ハコイリジャック | ナノ


ハコイリジャック





「……刑、部……」

 たっぷりと熱を帯びた声とともに伸ばされた武骨な手が、輿の縁をすがるように掴んだ。

「……刑部……」

 他の言葉を失念してしまったかのように、ただそう繰り返し、かつて誰の前でも浮かべたことがないだろう、媚びるような、甘えるような表情を見せる男を、大谷はしげしげと見下ろし、

「――まるで犬ころよなァ……」

 静かに呟く。

「それ、わんと哭きやれ……」

 無表情に告げた言葉に、男はにっ、と楽しげに口許を歪めた。

「……わん……!」

 平素なら顔を真っ赤にして怒りそうな蔑みの言葉に、従順に応え、至福の笑みをたたえる男から、大谷は思わず目を反らした。


「……やれ。これが暗とは……まこと愉快な冗談よ……」

 反らした目の先には、小箱があった。

 赤い紐で封されていた緑の箱は開け放たれ、無造作に転がっていた。



  † † †



「よく来てくれたな、大谷」

 西国一の策士から、爽やかな笑顔で迎えられた大谷は、

「――そろりと戻るか。長居してすまぬな、同胞よ」

 と、すぐさま輿を旋回したが、すでに背後に矢をつがえた弓兵がずらりと並んで退路を塞いでいた。

「……」

 無言で向き直れば、

「そう急かずともよいであろう……我の話をゆるりと聞いてゆくがよい」

 毛利元就は、どこまでも爽やかに笑う。

「やれ……頭の痛いことよ……」

 嘆息混じりに吐き捨て、気だるく首を回しながら輿を少しばかり降下させた。

 直ぐ様、茶と菓子とが運ばれてきたが、毛利はそんなものなど眼中にないように、「よいか大谷、愛とはな……」と至って真面目な口調で語り始めた。

 ほんの数日会わぬ間に、毛利が奇怪なる異国の宗教の幹部に返り咲いたとは聞いていた。

 その上で安芸から呼び出しの書状が届いた時から、応じればこうなる予感はあったのだが、仮にもこれは同盟国からの要請――冬を迎えても東軍との戦にけりがつかず、長期に亘り西軍各国との関係を密に保ち続ける必要のある今、無下にも出来ないのが辛いところだった。

 愛、愛、愛――覚えたての言葉を夢中で使う童子のように、一つことを繰り返す同胞を、当人の気が済むまで、生あたたかい目で見つめる他ない。

「……それが愛だ。貴様にこの素晴らしさが解るか?」

「まったくよ、素晴らしきよなァ……」

 右から左に話を聞き流し、適当に相槌を打ちながら、ふと大坂城内の座敷牢に繋いである、あの男のことを頭に浮かべた。

 暗。黒田官兵衛。

 あれも以前に、ジョシーなどと珍奇な異名を名乗って、愛がどうだと息巻いていた時期があった。

 すぐに三成の耳に入って大坂に連れ戻され、手痛い仕置きを受けて牢に繋がれたが。

 先だっては留守の間に座敷牢を抜け出し、大坂城の乗っ取りを企てたようだったが、仕損じた上に城郭を傷つけ、三成を手がつけられないほど激怒させた。
 あの時ばかりは、殺さない程度の断罪に留めるように宥めるのに苦労した。
 半殺しにされ、三日ほど気を失っていたが、その程度なら儲けものだろう。

 あれほどの災禍に見舞われても、懲りないあの男のことだ……こうしている間に、また何か企てているかもしれない。


 ――そうよ。

 ――ぬしは、もがき、足掻いて、企てよ。

 ――われがそれを、叩いて潰そ……ヒッ……。


――われはなァ……叩き潰され、希望を失望にすげ替えられ、悲嘆するぬしの顔が見たいのよ……。


「……聞いておるのか?大谷」

「おお、すまぬわ、ぬしの高説に、思わず感じ入ってな」

「そうか……ならば今日のところはこれでしまいとするか。愛とは奥深く壮大ゆえ、あまり多くを一度に話しても貴様には理解出来まい」

「さようか、さようか。そうであろうなァ――さてわれも急ぎ大坂に戻りて、三成にも愛の素晴らしきを説かねばなァ」

 どうやら苦行も一段落したようだ、と胸の内で安堵し、またふわりと輿の高度を上げ、旋回しようとした。

「待て」

 毛利がそれを引き留めた。

「貴様に土産がある」

 やれまだあるのか――と頭を抱えたい心境の大谷の前に、恭しく台に乗せられた、掌に乗るほどの緑色の小箱が運ばれてきた。

 小箱には赤い紐が掛けられ、上のほうで蝶々の形に結われている。

 毛利の良く好む色の箱に、大谷の紋を思わせる紐――友好の証とでも宣うのかと、背中が寒くなる。

「それなる小箱は、我が先日ザビー様より直々に賜りしもの……大坂に持ち帰り、石田と二人で開くがよい」

「……われになど渡さず、大切にしまいおけばよかろ」

「それは我が所有していては意味がない――贈り物として他者に手渡し、初めて真価を発揮するものぞ」

 いよいよもって悪しき予感しかなかったが、受け取らなければ退路を塞ぐ兵は弓を下ろしそうもない。

 無論、力づくで押し通ることも出来なくはないが、こんな箱一つの為に同盟を決裂させるわけにもいかない。

「……やれ、ぬしの格別の持て成し、ありがた過ぎて涙が出そうよ」

 諦めの境地で小箱を数珠で引き寄せ、その手に取った。

 箱は本当に何か中身が入っているのか怪しいほどに軽く、揺すっても何の音もしなかった。

「――毛利よ……これの中身は……」

「決まっておろう」

 毛利は恍惚めいた光を宿した切れ長の目をすっと細めた。


「――愛、だ」



  † † †



「……刑部……刑部……」

 夜半の静かな座敷牢に、半ば病的に繰り返し紡がれる同じ音だけが響いていた。

 膝立ちで輿に上体を預けるようにして、官兵衛は大谷の膝に顔を摺り寄せ、胡座をかいた脚を撫でていた。

「……」

 大谷は沈黙したままその様をじっと見下ろしていた。

 これは呪詛の類だろう。

 異国からもたらされたものゆえに、大谷が使うそれとは質が異なるものだが、恐らく、呪い、と呼ぶに相応しいものだ。

 箱を開いた者を、箱の贈り主の虜とし、意のままとする呪い。

 毛利の言った通りに、三成と2人で開けていれば、大坂は容易く安芸に――いや、ザビー教の手に落ちていたことだろう。

 連中の傀儡に成り果て、日がな一日愛、愛、愛と説き回り、爽やかな笑顔を浮かべる己と三成を想像すると、冷や汗が出る。

 回避出来て何よりだった。

 ――だが。

「……刑部……刑部……」

「やれ……これはどうするか……」

 この箱を開ければ、われの庭より解き放ってやろ――そう嘯いただけで、さんざん疑いの文句を口にしながらも、素直に紐を解いた、この間抜けで不運な男をどうすればいいのか。

 手を伸べ、試しに少し頭を撫でてやれば、あ、と声を洩らし、心地良さそうに目を細める。

 やはり一度も見たことのない顔だった。

 幸福そのもののその顔は、大谷を少しばかり苛立たせた。

「――われに頬擦りなどしてよいのか、暗よ……病が伝染るは恐ろしかろ」

 官兵衛は刑部の顔を見上げ、意味がわからないというように目をしばたかせた。

 だがすぐにまた、

「刑部……」

 蕩けるような声で名を呼び、あどけなささえ感じさせる笑みをたたえる。

 一面の白雪のように、一点の翳りもない無垢な好意。

 この白雪を踏みにじり、泥にまみれさせたら愉快だろうか……?

 ふと過ったそんな思いに、大谷は喉奥で小さく笑んだ。

「――暗よ、われが愛おしいか?」

 問いかけながら頬を撫でてやると、官兵衛はくすぐったそうにしながらも、「ん」と、はっきり頷いた。

 大谷もまたそれに「さよか」と頷き返し、そして、

「――……だが、われはぬしを好いておらぬ」

 おもむろに大きく輿を揺らし、寄りかかっていた官兵衛の体を弾き飛ばした。

「――うッ!!」

 もんどりうって仰向けに倒れ込み、流石に苦悶の表情を浮かべる官兵衛に少し近づき、見下ろしながら追い討つように告げた。

「――われはぬしが疎ましいのよ……いっそ死んでくれぬかと思うほどなァ……」

 ――無垢な好意を拒絶され、否定されたこの男はどんな顔をするのか。

 昏い愉悦に震えながら見守る大谷を、官兵衛は呆然としたようにしばし見上げていたが、ほどなくしてまた笑みを浮かべると、今しがたと同じように「ん」とはっきり頷いた。

 そして枷のつけられた両手をそろりと伸ばし、小箱に結わえられていた赤い紐を掴んだ。

「……暗?」

 不穏な動きに思わず呼び名を口にすれば、官兵衛はこの上ないほど嬉しそうに前髪の奥の目を輝かせながら、手にした紐を見せつけるように首に巻き付け……そして。


「ならぬッ――!!」

 考えるより先に体が動いた。

 輿から飛び降り、官兵衛の体の上にドサリと落ち、夢中で手を伸ばして、太い首に絡む紐を奪い取った。

「……ぁ」

 返してほしい、というように手を伸ばそうとする官兵衛に、

「――死にやるな……ッ」

 鋭く、言い放つ。

「嘘よ嘘……至福の中で死ぬるぬしなど、われは見たくもないゆえ……」

 偽りのつもりはまるでないが、口にした己の言葉が妙に言い訳がましく思えて滑稽だった。

「……刑部……」

 こちらの心情など解りもせずに、また名を呼び、触れてくる官兵衛。

 これでは駄目なのだと理解する。

 呪詛を解かぬ限り、この男は絶対的な幸福に包まれ、けして不幸にはならない。

 盟友曰く、奥深く壮大な「愛」なる箱に囚われたまま……。

「――暗よ」

 官兵衛の体の上に乗ったまま、先程と同じように頭を撫でてやる。

「南にいた折、ザビー教が用いる呪詛について、ぬしは聞いておらなんだか? 呪詛の解き方が解ればわれに教えやれ……」

 官兵衛はじっと刑部を見つめながら、三度「ん」と頷き、

「……吸い出すんだ……」

 とぽつりと答えた。

「……吸い出す、と?」

「そうだ……吸い出す……」

 官兵衛は、そっと頭を撫でていた大谷の手を掴み、先端まで包帯で包まれた指を、自らの唇に導き、「ここから」と言葉を続けた。

 吸い出す。

 ここから。

「……ヒッ……ヒィヒッ……ヒッ!」

 思いもよらない解呪の法に、喉の奥を震わせながら、笑った。笑いが止まらなかった。

「……ヒヒッ……さようか、あいわかった……」

 唇に押し当てられていた指を除け、露になったそこに顔を寄せる――不愉快な愛の祝福を、この男から取り除く為に。



  † † †



「だからぁ……小生は何もしてないって言ってんだろうがッ……!!」

「貴様ァ……ッ、この期に及んでまだシラを切るかッ……!!」

 ――とっくに目は覚めていたが、狸寝入りを通すことにした。

「朝起きたら小生の横に、刑部が転がってたんだよ……ッ!!」

「そんな馬鹿げた話を誰が信じるかッ!!貴様が何かしたに決まっている――!!」

 大谷が黒田官兵衛の座敷牢で倒れている――起き抜けで機嫌の悪いところにそんな知らせが飛び込んだとあっては、今の三成は相当危険な状態だ。誰の手にも負えない。聞く耳など持たない。

「た、確かに昨夜、刑部が来たような気はするが……えっと……どうしたんだったか……」

「官兵衛ェ……ッ!!」

 その上、官兵衛のほうも小箱を受け取った前後の記憶が抜け落ちているらしく、満足に状況が説明出来ないときている。これでは三成を怒らせるばかりだ。

 小箱のこと、呪詛のこと、解呪の際に負担がかかって体がだるく、輿に戻るも億劫だったためにそのまま夜を明かしたということ――筋道立てて全て説明出来るのは、大谷だけだった。

 ――もちろん、そんなつもりはさらさらないのだが。

「貴様を今日こそ斬滅してやる……ッ!!」

「な、なぜじゃぁぁぁぁあッ!! ……ぎょ、刑部ッ……刑部ッ!!頼む起きてくれ刑部ーーッ!!」


――これよ、これ…………ぬしはやはり、こうでなくてはならぬわ。


 人知れず満悦の笑みを浮かべ、目を閉じたまま、心地好い悲鳴に耳を傾けた――。






《終》








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