パンドラの匣【後編】 | ナノ


パンドラの匣【後編】




 板張りの粗末な床に膝と手をつき、突き上げる欲望に身体を揺さぶられる。昨夜抱かれた時と同じ姿勢だと気づくと虚しさが胸を覆った。

 これが何人目かは知らないが、早く欲を吐きたいと、自分本位な抽挿を繰り返すそれは、生理的な浅い悦しかもたらさない。

 中途半端な熱を帯びた体は一度も果てることはなく、髪を掴んで顔を上げさせられ、尻を穿つと同じものを無理矢理口腔に押し込まれても、ただ息苦しいばかり。


「――確かにそれなりに躾は出来ていると見える」


 少し離れたところで、氷のような冷たい声が何か言っている。


「そうよな。夜毎、鬼の寵愛を受け、身も心も卑しい牝犬に成り果て――ようやく花瓶よりは役立つようになったか」

 息をひきつらせるような笑い声が聞こえる。

 前後から貫かれ、何人もの欲に汚され、畜生以下の惨めな姿を晒す官兵衛を、あの2人が蔑みきった眼差しで眺めていた。

 どれほど虐げられ、屈辱を味わおうとも、心までは屈しないと誓っていた相手――大谷吉継と毛利元就の目の前で、もはや他人の肉欲を満たす器に過ぎない裸体をさらけ出し、命じられるまま身体を開き続ける。

 はじめのうち存在していた羞恥や抵抗感も今は消え失せてしまった。


 哀れな鬼の心の隙間につけ込んで弄び、陥れることに比べれば、侮蔑の視線を受け止めながら、兵の欲望の捌け口に使われる程度のことなど、どうということはない。

 もう、好きなようにしてくれればいい。

「だがしかしな毛利、一つあてが外れた――われは、暗を連れ出して後、すぐに西海の鬼が血相を変えて追ってこよう、と思ったが……」

「あの愚かな男も、浜の砂粒程度は頭を使うようになったか……あるいは貴様が考えるほどは、そこの犬に執着していないのではないか」

「はてさて、それはわれにもわからぬわ」

「フン、別に構わぬ。飼い犬をさんざん痛め付けた後、その骸を送り返してやれば、流石に文句の一つも言ってこよう――あれが少しでも我に害を為そうとすれば、茶番じみた協定など即座に破棄してくれる」

 はたと朧気だった意識の一部が覚醒した。

 今の毛利の言葉、それはつまり、元親のほうから休戦の協定を反故にさせる為の策。

 官兵衛が元親の篭絡を命じられたことすらも、その策の一部だったのだ。

 どんな理由であれ、四国から安芸に攻撃を仕掛けた――その事実さえあれば、いたずらに他国の反感を買うこともなく、目障りな四国を……その国主を始末することが出来る。

 ああやはり、あの美しい国に災いを運ぶのはいつも小生だ――。

「っ……」

 官兵衛は疲労で自由にならない身体で必死にみじろぎ、前と後ろに埋められた楔を振り払い、逃れた。

「……ぎょ、ぶ……もうり……」

 水気を失って掠れる声を絞り、板の上を這いずりながら近づく。

「……たの、む……もう……さいか……いを」

 これ以上苦しめないでくれ、と懇願しようとした刹那、

「汚れた体で近寄るな。おぞけが走る」

 毛利の爪先が、容赦なく官兵衛の身体を蹴り飛ばした。

「うっ……」

 苦痛に顔を歪めながらも、冷酷な支配者を見上げ、官兵衛は尚も口を開く。

「……たの、むから……っ……やめ……」

 再び蹴り上げられ、視界が大きく揺れた。
 口の中が切れたのか、鉄錆の味がした。


 官兵衛は足をもがれた虫けらのようになりながらも、まだ床を這い、大谷と毛利にすがろうとする。

 このまま蹴り殺されるかもしれない、と思いながらもひたすら哀願する。

 もっと早くこうすればよかった。

 四国攻めの策に絡め取られ、あんな悲劇を招く前に、命を賭して抵抗すればよかったのだ。

 深い後悔が、死に果てたかと思った感情を蘇らせ、涙が頬を伝い落ちた……。

 官兵衛がついに力尽きようとしたその刹那。


「――黒田ーッ!!」

 戸板を乱暴に叩き破り、錨のような槍を携えた鬼が、飛び込んで来た。

 歪んでぼやけた視界に鬼の姿をとらえた官兵衛は、ただ愕然としていた。

 ……駄目だ、西海。
 毛利を攻撃しては。
 それこそが狙いだ。

「っ……ぁ……く」

 そう伝えたいのに、もう声が出ない。

 一方の元親は躊躇いなく官兵衛に駆け寄り、他人の精で汚れた身体を構わず抱き寄せてきた。

「――黒田ッ……しっかりしやがれッ……!!」

 優しくするなと言っているのに。
 労りなどは欲しくなかったのに。

 官兵衛はただ涙を流しながら、元親に身を預けた。

 このままでは元親が危険な目に遭うとわかっている。

 それでも、救いに来てくれたことを嬉しく思ってしまった。

 自己嫌悪と安堵がない交ぜになり、わけがわからなくなってくる。

 元親は分別のない子供のようにただ泣き続ける官兵衛の頭を撫で、自らの上着を掛けてその身体を覆った。

「――遅くなっちまってすまねえ……もうちょっとだけ待っててくれ」

 優しく床に下ろされ、傷ついた身体を横たえる。
 元親の上着からは、四国の風の匂いがする。
 同じ海を隔てながら、安芸とはまるで違う……優しくも力強い潮の香り。

 あそこに、帰りたい――ただ純粋に、そう思った。


 だが現実は非常にも、冷酷な策の通りに進行していた。

 奥に控えていた武装した毛利の兵がどっと部屋に踏み込み、あっという間に元親と官兵衛を取り囲んだ。

 元親はチッと舌打ちをした。

「おい毛利ッ、大谷ッ!!てめえら、この仕打ちはどういうこった!? 勝手にこそこそ黒田を連れ出した上に、さんざん慰みものにして、痛め付けやがって……ッ!!」

 険しい顔付きで吼える元親を冷えきった眼差しで見つめながら、毛利が口を開く。

「貴様は真に愚かしい男よ。その者は、元より我らの駒」

「そうよなァ」

 大谷の濁った眼差しがちらり、と官兵衛を見た。

 ニヤリと包帯の奥で笑みを浮かべて。

 その笑みには見覚えがある。

 ぞくりと背筋が震えだ。

 ――まさか。


「西海の鬼よ、四国攻めの張本人はそこの男……ぬしの寵愛する黒田官兵衛よ」


 あの心の臓に氷を押し付けられるような感覚が、一瞬で蘇った。

 元親の右目が大きく見開かれた。


「どういう……意味だ?」

「貴様の足らぬ頭では解らぬか」

 呆然とする官兵衛の目の前で、毛利はごくあっけない口調で告げた。

「黒田に四国を襲わせ、徳川に罪を着せたは我とそこにいる大谷の策よ。貴様は我が手の内で躍っていたに過ぎぬ」

 官兵衛が屈辱を受け入れ、心を殺して守ってきた秘密を。

 開けてはならない禁断の「匣」は開かれてしまった。

 官兵衛はこれまでにないほどの絶望感に打ちひしがれ、きつく瞼を閉じた。

 見たくない。

 深く傷ついた鬼を。
 憎しみに狂う鬼を。


「――俺の、勝ち……だったな」


 しかし、静かに鬼が紡いだ言葉は不可思議なものだった。

 官兵衛は思わず目を開け、元親を見やった。
 元親は確かに苦しげな表情を浮かべていたが、意外なほど落ち着いて見えた。

「貴様の何が勝ちだと言うのだ。気でも触れたか?」

 訝しげに問う毛利に、元親は首を横に振って見せた。

「俺はあんたに言ってんじゃねえ」


 その直後、先程元親が破壊した戸板のほうから、複数の悲鳴が上がり、その場にいた全員が思わず振り返った。

「――そうだ、貴様の……勝ちだ」

 静な足音とともに、ゆらりとその音が姿を見せた。

 元親はひどく落ち着いた顔でその男を見つめ、元就はさも不快そうに目をすがめ、大谷はあからさまな動揺を示した。

「三成……ぬしが、なぜ……」

「話は全て聞いた――刑部、貴様の話は後でゆっくり聞いてやる……」

 すでに返り血に染まった刃を携えたまま、凶王は凄まじい形相で自らの半身とも言うべき男を睨んだ。

「……目障りな。この場でまとめて葬っておくか」

 忌々しげに吐き捨て、元就が輪刀を手にすると、毛利の駒たちも一斉に得物を構えた。

「葬られるのは貴様だ」

 望むところとばかりに技を繰り出す構えに出る三成。

「三成、毛利、まちと待て……」

 睨み合う両者をどうにかなだめようと、大谷が思いつく限りの言の葉を紡ぐが、剣呑な空気が変わる気配は無い。

 横たわってそれを見つめる官兵衛には、目の前で起きていることの半分も理解出来ていなかった。

 呆然と成り行きを見守るうちに、気づけば再び元親に抱え上げられていた。

 三成は構えを崩さず、元親を、そしてその腕に抱かれた官兵衛を見やり告げた。

「ここは私が収める――早く立ち去れ」

「石田……」

「あれは、約束通り引き渡す――貴様の好きにしろ、長曾我部元親」

 元親は三成向けて、微かに苦笑を浮かべ、官兵衛を抱いたままくるりと出口へ向かい踵を返した。


「――悪ぃな石田、2度も俺に譲らせちまって……」



   *  *  *



 三成の援護を受けて毛利の居城から脱出した後、官兵衛は元親の背に負われながら、帰りの船までの道を歩いていた。

 道すがら元親は、救出が遅れたことを重ねて詫び、いきなり安芸に切り込む危険を見越し、まずは三成の元を訪ねたのだと話してくれた。

 三成は、大谷の安芸行き自体を知らされていなかったのだという。
 元親に問い詰められるうち、三成は、大谷がこれまでにも不可解な動きを取って来ていたことを認めた。

 それでも大谷を信用する三成と、自らの直感を信じる元親の意見はぶつかり、「ならば確かめよう」という結論に至った。

 それが、2人の言っていた勝負。

 そして、勝ったのは元親だった。


 では、勝者の元親が三成から譲られたものとは一体なんなのか?
 問おうにも、まともに声が出せない。

 声さえ出るなら他にも言いたいことはたくさんある。

 単純に「こんな大きな男を背負っていて重くないのか?」という確認から始まり、助け出してくれたことへの感謝の言葉、幾つもの罪の告白と懺悔、そして――こんなにも愚かな男だが、罰を与えられるその時まで、お前さんを想っていても構わないだろうか、と。

 ようやく船着き場に辿り着き、見慣れた海賊船の前に立ったところで、

「――焦んなよ、黒田」

 まるで官兵衛の心を読んだように、元親が口を開いた。

「俺たちもゆっくり話そうぜ――3人でな」

 ……3人で?

 元親と自分と、もう1人……一体誰のことだ? と官兵衛が首を捻った時、


「その様子じゃ、ちゃんと勝ってきたみたいだな?流石は元親だ」


 目の前の船から、明るく朗らかな声が響いた。

 顔を上げると、船縁からこちらを見下ろして笑う、ここにいる筈のない人物が目に映った。

 幻?
 あるいは夢か。

「随分ひどい目に遭ったみたいだが、大丈夫か?官兵衛」

「おいおい、お前にそう言われちゃ俺たちゃ立つ瀬がねえだろうが。なあ?黒田」

「ご……ッ」

 権現。

 徳川家康。

 あの日、失われた筈の太陽が官兵衛を照らしていた。

「俺も最初は幽霊かと思ったぜ――まさか家康が生きて大坂城に幽閉されてやがったとはな……」

「何言ってるんだ、ワシが一番驚いたんだぞ」


――私以外の者に断罪されることなど認可しないッ!
私と戦い倒されるまで、生き長らえろ家康……!!


「まさかあの三成に、命を拾われる日が来るなんてな」

「はっ、石田らしくて笑っちまうよな!」

 屈託のない笑顔で笑い合う2人――2度と叶わないと思っていた光景。

 奇跡だ。これは。

 思わず脱力し、背中から滑り落ちかけた官兵衛を元親がしっかり捕まえる。

「よし――帰ろうぜ、黒田?」

……ああ。帰りたい。

 返せぬ言葉の代わりに、官兵衛はしっかりと元親の背にしがみついた――。



 犯した罪は消えない。
 失った物は戻らない。

 だが、それでも――。


 災いが世に放たれた後、「匣」の中に残っていたもの――それは、「希望」だった。









《終》






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