軍につくのも悪くないな……」 「――東軍、か」 孫市がぽつりと呟き、それに反応した官兵衛は文に落としていた視線を上げた。 「そういえばお前さんも東軍から誘われていると前に言っていなかったか?」 「ああ、東西両軍から申し入れはあった――だが、どちらと結ぶかはまだ決めていない」 事も無げに言い放たれた言葉に、官兵衛は眉根を寄せた。 「悪いことは言わんから、西軍につくのはよせ。凶王なんかに味方してもいいことなど何もないぞ」 孫市は空の盃を指先で弄びながら官兵衛を見つめ、淡い笑みを浮かべる。 「心配してくれているのか? フッ、相変わらずの人情家だ」 「に、人情家? 小生は別に……――おい、風切羽、なんとか言ってやれよ!」 「……」 居心地の悪そうな顔で無茶な振りをしてくる官兵衛に沈黙で応えながら、風魔は孫市を見やった。 もしもこの女――雑賀孫市が西軍と契約を結ぶとなれば、再び戦場で見えることになる。 小田原を陥とされたことに対する「恨み」など、心を持たぬと自負する風魔には無縁のものだ。 戦場で、「雑賀孫市」の命を奪うことに感慨など何もあるわけがない。 だが。 黒田官兵衛にとってはそうではない。 「……出来ればお前さんとはやり合いたくないんだがね」 深く溜め息をつき、盃の酒を一気に飲み干す。 「我らは、我らを最も高く評価する者と契約する」 孫市はわずかに目を細め、徳利に手を伸ばすと、官兵衛の盃に酌をしてやりながら、何かの世間話でもするようなごくあっさりした口調で、 「――お前はどうだ? 我らをどう評価する?」 そう囁いた。 「答え次第では小生と契約しようとでも言うのか? は、お前さんとの契約を果たして手土産に出来たら、ますます小生の待遇はよくなるかもしれんな」 官兵衛は、酒の席の戯れだろうとばかりに一笑する。 何が愉快なのか孫市もまた、笑みをたたえたまま更に口を開いた。 「だがどの道、お前はどの勢力につこうが、ずっと大人しくしているつもりはないのだろう?」 全てを見透かしたかのような物言いに、官兵衛は一瞬動きを止めた。 「……さあな」 短い答えで茶を濁し、はぐらかすように小さく笑うと、逆に孫市の盃に酒を注いだ。 孫市は、まるで官兵衛のことを何もかも理解しているとでも言いたげな余裕の物腰で酌を受け、 「官兵衛、お前の小田原での采配はなかなか見事だった。きっと、徳川よりも石田よりも我らを巧く使えるだろう――そう思わないか?」 最後の問いの矛先は官兵衛ではなく、半ば蚊帳の外となっていた風魔に対するものだった。 「……」 「沈黙か……そうしている間に官兵衛は我らと結んで、東軍からの誘いを蹴ってしまうかもしれないが、お前はそれでいいのか?」 「……」 孫市はその目に心なしか冷たいものを宿しながら、まっすぐに風魔を見つめて告げた。 「受け取った金子の分くらいは雇い主に貢献することだ――信念も誇りも持たないならばな」 「孫市」 官兵衛がすかさず割って入った。 「そんな言い方はしてやるな」 笑みを打ち消し、いつになく真面目な顔つきで告げる。 「忍には……風切羽には風切羽なりの生きざまってのがあるんだろうよ。小生やお前さんの物差しで推し量っても仕方がないのさ」 どうやら擁護されているようだ。 風魔は奇妙なものを見つけたように官兵衛を冑越しに凝視した。 確かに官兵衛の言う通り、忍というものは、人世とは別の理で生きるものだ。到底、ただの人に理解出来るものではない。 やたらと「評価」などというものを気に掛けている目の前の女を理解出来ないのと同じように。 孫市はじっと風魔を見つめていた二つの瞳を、再び官兵衛のほうに向けた。 「気に入っているようだな、この忍――少し妬けると言ったら笑うか?」 「は?」 意味がわからないという顔をしている官兵衛の幅広な肩に、孫市はとんと手をついた。 「少し本気でお前を口説いてみたい気分になったぞ」 楽しげに呟いた薄い唇が、官兵衛の太い首筋に軽く触れた。 「ッ」 びくりと震えた官兵衛の盃から、上等な酒が無惨に溢れ落ちた。 「ま、まご……」 「初々しい反応だな、まさか初めてだったのか?」 「なっ……違う、そんなわけがあるか……!!」 官兵衛は火がつきそうなほど顔を真っ赤にしている。 「……ここじゃ女神なんざ無縁でね……少しばかり御無沙汰だっただけだ」 動揺で声音まで震えている官兵衛を、まるで上空から獲物を見付けて飛来する鳥のようにぎらついた目で見つめ、 「――ならば、もう少し可愛がってやろうか?」 耳元に囁きかけ、肩に乗せていた手を伸ばし、からかうように官兵衛の髪をすいた。 「お前さん……ちょっとばかり呑み過ぎだろう……」 「お前が酌をしてくれた酒が美味かったからだろう?」 「どこでそんな色男みたいなこまし台詞を覚えて来るんだ……」 「フフフ……だが悪い気はしないだろう? それとも私が相手では不満か……?」 「いや……それは……」 じわじわと追い詰める女と、じわじわと追い込まれる男。 風魔はそのやりとりをしばし傍観していた。 そして。 全く何の前触れもなく、背中の小太刀を抜いた。 瞬時にその場から跳び、一瞬姿を消して、孫市の背後――完全なる死角に顕現し、何の躊躇もなく小太刀を振りかざした。 小気味のいい破裂音と、金属がぶつかりあう澄んだ音がほとんど同時に響いた。 孫市が官兵衛に触れていたのと逆の手で即座に腰の銃を抜き、後ろを振り返りもせずに引き金を引いたのだった。 放たれた弾丸は正確に風魔の小太刀と弾かれ合い牽制した。しかし風魔は動じず、官兵衛が異変に気付いて慌て出すよりも早く、もう一方の小太刀で二段目の攻撃を仕掛ける。 孫市は官兵衛の肩を押すようにして反動をつけて振り返り、目にも止まらない早さで二発の弾丸を撃ち出した。 一つの弾が二段目の攻撃を弾き、もう一発が風魔の頭の横をかすめた。 狙いが外れたのではない。わざと外して挑発しているのだ。 ――忍如きの技で、殺れるものなら殺ってみるがいい。 そう嘲笑うかのように。 風魔はそれを静かに受け止めると、一度刃を鞘に納めると、地に片膝をつき、両の手を合わせて印を結ぼうとした。 「待て待て待て、何やってんだお前さんたち……!!」 ようやく状況を半分ほど理解した官兵衛が制止する。 「お、おい風切羽、さっき孫市が言ったことが気に障ったのか?」 そうではない。 心を持たない者に、「気に障る」などという事象は起き得ない。 ただ官兵衛を東軍に引き入れるため力を尽くせ、という“主”の命令に従い、邪魔になりそうな人間を葬ろうと考えただけだ。 命を取れずとも、引き金を引く腕の一本でも落とせればいい。 そういう冷静な判断から動いたに過ぎない。 ――だが。 「小生からも謝るから、この場は収めてくれ、な?」 さながら孫市を背に守るように身を乗り出す官兵衛と、そんな官兵衛を一瞬驚いたように見た後、目を伏せて僅かな笑みを浮かべた孫市――それらを目の当たりにしていると奇妙な感覚に襲われる。 それは傷口から血があふれ出す時の感覚に似ている。 傷口だけが熱く焼けるようで、それ以外の部分が血の気を失い、どんどん冷えていく。 軽い目眩すら、覚える。 ――弾創はどこだ? ――どこを撃ち抜かれた?? 傷ならば止血すればそれで済む。 だが身体中のどこにも傷など存在しない以上は、どうにも出来ない。 ただ意識が眩むような感覚に、身を委ねる他ないというのか。 打つ手がない――そう判断し、死すらも覚悟した時、 「――風切羽」 まるでむずがる赤子をなだめるような口調で、官兵衛が呼び掛ける。 「久々の酒宴で浮かれていて悪かった――折角お前さんが会いに来てくれたのにな」 そう言って苦笑すると、孫市を振り返り、 「悪いが、今夜はお開きだ」 と告げた。 「ああ、そうだな」 静かに御座から立ち上がった孫市は、風魔をちらりと見やり、 「すまない、少し大人げなかった」 と、笑った。 気づけば収まっていた例の感覚をいぶかしみながら、風魔は地についていた膝を伸ばし、すっくと直立した。 その様子に何かを感じ取ったのか、官兵衛はひとつ安堵の溜め息をついた。 その後でふと思い立ったように、 「孫市、ところでお前さん、ここに来た理由は小生に話があるから、と言ってなかったか?」 酒宴の席から半ば立ち去りかけていた孫市に問いかけた。 孫市は少し目を細め、どこか楽しげに答えた。 「その件は、また日を改める――こんなところでこれ以上、無駄弾を撃つ気はない」 「は?」 意味がわからない様子の官兵衛に背を向け、雑賀衆の頭領は颯爽と穴蔵の外へ歩んでいった。 「なんだったんだろうな……?」 風魔は、杯に残った酒を舐めながら首をひねる官兵衛の、その足元に転がった薬莢を見咎め、冑の奥の目をすがめた。 じくじくと疼き、血を滲ませる見えざる弾創。 こんな時は理屈よりも、感覚が物語る。 ――あの女には、警戒が必要だ。 《終》 ★戻る★ ★Topへ戻る★ |