恋い病みのメドゥーサ【後編】 あんたの好きにしろ、四国のことは気にするな、後は家康が面倒を見てくれる――そう言ってやれば、あの男は全てから解放される。 家康は元々、官兵衛を評価していたことだし、今は少しでも力をつけたいと望んでいる。喜んで官兵衛を迎え入れ、大切にしてくれるだろう。 万事が解決する。 何の問題もない。 何の問題も……。 「っく……」 だがどうしようもなく、心が荒れる。 嵐の只中に放り込まれたように乱れ荒ぶ。 縛り付けてでもこの腕に閉じ込めたい……そんな衝動が突き上げてくる。 その執着こそが官兵衛を苦しめる元凶だと知っていても尚消し去れない。 じゃあ、どうすりゃいいんだ――!!? 「まあとりあえず、落ち着いて頭を冷やすことだな」 厚い雨雲の隙間から差し込む陽光のように、穏やかな声が告げた。 家康の声だ。 「同じ過ちを繰り返すのは悔しいだろう? ……お前は、そんなに愚かな男ではなかったじゃないか」 * * * 「……権、現……」 家康の着物を掴み、すがりついていた手をそっとほどかれ、ぽんと肩に手を置かれた。 「お前のその目なら、必ず真実を見抜ける筈だ。目を逸らさず、ちゃんと見ろ」 自分よりずっと若輩な相手に、子どもをたしなめるような口調で諭され、官兵衛は黙って項垂れた。 同じ過ちを繰り返す――かつて犯した官兵衛の過ちは、弱さゆえに自分を偽り続けたことだ。 自分自身を守るため、他人を犠牲にするのはやむを得ないことなのだと自らに言い聞かせながら、ただ流され、痛む良心から目をそらした。 「……自分の心と、ちゃんと向かい合えってことか……」 そう呟く官兵衛に、家康は嬉しそうに微笑し、頷いた。 その時、豪快な音を立て、官兵衛の真後ろに位置していた引き戸が開け放たれた。 驚いて振り返った瞬間、西海の鬼その人と正面から視線がかち合った。 「……あ……」 昼間海岸で目にした光景を思い出し、いたたまれない気持ちが膨れ上がる。 醜悪な嫉妬心。 浅ましい恋情。 ――怪物のようなこれが、しかし自らの本心なのだ。 けして偽ることの出来ない真実の想いだ。 そう認めた瞬間、わずかだが肩の荷が下りたような気がした。 一方、元親はしばらく無言で官兵衛を見つめていたが、やがてゆっくりと重い口を開いた。 「――俺の過ちはなァ、自分の感情だけに従っちまったことだ。 ……てめえの中だけで答えを出し、誰の声も聞かず、誰ともちゃんと向き合わなかった……だから真実が見えねぇまま間違った道を進んじまったんだ……」 塞がりかけた傷口を自ら抉るような言葉に、思わず「やめてくれ」と叫びそうになった官兵衛をなだめるように、またポンポンと家康が肩を叩く。 「なにもかも包み隠さず、ちゃんと、2人で話せ。それでもやはりこの地を去りたいと言うなら、ワシはお前をいつでも歓待しよう――それでいいよな?」 最後の問いは無二の絆を築いた友に対するもの。 「……おうよ」 元親の答えに満足したらしい家康は、官兵衛から手を離すと、そのまま元親と入れ違いに座敷を後にした。 残された2人はしばらく馬鹿のように突っ立ったまま見つめ合っていたが、 「……と、とりあえず、座らねぇか」 「……そ、そうだな……」 と、ぎこちないやりとりをしながら、ようやく向かい合って座した。 ちゃんと話をしよう――どんな反応をされたとしても、自分の真実から目を逸らすよりはマシな筈だ。 そう思って口を開いたが、 「西海……」 「黒田……ッ!」 見事に被った。 どうにも締まらない。 なんとなくおかしくなり、どちらからともなく苦笑を浮かべる。 張り詰めた空気が少し緩んだ。 「……よければまずは小生から話させてくれ。全ては小生の行いから始まったことだ……だから……」 官兵衛の言葉に、元親は「わかった」と静かに頷いた。 自分の心をはっきりと正面から見据え、官兵衛はゆっくりと言葉を紡ぐ。 「西海が小生を四国に改めて受け入れてくれたことは本当に嬉しかった。これで、一からお前さんとの関係を築けると思った……過去を全て清算し、やり直したかった。……だが無理だった。お前さんとのことを無かったことになんぞ出来ない。体にも心にも刻み込まれているんだ、忘れられる筈もない……毎夜のように夢に見るのは、お前さんと枕を交わした夜のことだ。……夢から覚めると、いつも泣きたくなる……」 「黒田……俺は」 元親が苦しげに顔を歪めながら何か言おうとするのを手を挙げて制止し、更に言葉を続けた。 「夢と違って、お前さんが隣にいないのが寂しくて、泣きたくなるんだよ――わかるか?西海……」 今この瞬間にも両の目にじんわり熱が宿り、決壊しそうになっている。 「……お前さんの温もりが恋しくて、もう耐えられない……だから、側にいるのが辛いんだよ……」 「……あんた……」 元親は、虚を突かれたような顔で官兵衛を見つめ、呆然と口を開いた。 「……嫌だったんじゃねえのか……?」 「最初はそうだった……だが、そのうちによくわからなくなった。わかりたくなかったんだろうよ……自分が、報われる可能性どころか、慕う資格すらない相手に惹かれていることなんてのはな……」 言った。 言ってしまった。 口にしても虚しいだけかと思っていたが、そうでもなかった。 閉じ込めたまま一生表に出さないつもりだった想いを、元親に知って貰うことが出来た。 たったそれだけのことでも、少しだけ報われた気がしてくる。 「……黙って話を聞いてくれて感謝するぞ、西海。これでお前さんが誰と結ばれても小生は祝福してや」 「おい……ッ、ちょっと待ちやがれ……ッ!!」 元親は膝立ちで身を乗り出し、官兵衛の言葉を遮った。 「何を勝手に話をまとめに入ってやがんだ、あんたはよ!!」 「え?」 「え?、じゃねぇッ。俺の話もちゃんと聞きやがれ!」 そう言うが早いか、元親は更に身を乗り出した。 そして。 次の瞬間、官兵衛は元親の腕に引き寄せられ、力の限りに抱き締められていた。 何が起きたのだろう――戸惑う官兵衛の耳元で、西海の鬼は静かに囁いた。 「……あんたが好きだ……黒田」 * * * 閉じ込めた腕の中で、官兵衛は微かに身を震わせた。 「……西、海……」 こんなにも強く強く抱いているのに、ひどく不安そうな声で呼んでくる。 もっと早くこうやってちゃんと向き合って、話を聞いてやればよかった。 思い遣っているつもりで、逆にこんなにも追い詰めてしまっていたとは。 わかってやっているような気分でいて、何もわかってやれていなかった。 だからこそ、もっとしっかり伝えてやらなくては。 想いの証とする筈の血赤珊瑚は、手にしていない。 だが、そんな物に頼らなくてもわからせてみせる。 「……俺は海賊だ、欲しいもんを手に入れる為ならなんだってしてやるぜ。あんたの心も体も俺に渡すってんなら、同じだけのものをあんたにくれてやる……悪かねぇだろ?」 「……な、なぜじゃ……お前さんには女巫がいるだろう……?」 「……なんでそこで鶴の字が出て来んだ……?」 「なんで、って……」 何やら言いにくそうに視線をさ迷わせる官兵衛に、思わず元親は小さく笑った。 「どっからそんなありえねぇ誤解が生まれたのか問い詰めてぇところだが、あいにくそんな余裕がねぇ……」 一度腕を解くと官兵衛の両肩を掴み、そのままゆっくり後ろに倒した。 仰向けになった状態の官兵衛の顔を上から覗くと、ひどく慌てている。 「……西海、まさか……今ここで」 「おうよ……我慢出来る筈もねえだろ、あんたの口から『恋しい』なんて聞いちゃ……」 カラクリの精密な部品を扱う時よりも、もっと慎重に、官兵衛の頬を指先で愛撫する。 「……初めて抱いた時、俺はあんたにあんまり優しくしてやれなかった。それがずっと気になってたんだ。――だから俺は、今が初めてのつもりで、あんたをちゃんと愛してやりたい」 官兵衛は前髪の隙間から覗く切れ長の双眸を一瞬の見開き、ゆっくりと細めた。 己れの頬をなぞる元親の手に自身の手を重ね、熱っぽい吐息を漏らすと、首を縦に一度振った。 「……小生も……お前さんとっ……んっ」 皆まで言い切らせる前に覆い被さり、唇を塞いだ。 「ん……ふ」 頬に手を添えたまま深く深く、一心に貪った。 そういえばこれまでの情交では、唇を重ねることはほとんど無かったのだと今更気づかされる。 官兵衛はけして顔を見せようとはせず、元親はけして向かい合おうとしなかった。 だがこれからは違う。 少しずつ官兵衛の着物を乱し、剥ぎ取りながら、徐々に露になる素肌にくまなく口付けていく。 「っ……はぁ……」 どこに触れても敏感に反応を返し、せつない吐息を漏らす官兵衛に情欲が煽られ、その両足を押し開いてすぐにでも猛る雄を突っ込みたくなったが、必死に堪えて、執拗に愛撫を重ねる。 官兵衛が本当に自ら望んで元親を受け止めようとしてくれているのかを確かめ、そして自分がどれほど黒田官兵衛という男を愛しく思うのかを確かめながら。 それはこの上ないほどに幸福な儀式だった。 「っ……ぁ……西、海ッ……もう、いい、から……」 そのうちに先に音を上げたのは官兵衛のほうだった。 もどかしげに腰を揺らし、立ち上がった自身のものから先走る欲がとろりと溢れさせる。 元親はその淫靡な有り様に喉を鳴らしながらも、すぐには与えず、こう囁いた。 「……元親、だ。……いい加減ちゃんと名前を呼んでくれ……」 官兵衛は潤んだ目で元親を見つめ、躊躇いがちに唇を動かした。 「……もと……ち、か……」 「……おう……愛してるぜ、官兵衛……」 「……あ……」 幸福そうに微笑む官兵衛の顔をしっかり確かめた後、余裕ぶってはみたが破裂寸前の熱を、ようやく官兵衛の中へと埋め込んでいった。 喜悦の悲鳴を上げる官兵衛をしっかり抱き、錯覚ではなく、互いがひとつに溶け合うのを感じながら。 * * * しばらくは起き上がることも出来ないであろうほど、消耗しきった体を元親に預け、官兵衛は経験したこともないほど甘やかな交わりの余韻にぼんやりと浸っていた。 穴蔵暮らしだった自分より、海の男の元親のほうが色が白いのはどういうことなのか――などとどうでもいいことをぼんやり考えているうち、元親の首元に夢中のまま自分が残したと思われる情痕を見つけ、思わずそこに指を触れさせた。 「……どうかしたか?」 問い掛ける元親に、軽く笑んで見せる。 「いや……血赤珊瑚ってのはこんな色をしてるんじゃないか、と……」 元親もまた穏やかに笑みを浮かべた。 「……なら、あんたの身体は今珊瑚だらけだな」 「っ……」 思わず今更のように赤面する官兵衛の髪を、優しい手が撫で付けてくる。 「……ま、愛の証ってやつだな」 「元親……」 重い体を頑張って動かし、愛しい男の唇に触れるだけの口づけを贈る。 「……小生も……愛してるからな」 ようやく何もかも通じ合えた。 少し照れ臭そうに右目を眇る元親に、官兵衛は笑顔のまま告げた。 「小生、ちゃんとお前さんの本妻ともうまくやっていくからな」 「……はァ?」 「いや、だからお前さん、女巫と……」 「……あんたなァ……」 「向き合う」ことを覚えたばかりの2人が本当に互いを解り合うのは、もう少し先のようだ……。 《終》 ★戻る★ ★Topへ戻る★ |