許さじとす | ナノ


許さじとす



 徳川家康という男は、やると言ったことは必ずやり遂げてしまうのだ。

 天下統一という見果てぬ夢さえ掴み取った今では、日ノ本でそれを知らない者はいない。

 その家康が徳川の重鎮を集め、皆の前ではっきりと宣言した以上、それはもはや覆ることはないだろう。

 たとえそれが、


「ワシは近いうちに黒田官兵衛を正室に迎えるつもりでいる」


 ――などという突拍子のない言葉だったとしても。



   * * *



「――小生がお前さんの家臣なら、迷わず医者を呼ぶぞ。我が殿が政務に疲れて正気を失ってしまったらしいってな……」

「……なに、どうということもない。いつもみんな最初は驚くんだ」

 体温の高い手のひらが頬を包む。

「秀吉公を討つと言った時も……」

 指先が愛おしそうに輪郭を辿る。

「武器を捨てると言った時も……」

 軽く唇に口づけして引き寄せる。

「――官兵衛、お前は何も心配しなくていい。全てワシに任せろ」

 強く抱き締めてくるる腕の中で、官兵衛は微かに身を震わせた。

 背筋を駆けた震えは嫌悪ではない。恐怖でもない。

 だとするならば、これは悦び、なのだろうか。

 いやそれとも何か違うような。

 家康から求愛され、半ばほだされるようにして、その傷だらけの手を自らの意志で掴んでしまったあの日から幾日かが過ぎ、家康の居城に移り住むようになってからも、官兵衛はまだ完全に戸惑いを拭うことが出来なかった。

 家康の想いは本物だ。本気で官兵衛と添い遂げることを望み、惜しみ無い愛を与えてくれる。

 家康の傍にいると、愛されることの心地好さに溺れてしまいそうになるが、なればこそ「果たしてこの愛を全て受け入れられるのか?」という疑念は頭を離れない。

「――官兵衛……愛してる」

「っ……ん」

 愛の言葉とともに先程よりも深い口づけを施し、家康は官兵衛の身体を解放した。

 そして少しはにかんだような、けれど嬉しそうな笑顔を浮かべ、

「――だんだん巧くなってきただろう?」

 と悪戯っぽい口調で告げ、それに官兵衛が顔を赤らめて、

「っ……知るか……まったくお前さんは……」

 などとぶつぶつ呟くと、いよいよ楽しそうに笑う。

 その笑顔を直視出来ないのは、身体に残された温もりのせいだろうか。

 家康は毎夜官兵衛の部屋を訪れ、こうして愛を囁き、唇を重ねて、抱き締める。

 だがそれ以上は求めては来ない。

 もし今、家康から組み敷かれ、それ以上を求められたとしたら、それに応えることは出来るのか――正直なところ官兵衛にはまだ自信が無かった。

 あるいはそれを察しているから、家康は求めて来ないのかもしれない。

 求愛を拒まなかったくせに、いつまでも腹を括りきれないことを、家康は歯痒く思ってはいないのだろうか……?

「――どうかしたのか?」

 頭の中で渦を巻く葛藤と疑念は少なからず顔にも出ていたらしく、家康は心配げに官兵衛の顔を覗き込んで来た。

「いや……別に……」

「何かあるなら言ってくれ。ワシはお前に一欠片でも不満や不安を抱いていてほしくないんだ」

「権現……」

 この場を適当にごまかすことを良しとはしない、はっきりした物言いに、官兵衛は気圧されたような格好で口を開いた。

「……その……あれだ……なんというか……お前さんは、辛抱強い奴だとは思うんだが……」

「え? ……ああ、まあ、確かに良くそう言われるな」

「……だからといってお前さんに……無理をさせてるんなら悪い、な……と……」

 しどろもどろな官兵衛の言葉に、家康は困惑したように眉ねを寄せる。

「すまんが、ワシはお前ほどは聡くない……ワシに理解出来るように、もう少しわかりやすく言ってくれないか?」

「……だ、だから……ようするに……」

 官兵衛はこの期に及んでまだしばし躊躇ったものの、とうとう半ばやけくそになって言った。


「ようするに、お前さんが、小生を抱きたいと思ってるんじゃないか……ってことだ!」


 家康は一瞬虚を突かれたような顔で官兵衛を凝視し、それから、弾けたように笑った。

「ははは、お前は本当に面白い男だな」

「わ……笑うな。小生は一応これでも心配してるんだぞッ!!」

 居ても立ってもいられないような恥ずかしさを覚え、思わず夜分にも関わらず声が大きくなってしまう。

 家康は、と人差し指を立てて、しっ、と官兵衛の唇に当ててきた。

「笑って悪かった。だから静かに、な?」

 確かに正室問題で家臣が少なからず動揺している今、言い合いしているような声を他の者に聞かれるのは、あまりいいことではない。

 官兵衛が黙って頷くと、家康もそれに頷き返してまた口を開いた。

「お前にもっと触れたくないのかと問われれば、もちろんそうしたい。お前と肌を合わせて、深く繋がることができれば、ワシは無上の喜びを感じるだろう」

「――じゃあ、お前さんはなぜそうしない……?」

 そう問い掛けてから、これではまるで「何かしてほしい」とねだっているようではないか……と思い至り、いよいよ羞恥心が押し寄せたが、こうなってはもう仕方がない。ただ答えを待つのみだ。

 家康は穏やかに微笑し、そっと官兵衛の手を取った。

「……ワシはな、官兵衛。自分に誓いを立てているんだ」

「……誓い?」

 家康は官兵衛の手を優しくなぞり、そこに付けられた冷たい戒めに触れた。

「ワシは前に、これを必ず外してやると言っただろう? その約束を果たすまで、お前に手出しはしないと決めているんだ」

「……権現……」

 まったく予想もしていなかった答えに、官兵衛は唖然としていた。

 確かに手枷を外す方法を求めて、家康が忙しい政務の合間に手を尽くして動いてくれているのは知っていた。

 だがまさか、自らの内々にそんな誓いまで秘めていたとは。

 家康が官兵衛の身体を求めない理由は、遠慮の類いではなかったが、官兵衛に関わることなのには違いない。

「やっぱり、小生のために辛抱していたんだな……」

「官兵衛――ワシが早くお前の枷を外したいと思うのは、なにもお前だけのため、ということじゃないぞ」

 家康は、官兵衛の右手をぎゅっと握る。

「ひとつは、日ノ本の民のため。まだこの国はまとまったばかりで不安定だが、お前のような有能な人間が自由に動けるようになればそれだけ早く泰平の世が来る」

 そうして、左手もまた同じように強く握り締める。

「それから……ワシ自身のため、だ」

「お前さんの……?」

「ああ」

 家康は微笑んだまま、しかしどこか張り詰めたような瞳で官兵衛を真っ直ぐ見つめた。


「嫌なんだ――お前が、ワシ以外の者に囚われたままでいることが」


 握られた両手に一層の力が込められた。

「その枷をしている限り、お前は三成に……あの月に縛られたままのような気がする。

――ワシはお前を、月には帰したくない」

「……小生はかぐや姫か?」

「違う。だから……離れないでくれ。ワシの元から」

 そう囁かれた瞬間、また背中をずくんと震えが走った。

 「嫌悪」ではなく。
 「恐怖」でもなく。
 「悦び」とも違う。

 そうこれは――「悦び」を期待する「疼き」だ。

 そう気づいた途端、官兵衛は何かに突き動かされように、太い首を伸ばし、自ら家康に口づけた。

「んっ……」

 突然のことに驚いて離れようとする手を引き留めて、反対に強く握ってやりながら、どんどん口づけを深くしていく。

「ん……ふ」

 呼吸をするために離れては、また吸い付き、舌を挿し込み、絡める。

 断続的に訪れる震えに全身が戦慄いた。

「……っぁ」

 唾液の糸を引きながら唇を離し、そのまま家康の肩口に頭を押し付けるように委ねた。

「……官兵衛……?」

 家康は荒く息を吐き出しながら官兵衛を呼ぶ。

 官兵衛もまた、乱れた息の合間に「権現」と呼び掛け、震えを帯びた声をしぼり出した。

「……すまんな……小生はお前さんほどは……辛抱強く、ない……」

 これで察してくれ、とばかりに身体をより密着させるようにすると、頭を預けている家康の肩がびくんと揺れた。

「……お前……」

 気持ちの高まり故に身体が昂るのか、身体の昂り故に気持ちが高まるのか……もはやそれすら曖昧だったが、そんなこと今はどうでもいい。

 この震えを止める術はもうひとつしかないのだから。



   *  *  *



 褥に仰向けに転がり、顔だけを横に向けて視線を逃がしながら、官兵衛は浅い呼吸に身体を弾ませている。

 あますことなく暴かれた肌は、穴蔵暮らしの長さゆえか、思いの外白く、鮮やかに紅潮しているのがはっきり見てわかる。

 それを上から眺め、思わず家康は息を呑み、口を開いた。

「……いいんだな? 本当に」

 官兵衛は黙ったまま首を縦に動かした。

 ああ。

 愛する人が、抱いてほしいと言ってくれている。

 誰にそれを退けることが出来るだろう。

「官兵衛……」

 覆い被さり、さらけ出された胸元に唇を落とす。

「っ……ぁ」

 小さく鳴きながら、枷と自らの腕で顔を隠すようにして大きな身体を震わせている。

 出来れば腕をどかし、自分の愛撫で愉悦に喘ぐ顔を見たかったが、今そんなわがままを言えば逃げてしまうかもしれない。

 逃がしはしない。
 放したりしない。
 誰にも譲らない。

 一度解き放てば辛抱などきかない想いに押し流されるようにして、身体の隅々まで丁寧に優しく、けれど激しい愛撫を繰り返す。

「っ……は……」

 せつなそうに身悶えながらも大人しく受け入れようとする様に更に愛しさが込み上げてくる。

 もっと慎重に、大切に、時間を掛けて心と身体を開かせるつもりだったのに、ずいぶんと予定が早まってしまった。

 枷を外してから――という自らの誓いすら、反故にする羽目になるとは。

 日ノ本広しなれど、徳川家康の決意を覆らせることが出来る者は、この黒田官兵衛以外にはいないだろう。


「……お前は本当に、怖い男だ……」


 苦笑まじりに呟きながら、待ち焦がれた無上の喜びを求め、その扉に手をかけた。







《終》



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