パンドラの匣【前編】 | ナノ


パンドラの匣【前編】




 その日、太陽は消え、明けることのない夜が訪れた。



「……なん、だって……?」

 まるで心の臟に直に氷を押し付けられたようだった。

「やれ暗よ、聞こえなんだか? ――西海の鬼が東軍の大将首を取ったと言ったのよ。
おかげで三成は手の付けられぬ荒れ様よ。困った、コマッタ」

 包帯の下でニヤリと口許を歪めたこの男を、今この場で叩きのめし、息の根を止めたとして――それが償いに足りるか?

 足りるわけがない。

 かつて心の通い合っていた親友同士をすれ違わせ、戦わせ、自ら殺めさせてしまった……そんな途方もない罪を償う術などあるわけがない。

 官兵衛は目の前が暗く沈んでいくのを感じながら、がっくりと膝をつき、手をついた。

「っ……く……」

 深く静かな穴蔵の中に、声を殺した咽び泣きが響く。

 悔恨に嘆く男の頭の上で、愉しげな声が囁く。

「さて――そろりと西海の鬼に種明かしでもしてやるか」

 官兵衛ははっとしたように頭を上げ、地にしゃがみこんだまま、ふわりと浮かんだ大谷を見上げた。

「……西海に話す気なのか? 全てを……」

「さよう。さすればぬしの罪も暴かれよう。罪滅ぼしにその首差し出してくるがよかろ」

 あっけらかんと言い放ち、輿をぐるりと旋回させ、立ち去ろうとする大谷を、官兵衛は必死の声で呼び止めた。

「待てッ!!……小生が首を差し出すのはいい……だが、罪のない友を葬ったことを西海には悟らせないでくれ、頼む……!!」

 取り返しのつかない悲劇は、もう起こってしまった。
 ならばせめて悲劇の主人公には、それが悲劇だと知られないまま幕を引かせたい。

 西海の鬼――長曾我部元親に、全てを知る権利があるのだとしても。

 大谷は再び輿の向きを変え、濁った両目で官兵衛を見下ろした。

「そうさな……ぬしの心掛け次第では、頼まれてやろうか」

 この歪みきった邪悪な男が嘯くことに、真などないことはわかりきっている。

 それでも、今はすがりつき、委ねるしかない。

「――小生は何をすればいい……? ……何を、すれば……」

 泥の沼地な絶望に呑み込まれていく。
 足掻けど足掻けど……もうそこには、救いの光は届かない。

 太陽は永遠に沈んでしまったのだから。



   *  *  *



「……挿れるぞ……?」

 耳元で囁く低く掠れた声に、官兵衛は黙ったままカクカクと首を上下した。

 俯せの姿勢のまま腰を抱え上げられ、高まりきった熱を捩じ込まれる。

「っ……ぁ……あ」

 背を仰け反らせ、津波のように押し寄せる圧迫感に呻きながら、布団の端を掴むと、なだめるような口付けが肩口に落とされた。

「……もっと、力抜きな……いつまで経っても慣れねえな、あんた……」

 優しくしないでくれ。
 労りなんていらない。

 言われた通り強ばりを解こうと試みながら、いっそこの男に手酷く扱われ、ボロボロにして貰えればいいのに……と官兵衛は思っていた。

 そんな思考も、背後の男が熱い息をつきながら、深く抜き差しを始めた途端、あっけなく流されていく。

「っ……ぁ……ぁ……」

 律動に合わせて腰をくねらせ、上からも下からも涎を垂れ流しながら、与えられる愛撫に震え、獣のように四つん這いで鳴く――己れの浅ましさに涙が出てくる。

 苦しくてたまらない筈なのに、奥から込み上げる悦びがそれを凌駕していく。

「あぁっ……さ、いか……いぃ……」

 快感など得てはいけない……そんな資格はない。

 何度言い聞かせても溺れていく――西海の鬼に抱かれ、感じる度に、自分の中の罪が嵩を増していくような気がして、官兵衛はただ止めどなく涙を溢した。


 互いに欲望を吐き出し合い、用が済んだものを官兵衛の中から抜き出すと、元親は満足したようにひとつ息を吐き出し、官兵衛の体をそっと裏返らせ、柔らかく腕に抱いた。

「……よかったぜ、黒田……あんたは本当に、可愛い野郎だな……」

 優しげに細められた隻眼に顔を覗き込まれ、官兵衛は思わず目をそらした。

「……小生も、よかった……」

「……は、そりゃあ何よりだ……」

 元親はわずかに微笑し、官兵衛を抱き寄せたまま傍らに身を横たえた。

「……あんたとこうしてねえと、グッスリ寝られねえ……なんて言ったら笑うか?」

「……いいや」

「そうか……ありがとよ……」

 元親の胸元に頭を委ねながら、官兵衛は自らの手を見やった。

 かつてそこにあった枷は、外されてもうない。

 枷などで縛る必要はもう無かった。

 あの日、惨めに地べたにしゃがみ込み、憎い筈の男に形振り構わず頭を下げた官兵衛は、真の意味で、大谷吉継の言いなりに動くただの道具に成り下がった。


――ぬしの躯で手厚くもてなし、西海の鬼を篭絡しやれ。それが出来ねば……わかっていような? 暗よ。


 まともな神経をしていれば思い付く筈もないような、そんな狂気じみた命令すら受け入れた。

 それなりの覚悟をしていたとはいえ、徳川家康を自ら手に掛けたことに動揺を隠しきれない元親を、誘惑するのは難しくなかった。

 口先だけの慰めと偽りの言葉で近づく者を、本来の元親なら敏感に察し、拒絶したかもしれない。

 しかし、心に空虚な穴を抱えた鬼は、ひどくあっさりと官兵衛の手を取った。

 あるいは家康の死という現実からの逃避に、官兵衛を利用したかったのかもしれない。

 それでも触れてくる元親の手は優しく、どこまでも官兵衛を追い詰める。

 だが募る罪悪感とは裏腹に、官兵衛の「お役目」はうまくいっている。

 元親は多い時は日に三度も官兵衛を求め、常に側に侍らせていた。
 おかげで今の官兵衛に知らないことなどほとんどない。

 元親自身のこと、長曾我部軍のこと、四国の内情、重機やからくり兵器の秘密――元親は、官兵衛が尋ねれば、何でも答え、求めれば何でも与えてくれる。

 大谷が四国を再び壊滅させるつもりなのか、何らかの形で生かしたまま取り込むつもりなのかはわからないが、官兵衛が握る情報は大いに役立つことだろう。

 自らに幾度も災いと破滅を招く者と知らず、元親は官兵衛の背を撫で、髪に口付ける。

 されるがままの官兵衛は、ぼんやりと、どこかで耳にした異国の神語りを思い出していた。

 神の長が、神の領分を犯した人間たちに罰を与えるために「女」を作り出した。

 「女」は、神々から、巧みに仕事をこなす才と、男を誘惑する魅力、そして犬のような狡猾な心を与えられ、最後に「匣」を持たされ、地上に送られた。

 「匣」にはありとあらゆる災いが詰まっていて、「女」が蓋を開けた途端、それは飛び出し、散らばった。


 ならばこの世がこんなにも救いがたく不条理なのは、その「女」のせいなのだろうか。

 あるいは、官兵衛自身が、災いをもたらすためだけに生かされる哀れな人形そのものなのか。

 とりとめなく、まとまらない思考は、やがて微睡みに沈んでいく……。

 いつからかこの腕の中で眠ることに心地好さを覚え出した自分を嫌悪しながらも、官兵衛はゆっくりと両目を閉じた――。



   *  *  *



 目を覚ました時、隣に官兵衛はいなかった。

 少し寝過ぎたか――欠伸を噛み殺して、軽く両頬を手で打ち、元親はその右目を無理矢理見開いた。

 身仕度を整えて部屋を出、最初に出くわした舎弟に官兵衛の行方を尋ねると、朝早く大谷が迎えに来て、ともに安芸に出掛けたと言う。

 安芸か――元親は思わず眉をしかめた。

 豊臣が間に入ることで、毛利との休戦状態は未だ継続されている。

 とはいえ、毛利元就という男を好きになることは到底出来ない。完全に信用するつもりもない。

 何の用かは知らないが、その毛利の元に官兵衛を遣るなど、正直気にくわない。

 関ヶ原での戦の後、四国に戻った元親はしばらく脱け殻のような状態だった。

 仇敵である家康を自らの手で討った――だが心は少しも晴れなかった。

 思い出すのは、家康の力ない最期の微笑と、遺された言葉だけ。

 あの笑みと言葉の意味がわからないまま悶々としていた時、官兵衛が訪ねて来たのだ。

 関ヶ原では力になってやれなくてすまなかった。
 四国の復興に役立つことがあれば力を貸したい。

 お前さんの傍に置いてくれないか? 西海。


 そう言って寄り添って来た官兵衛を、元親は受け入れた。

 最初はただの気晴らしのつもりだった。

 鬱々とした心をどうにかしたいと思っていた時に、ちょうどよく現れてくれた官兵衛の存在は、まさに渡りに舟。

 どう見ても男慣れしたふうではないのにぎこちなく誘ってくる官兵衛は、下手にこなれた遊女よりもよほど色香を感じさせ、元親を楽しませた。

 しかし何度も肌を合わせ、言葉を交わすうちに気づいた。

 官兵衛は何か大きなものを腹の中に抱え込んでいるらしい。

 元親がずっと抱えている空虚感と同じくらい大きな何かを。

 官兵衛が褥の上で流す涙は、快楽のためのものではない――そう勘づいてからは、官兵衛がひどく気になり出した。

「あの……アニキ」

 官兵衛の安芸行きを教えてくれた舎弟が、少し躊躇いがちに口を開いた。

「……出掛ける時、官兵衛さんの顔色がなんとなく悪かった気がして……声を掛けたら大丈夫だって言ってましたけど、本当なんすかね……?」

「……」

 元親は顎に手を当てて、しばし黙ったまま考え込んだ。

 正直、嫌な予感しかしない。

 考えすぎか?

 だが……。


 かつて友と呼んだ男は言った――自分が感じたことを信じ、疑うなと。


「……やっぱり、気になるよな……」

「そうっスよね!じゃあ早速安芸に乗り込みますか!?」

 ぱっと顔を輝かせ、今にも戦支度を始めそうな舎弟を、

「いや……待て」

 と押し留める。

「奴さんとは仮にも休戦中だ、下手な動きをすりゃ、協定違反だなんだと難癖つけて逆に攻め込まれるのがオチなんじゃねえか? となると……ここは急がば回れ、ってやつか……」

 深く溜め息をつき、尚も思考を巡らせた元親は、そこである人物の顔を思い浮かべた。

 戦の後はお互い顔を合わせ辛くもあり、ろくに話も出来なかったが、そろそろ会いに行っても平気だろうか……?


「おい、野郎共を集めろ!……行き先は大坂だ!!」



   *  *  *



「はやに歩け」

「……」

「やれ、重りがなくともノロマな男よ」

 嘲笑うような耳障りな声に黙ってつき従い、官兵衛は、毛利元就の居城の長い廊下を重い足取りで歩いていた。

 自分が何をする為にここへ呼ばれたのかは、道すがら大谷からすでに聞かされていた。命じられたのは、大谷の道具としての二つ目の「お役目」。

 だが正直そんなことはもう、他人事のようにどうでもよく思えた。

 船縁から眺めた、遠ざかっていく四国の地――それがたまらなく恋しかった。

 二度と足を踏み入れたくないと思っていた場所に、身勝手な愛着を持ってしまった自分が滑稽でたまらない。

 だがこれでいいのだろう。

 災いをもたらす匣を抱えた人形など、遠くへ行ったほうがかの地のため――あの男のためだろう。


「……じゃあな……西海……」


 ほとんど声にならない微かな呟きを漏らし、官兵衛は更なる深みへと歩みを進めた――。








《続》






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