恋をする仔犬 | ナノ


恋をする仔犬




「それにしても派手に壊したもんだな」

 少し離れたこの場所からも、大坂城の城郭から立ち上る幾筋もの煙が見える。

 ほんのわずか一時、かの城の城主だった男は、大きな身体を傷だらけにして地べたに座り込んでいる。

 「戦国最強」とまともにやり合ってこの程度で済んだのだから、この男にしては随分運が良かったようだ。

 ぐったりと脱力し、気だるげに俯いている男を見やり、家康は思わず苦笑しながら口を開いた。

「官兵衛。大坂城の修復工事なんだが、お前とお前の仲間の得意分野だろう? 任せるから、怪我が治ったら早速かかってくれ」

「……お前さん、まさかそれを言うためだけに小生を追ってきたのか?」

「そうだ、とも言えるし、違う、とも言えるな」

 顔を上げた官兵衛はいぶかしげに家康を見つめ返す。

「……権現?」

 家康はその視線を受け止めながら、切り出す。

「お前が、またワシの仲間になってくれるのかどうかを確認したくて、な」

 本多忠勝の槍先から間一髪逃れ、ほうほうの態で大坂城から逃走した官兵衛を、家康は単身ですぐに追い掛けてきたのだった。

 そろそろ家康の不在に気付いて家臣たちが騒ぎ出す頃かもしれないが、今は目の前の男を「如何にして自分の元に留め置くか」が最優先の問題だった。

 打たれ強いようで、案外繊細な精神構造をしている官兵衛には、慎重に言葉を選ばなければいけない。

「……権現、お前さんも馬鹿じゃないんだからわかるだろ? 小生は天下を取るためにお前さんに近づいた。今回はしくじったが、まだ諦めちゃいない。うまくいくまで何度だってやってやるさ。……小生がお前さんなら、間違いなく、こんな物騒な男には今この場で止めを刺しておくがね」

 自嘲気味な言葉を列ねて嘆息する官兵衛に、家康はまた苦笑した。

「そうか、わかった……と言ってワシが止めを刺しにかかったらお前、どうするんだ」

 官兵衛が真に狡猾な男なら、とりあえずこの場は恭順の意志を示す筈だ。

 少なくとも自分に不利になる助言などする筈がない。

 官兵衛と向かい合うようにしゃがみこみ、家康は更に言葉を続ける。

「天下を取りたいのか、自分を追い詰めたいのか、どっちなんだ? 官兵衛」

 官兵衛はばつが悪そうに、長い前髪の奥の眼差しを横に逃がした。

 回り込むように、逃れた視線の先から官兵衛の顔を覗き込む。

「……そうしてワシを避けるのは、気にしているからか? ……四国の一件を」

 幅の広い肩が、一瞬びくりと震えた。

「忠勝を迎えにやる前に、お前のことは色々調べたから、な……」

 徳川の仕業に見せ掛けて四国を急襲した一件にも、家康は気づいていた。

 実行したのは官兵衛だが、裏で糸を引いていたのは別の人間だということも。

 官兵衛を敵に回したくなかった理由は、官兵衛の実力を恐れるが故だったが、それだけではなかった。

 官兵衛が西軍の手に落ちれば、また望まない戦いを強いられるかもしれない。

 攻められたほうも、攻めたほうも……ただ傷を負うだけの不毛な戦いを、繰り返してはいけない。

「ワシはな、官兵衛……お前がワシの元で天下泰平のために尽力してくれるなら、過去は水に流してもいいと思っている。元親にはまだ誤解されたままだが、孫市や独眼竜が間に入ってくれれば解ってもらえる筈だ。頃合いを見て、お前からも元親に頭を下げて貰う。足りなければワシも一緒に下げる……それで終わりにしよう」

 官兵衛は、信じられない、というように家康を凝視する。

「なんで……お前さんがそんな……」

 なんで、と言われれば、そんなことは決まっている。

 家康は、戸惑う官兵衛に徐に顔を近づけ、そして……その唇を不意に奪った。

「お前が好きだからだ」

 唇を離して告げた言葉に、前髪の奥の黒い瞳がギョッと見開かれる。

 その表情が可愛くて、もう一度口付ける。

 ぺろりと舌で唇をなめてやると、重い身体を引きずって、弾かれたように後ずさる。

 傷に響いたか、うっ、と顔をしかめながらも、官兵衛は、

「ご、権現……お前さん……!!?」

 気の毒なくらい狼狽える。

「そんなに意外だったか? お前に言い寄る男ならワシの他にもたくさんいるだろ?」

「何言ってんだ、小生相手にいきなりこんな血迷った真似してくる男が、他にいるわけないだろう!!」

 僅かに顔を紅潮させながら言い放つ官兵衛に、今度は家康が目を見開いた。

「そうなのか?」

「当たり前だ!!」

「じゃあ、ワシが官兵衛の最初の男ということでいいんだな!?」

「な……」

 今にも飛び掛からんというように、ぐっと身を乗り出す家康に、官兵衛は焦ったように更に後ずさったが、背後にあった自分の鉄球が邪魔でこれ以上下がれない。

「ワシはてっきりお前のことだから、大坂や九州で色々な奴に手を出され、さんざん男に慣らされているのかと……」

「なっ、なんだそりゃ……お前さん、そんな目で小生を見てたのか!?」

「気を悪くするな、それだけお前が魅力的だということだ。……だが、何も無かったんならよかった」

 家康が照れも躊躇いもせずに紡ぐ言葉に、官兵衛は居心地悪そうに肩を竦め、身を縮める。

「お前さん、ひょっとして今……結構本気で小生を、口説きに掛かってる……のか?」

「ああ、もちろんそのつもりだ」

 威勢良くきっぱりと断言し、官兵衛の逞しい肩にぽんと手を置く。

「官兵衛、この際ワシの嫁になれ。天下人の正室になれば、お前も天下人だぞ? 夢が叶うじゃないか、よかったな!」

 そう言ってにっこり笑って見せると、官兵衛は一瞬固まった後で、不意に呆れたように溜め息をついた。

「そうか、わかった……と言って小生が了承したら、お前さんどうするんだ」

「幸せにするぞ」

 どうやら冗談だと思われているようなので、真顔ではっきり答えた。

 だが官兵衛は納得しようとしない。

「天下人の正室が男でいいわけないだろうが……」

「どうしてだ? 別にいいじゃないか。これから新しい時代が始まるんだ、まずはワシ自ら古い慣習を打破していかないとな」

 世継ぎが必要なら養子を貰えばいい。

 出来れば官兵衛の親戚筋から、官兵衛に似た子どもを引き取りたい、男児でも女児でもきっと可愛いぞ、などと想像して勝手に顔を緩ませる家康に、官兵衛はいよいよ困惑の色を滲ませた声音で、

「……本気で言ってるのか? そうまでして小生と一緒になりたいのか……? そんなに、小生がいいのか?」

 と続けざまに問いを投げ掛けてきた。

「そうだ」

 家康はたった一言でその問い全てにまとめて応えると、枷の付いた官兵衛の両手を取った。

「……この枷も必ず、ワシが外してやる。約束する。だから……ずっとワシの側にいてくれ、官兵衛」


  * * *


 ずっと側にいてくれ、と家康は言う。

 どうやらかなり真剣に口説かれているらしいとわかり、官兵衛は内心よくわからない焦燥感を覚えながらも、自分の手をぎゅっと包んでいる家康の手を見つめた。

 手甲から伸びる家康の指は傷だらけだ。刀や飛び道具を使う相手と、時には強固なカラクリとも素手で戦うのだから当たり前と言えば当たり前だが。

 真新しいものは先刻、大坂城でついたものだろう。

 今更のように罪悪感が込み上げてきて、官兵衛は思わず眉根を寄せた。

 東軍を、徳川家康を利用することで石田三成を倒し、隙を見て天下を奪う……その計画を立てた時から、罪悪感など捨てた筈だったのだ。

 我が身可愛さに豊臣に屈し、四国攻めの命令に従った以上、最期の最期まで徹底的に身勝手な野心を貫かなくては筋が通らない。

 「これでいいんだ」と無理矢理にでも後悔をねじ伏せることをしなければ、息も吸えないほど苦しくなる。

 罪の意識を思い出してしまったら、もう身動きが取れなくなるではないか。

「官兵衛……」

 にわかに声の調子を落とし、家康が心配そうに顔を覗いて来た。

「……泣くほど、ワシが嫌なのか?」

 言われるまでわからなかったが、どうやら涙が出ていたらしい。

 確かになんとなく視界が歪んでいる気がする。

 いい年をしてみっともないから泣きたくなどないのだが。

「……違う、そうじゃない……」

 否定の言葉まで掠れて、上擦る。

 零れた塩辛い水が、頬の傷に染みた。

「……官兵衛」

 労るように名前を呼び、家康が顔を近づけてきた。

 また唇に口づけられるのかと思ったが、そうではなかった。

「っ……」

 家康は、官兵衛の頬の傷に口づけ、舌先で優しく舐めてきた。

 一瞬ピリッと痛みが走ったが、すぐに和らぎ、むしろ心地好く感じられる。

 家康はそのまま、下顎の端、更に首元へと官兵衛の傷を辿りながら丹念に舐めていく。

 まるで仔犬の世話をする母犬のようだ。

 ついこの間まで自分が仔犬そのもののようだった家康が、だ。

 なんとなく可笑しくなり、官兵衛は微かに口の端を吊り上げて笑った。

 赦されて、求められて、諭されて、慰められて……いつまでも、してもらうばかりの仔犬でいるわけにもいかない。

 官兵衛は自分の手を握ったままだった家康の手を、そっと握り返し、そのまま口許に引き寄せた。

 傷付いた家康の指に唇を押し当て、そのまま口内に導く。

「っ……」

 家康は微かに声を漏らし、顔を上げて、驚いたように官兵衛を見た。

 官兵衛は構わずに、家康の指を一本ずつしゃぶるようにして、その傷を舐めていく。
 そうすることに不思議と躊躇いは感じなかった。

 乱世を生き、身も心も傷だらけになった者たちが、文字通り傷を舐め合うなどと、他者から見れば滑稽極まりないだろう。

 しかし、家康は少しだけはにかんだような、けれど心底嬉しそうな顔をして、愛しげに官兵衛を見つめる。

 10本の指、全てを舐め終わって、最後の指が、ちゅっと小さな音を立てて唇から離れた途端、その両手で顔を包まれて、また唇を塞がれた。

「ん……」

 口付けは先程よりずっと深いものになり、官兵衛は思わず背後の鉄球の丸みにそって背を反らせた。

 覆い被さるように身体を密着されて、いいように口内を貪られても、最早官兵衛は抵抗を示さなかった。

 どうやらまんまと口説き落とされてしまったらしい……と、頭の隅で冷静に把握しながら、自らも家康を求めて舌を伸ばし、絡め、貪る。

「っ……ふ」

 どのくらいそうしていたのか、そろそろ息が続かなくなってきた頃に、透明な糸を引きながら、ようやく互いの唇が離れる。

「はぁ……はぁ……」

 鉄球に寄りかかったまま荒い呼吸を繰り返す官兵衛に、同じく呼吸の整わない家康が、それでも満面の笑みを見せた。

「……ワシは、それほど経験が多いわけではないから、まだ色々と拙いかもしれないが、これから官兵衛をもっと悦ばせられるように精進するからな」

「っ……お前さんは、また臆面も無く、なんてこっ恥ずかしいことを……」

「だけど、嫌じゃないんだろ?」

 腹が立つほど爽やかな笑顔から放たれた、確信めいた問いに、官兵衛は、

「……たぶんな」

 と答え、苦笑した。

 家康は満足そうに立ち上がると、青空を見上げながら大きく伸びをした。

「今日はワシにとって一番いい日になったぞ、官兵衛。空もこんなにいい天気だしな」

 こんな日は花見でもしたいな、などと機嫌良く語る家康を見上げながら、官兵衛は静かにため息をつき、ぼんやりと思考を巡らせた。

 これとこの先添い遂げるというのは……まあ、そう悪くないかもしれない。


《終》




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