恋い病みのメドゥーサ【前編】 | ナノ


恋い病みのメドゥーサ【前編】




 顔を見られるのが恥ずかしい――そう訴えてから、いつも背中から抱かれるようになった。

「っ……」

 座った姿勢のまま背後から回された右手が、柔らかな膨らみなどない胸元を蹂躙し、左手が脚を開かせ内股を攻める。

 腰部に密着したものが伝える熱が、同じ雄から愛撫されているのだと否応なしに伝えてくる。

「……ぁ……」

 その雄に貫かれ、中を抉られる感覚を思い出すだけで、勝手に同じ熱を帯びていく身体は、まるで自分のものではないかのようだ。

 「強いられている」筈の行為に溺れていく。

 倒錯した悦楽。
 抵抗する理性。


「……さ……西海……」

 見失いそうな自我を繋ぎ止める為に、

「なんか……話……を……」

 言葉を求める。

 頭のすぐ後ろで苦笑する気配があった。

「……俺は雑談より、あんたのよがる声が聞きたいっていつも言ってんじゃねえか……」

 長い髪をどかされてむき出しになったうなじをねっとりと舐め上げられて、びくりと身体が跳ねる。

「っ……嫌だ……頼むから……なんか……話してくれッ……」

「……ったく……しょうがねえな、あんたは。話しゃいいんだろ、話しゃよう……ただし、俺が我慢出来なくなるまでだ……いいな? 黒田」

 頭を何度も上下させて応えると、元親は官兵衛への愛撫を少し穏やかなものに変え、しばらく考えた後で口を開いた。

「……沖で漁をしてると、よく魚と一緒に珊瑚が網に引っ掛かりやがるんだが……」

「……さん、ご……?」

「そうだ。……あんた、なんかあれの使い途知らねえか?」

「……売れば、いいだろ……?」

「売り物になるってんならとっくにそうしてる……網に掛かんのは質の悪い屑珊瑚だからな……」

「そう……なのか……? 前に、見せて貰ったが……綺麗だった……ぞ……? 炎のような……橙色の……」

「……高値のつく珊瑚はな、黒田……血赤珊瑚とか呼ばれるやつだ……名の通り、血潮みてえな濃い赤色なんだぜ」

 血赤珊瑚。
 ほんの少し混濁した状態から抜け出した頭の中で、その言葉を反芻した。

 ふと以前読んだ書物の知識が過る。

「……そう、いえば……異国では……珊瑚は、女のあやかしが流した血、から……生まれたと……聞いたことが……」

「……女の、あやかし……?」

「ああ……女のあやかしが……英雄に首を落とされて、死んで……その首から、落ちた血が血に落ちると毒を持った赤い虫に変わり……海に落ちると、珊瑚に変わった……。

――あやかしは、元々見目麗しい女人で……わだつみの神と恋仲だったと……いう、から……」

「……つまり、あれだろ? そいつは姿形が変わっても、命を失くしやがっても……けして消えねえ真実の想いを、残して逝った……」

 一瞬、元親の手が止まった。

「……ならあいつは、俺に何を残そうとしたんだろうな……」

「……っ」

 思わず息を呑んだ。

 釈明をすることも、恨み言を言うことも無く、ただ、友が本来の生き方を取り戻すことだけを願い、力尽きたという男。

 ――けして失ってはいけなかった日の光。

「……珊瑚みてえに形のあるもんならよかったのによ……」

「……西……海……」

 すがるように強く抱き締めてくる腕に身を任せながら、官兵衛は力無く頭を垂れた。


――……失わせたのは、小生だ……。


 いっそのこともっともっと強く抱けばいい。

 愚かな罪人が、息を詰まらせ事切れるまで。

 だが元親はあっけなく両腕の戒めを解き、どこか自嘲の色を滲ませたな声音で、低く笑った。

「――よし、お喋りはここまでだ……楽しもうぜ?黒田」

 ぐっと腰を掴まれ持ち上げられて、後孔に熱い昂りが押し当てられる。

「っ……ぁ」

 嫌だ、と首を左右した。

 しかし元親は苦しげな息を吐きながら、囁きかける。

「――頼む。何もかも全部どうでもよくなるくらい、あんたに溺れさせてくれ……」

「……あ……」

 嫌なのか、嬉しいのか、恐れていたのか、待ちわびていたのか、自分でもよくわからないまま、受け入れることに慣れ始めたそこで、元親を呑み込んでいく。

「あ……ぁ……」

 根元まで入りきった瞬間、後ろで元親が微かに息を詰まらせたのを感じた。

 身も心もひとつに繋がった――という、錯覚。

 そうこれは錯覚だ。

 真実の想い想いなど、どこにも存在しない。


 偽りで結ばれた空虚な交わり。欲を吐き出せば、後には何も残りはしない――それなのに。


「……黒田……ッ」


 かき抱かれ、熱情に掠れた声に名を呼ばれる度、心地よい錯覚に惑わされていく。


 いつかここに、愛と呼べるものが生まれるような気がする。

 そんなかくも愚かな錯覚に――。



   *  *  *



 はっと目を見開いててみれば、そこは一人寝の床だった。

 自分以外の気配はなく、しんと静かで、寒々しさすら感じる部屋。

 官兵衛はぼんやりと天井を眺めながら、深い溜め息を漏らした。

 近頃こんな夢を見ることが増えた気がする。

 欲求不満か?――自らを嘲笑い、思わず顔を手で覆った。

 ああして毎夜身体を重ねていたのは、つい一月前までのこと。

 だが夢の出来事が現実にあったことだなどと、今となっては信じられないほど遠い過去に思われた。

 大谷吉継の脅迫により、四国を再び危機に追い込む為の陰謀に絡め取られていた官兵衛は、絶望の淵から救い出された。

 救ったのは長曾我部元親……そして皮肉にもあの凶王だった。

 元親の手にかかって死んだと思われていた徳川家康は、三成の意向で延命し、大坂城に幽閉されていた。
 傷が完全に癒えるのを待ち、今度は自ら手を下すために。

 だが理由はどうであれ、家康の存命は官兵衛と元親にとって何よりの救いとなった。

 家康に対する誤解を解消した元親は、三成との賭けに勝って、家康の身柄を貰い受けた。

 地に膝を付き、手を付き、額を付けて自らの過ちを詫びた元親を、家康は笑って赦し、そんな2人に全ての罪を告白して処遇を委ねた官兵衛もまた、赦された。

 否、赦されたというよりは、生きて償うことを求められた、と言ったほうがいいのかもしれない。

 四国と安芸の停戦は解かれ、また両者は常通りの冷戦状態に戻った。

 敗戦により大きく戦力を削がれたとはいえ、家康の復活で再び勢いづく徳川軍と元親率いる長曾我部軍が結び、凶王軍までが睨みをきかせる今、あの毛利が派手な動きを見せることはないかもしれないが、いずれは必ず何らかの行動を起こすに違いない。

 来るべき決着の時のため、そしてその先も続く四国の未来のため――元親の側で力を尽くすことが官兵衛に与えられた使命だった。

 元親もその仲間も、全てを知って尚、官兵衛を改めて受け入れてくれた。

 また四国に帰って来られたのだ。


 何もかもが、いい方向に動き出している。


 そんな中、たったひとつだけいまだ停滞しているもの――それが官兵衛の、元親に対する想いだった。


 四国に帰還し、落ち着いたら伝えようと思っていた密やかな思慕は、まだ官兵衛の胸の中だけにしまわれている。

 言い出せない理由は、安芸での出来事の前後で、元親との関係が大きく変化したがゆえ、言い出す機会を逸したということだった。

 かつて元親は四六時中官兵衛を傍に侍らせ、朝となく夜となく気の向くまま官兵衛を組み敷き、抱いた。

 だが安芸の一件以降は一切手を出さなくなったばかりか、必要な時にしか官兵衛を傍に置かなくなった。

 そうは言っても態度が冷たいとか、疎まれているような印象はまるでなく、むしろ以前よりずっと親しげに振る舞い、気にかけてくれているようにすら感じる。

 最初は官兵衛が安芸で凌辱を受け、その際怪我も負っていたことを気遣って、自重しているのかとも思ったが、一月経っても変わらないので、どうやらそういうことでもないようだった。

 しかし、よくよく考えてみればそれも当然のこと。

 元親が官兵衛を抱く理由は、空虚感の穴埋め……もっと言えば現実からの逃避だった。

 かけがえのない友を取り戻し、絆を取り戻し、自分自身を取り戻した元親には、今更穴埋めも逃避も必要がない。

 四国をまとめる者として官兵衛の力を必要とすることはあっても、官兵衛個人を求めることはもうないのだろう。

 大切な部下たちや、四国の民にそうするように、目をかけ、優しくはしてくれるだろうが、それ以上はない。

 至極まっとうで、筋が通っている。


 ――悲しくなるくらいに。


 官兵衛は再び自嘲の笑みに口許を歪め、ゆっくりと身体を床から起こした。

 まだ夜も明けきらない刻限だったが、今から寝直そうにも全く眠れる気がしなかった。

 ならば少し表に出て潮風にでも吹かれて来ようか、と思い立ったのだった。



   *  *  *



 温暖な四国の地にも冬の気配が近づきつつあるらしく、明け方の風はひどく冷たい。

 微かに背を震わせながら、官兵衛は砂を踏み締め、歩みを進めた。

 どちらかと言えば朝より夜が得意な官兵衛は、こんな時間に出歩くことはほとんどなかったが、思いの外、人の気が多い。

 海を見やれば、こんなに早くから船が行き来している。

 網や釣竿を持った童が何人かで岩場のほうへ駆けて行くのが見えて、何とはなしに目で追っていると、

「あれ、官兵衛さん?」

 見知った顔に声を掛けられた。
 元親の部下のひとりだった。

「こんな時間に出掛けるなんて珍しいですね、どこ行くんですか?」

「いや、ただの散歩だ……お前さんは?」

「俺はアニキに朝飯を届けに……って、あっ、いけねェ……言っちまった」

「西海……?こんな時間に出掛けてるのか?」

「いやー……その……」

 元親その人から口止めされていたのか、部下の男はうっかり口を滑らせたことにだいぶ焦っていた様子だったが、そのうちに観念したのか、辺りの様子をキョロキョロ伺いながらも答えた。

「……実はここ何日か、アニキは早くから海に出てるんです。上等な珊瑚を探してるとかで」

「珊瑚……」

 先刻見た夢が頭を過る。
 あのやりとりが実際はいつ行われたものだったかもはや覚えてはいなかったが、

「血赤珊瑚……か?」

 その言葉だけはなんとなく印象に残っていた。

「そうです、それですよ! 流石博識だなー。
理由は話してくれねえぇんですがね、その血赤珊瑚は探してるらしいんです。
官兵衛さん、アニキからなんか聞いてねぇですかい?」

「いや、小生は何も――」

 聞いてはいない。

 だが。


――そいつは姿形が変わっても、命を失くしやがっても……けして消えねえ真実の想いを、残して逝った……


 あの夜話したことを元親が覚えていたのだとしたら。


「――懸想した相手にでも贈るんじゃ、ないのか……?」


 自分で口にしておいて、くっと息が苦しくなった。

 官兵衛の言葉に、部下の男は一瞬ぽかんとしていたが、すぐにはっと我に返ったかと思うと、また先と同じように狼狽え始めた。

「うわ……っ、ならますますアニキに悪いことしちまった……ッ!!俺のばか野郎ッ!!」

 がっくり項垂れて男は呟いた。


「アニキが懸想してる相手って、そんなの官兵衛さんしかいねぇじゃねぇですか……」


 予想だにしない言葉に官兵衛は思わず目を見開き、それから、両の拳を、爪が食い込むほどぎりぎりと握り締めた。

「――からかうなよ……」

 自分でも驚くほど低いところから発せられた声に、目の前の男はビクッと肩を揺らした。

 恐ろしいものを目の当たりにして怯えるようなその反応を見て、官兵衛自身もまた怯えを感じた。

「官兵衛、さん? どうし」

「っ――すまん、小生を一人にしてくれ」


 背を向け、早足で砂を蹴る。

 己を呼び止める者へ振り返る余裕はない。

 取り返しがつかないほど肥大した自らの想いに怯え、ただ慄然としていた。







《続》







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