四文字の束縛【前編】 | ナノ


四文字の束縛【前編】




 人の運命というものは、つくづくどっちに転がるかわからないもんだ――官兵衛は、近頃そんなことをよく考えていた。


 ある日、乱世の終わりは唐突に訪れ、東軍を率いていた徳川家康が天下を統一する運びとなった。

 安芸の毛利元就と、西軍参謀であった大谷吉継……両名による奸計は明るみとなり、一時は断たれたかと思われた徳川家康と長曾我部元親の絆は蘇り、再び強く結ばれた。

 西軍総大将の石田三成は、大谷の不義に対する自責から戦意を喪失し、事実上降伏。
 現在は大坂城に蟄居しているという。

 蟄居と言っても誰かに命じられているわけでもなく、本人が勝手に引きこもっているに過ぎない。
 家康はどうにかして三成を引っ張り出し、自分の仲間にしたいと考えているようだが、それがうまくいくかどうかは「交渉役」次第かもしれない。

 「交渉役」……つまりはあの男。
 目下、官兵衛の生殺与奪を掌握している西海の鬼だ。

 毛利と大谷に促されるまま四国を攻撃し、その罪を家康に被せる工作を行った張本人である官兵衛は、今、長曾我部元親の砦にいた。
 自ら滅ぼした四国の復興を手伝うために。

 安芸が落ちた後、徳川・長曾我部両軍によって身柄を拘束されたが命を取られることはなく、生きて罪を償うことになったのだ。

 考えようによっては官兵衛の境遇は大して変わっていない。

 豊臣に引かれていた鎖を、今度は徳川が引くことになり、居場所が九州の穴蔵から四国の海辺に移っただけだ。

 忌々しい手枷も鉄球もいまだに健在である。

 しかし、気持ちの有り様は随分と違うものだ。身体は重くとも、心はずっと軽くなった。

 今自分が四国に与えているものが、奪ったものに釣り合うのかはわからないが、やり甲斐はある。

 少しずつ活気を取り戻していく四国の景色は、官兵衛にとって紛れもなく救いとなっていた。


 ――だが、しかし。


 贖罪の日々の真っ只中で、官兵衛自身まったく予想もしていなかった新たな苦悩が、静かに始まっていたのだった……。



   *  *  *



「よう。ちょいと邪魔するぜ、黒田」

 そう声を掛けられる前から、部屋に近づいて来ていたのはわかっていた。

 何しろ、廊下からアニキアニキと騒ぎ立てる連中の声がずっと聞こえていたし、そうでなくても、ずかずかと床を踏み締める豪快な足音ですぐにわかる。

「ああ、入ってくれ……西海」

 書物をめくっていた手を止め、官兵衛は気持ち姿勢を正して元親を迎え入れた。

 近頃ようやく目を見て話が出来るようになったが、まだなんとなく身体に力が入る。

 一方の元親は、ごく明るい口調で、

「なあ、例のアレはどうなってる?」

 などと気さくな口調で問い掛けながら、どかっと部屋の真ん中にあぐらをかいて座った。

「ああ、アレな……だいたいは出来てる。良ければお前さんの意見も聞きたいんだが……」

「もう出来てんのか!? 仕事が早えな、もちろん構わねえぜ、見せて見やがれ」

「……そうか、これなんだが」

 机に広げてあった、昨夜書いた図面を元親に差し出す。

 角土竜を下地に、耐水強度を増し、砂地での駆動に特化した重機を設計したものだ。

「おっ、こりゃすげえな……なかなかいい設計じゃねえか。おい、ここんとこの仕様はどうなってんだ?」

 図面の一部を指差して問う元親に、官兵衛は少し身体を寄せ、「そこか?それはだな……」と説明する。

 元親は「なるほどな」「やるじゃねえか」などと一々感心しながら、さも楽しそうに「じゃあこっちは?」「どうしてこうなんだ?」と矢継ぎ早に質問してくる。

 お前さん、どんだけカラクリ好きなんだ――と心の中で突っ込みながら、官兵衛はその質問に一個一個答えていく。

 元親から与えられた官兵衛の私室は、けして広くはないが立派な部屋だった。
 生活に必要なものはもちろん、さまざまな書物や重機の設計に必要な道具など、大抵のものは自由に与えられている。

 それだけで破格の待遇だったが、仮にも国主である元親自身がこうして頻繁に部屋を訪れ、長々とカラクリ談義に花を咲かせているのだからすごい。

 官兵衛は最初のうち、かなり戸惑ったが、今ではこうして元親と話すのが楽しみになってきていた。


「――おう、よくわかった。こりゃ大したもんだぜ、早速野郎共に組み立てさせるとするか!」

 一通り説明を聞いた元親は、満足そうにそう口にした後で、不意に笑みを打ち消した。

「あんた、こんだけの設計を一晩で仕上げたのか……無理したんじゃねえだろうな?」

「いや……別に」

 官兵衛は思わず前髪に隠れた目を泳がせた。
 実を言えばそれは、ほとんど眠らずに書いたものだった。

「……おい」

 元親がにわかに険しい顔付きになり、官兵衛は思わずビクリと身を固くした。

「さ、西海……?」

「黒田……あんた、『も』を言ってみろ!!」

 ドスの効いた声で促され、官兵衛は怯みながらも口にする。

「……もう、嘘はつかない……」

「『と』を言ってみろ!!」

「と……徳川の天下の為に力を尽くす……」

 それは官兵衛が四国に来た初日何度も復唱させられたものだ。

 「も」「と」「ち」「か」の四文字に込められた誓約。

「『ち』を言ってみろ!!」

「……長曾我部軍の、仲間に、なる……」

「そうだ、じゃあ『か』を言ってみろ!!」

「か……隠し事はしない……」


「おうよ!あんた、ちゃんとわかってんじゃねぇか」

 官兵衛が全て正しく答えた途端、元親はまたニッと顔に笑みを浮かべ、おもむろに官兵衛の肩へ手を回し、豪快に引き寄せた。

「っ……西海っ」

 微かな潮の香りが鼻をくすぐる。

「なあ黒田、あんたは長曾我部軍の……俺の仲間になったんだぜ。無理しやがった上に、それを俺に隠すなんてのはいけねえな」

 うんと顔を近づけた状態でそう語りかける元親に、官兵衛は一瞬息を詰まらせた。

 俯き、たどたどしく言葉を紡ぐ。

「……小生はただ……お前さんに早く設計を見せたかっただけだ……お前さんと話すのは、その……楽しいから」

「黒田……」

 元親は、まるで子どもにするようにぐしゃぐしゃと官兵衛の頭を撫で付けて来た。

 驚いて、思わず顔を上げる。

「あんたが来てくれて、俺も楽しいぜ。
あんたとは確かに色々あったが、俺の中ではとっくに決着のついたことだ……だからあんたも、いつまでも引きずるんじゃねえぞ」


 ――ああ、駄目だ。

 官兵衛は、思わず両目をぎゅっと瞑った。

 なんて優しい顔をするんだ、この鬼は。


 近頃、官兵衛を悩ませているもの……それは、時々突き上げてくる厄介な衝動だ。

 元親と言葉を交わす度、触れられる度、笑顔を見る度、胸の内から確かに主張してくるそれは――恋情なのだろうか。

 人の運命というものは、つくづくどっちに転がるかわからないもんだ――まさかよりによって、西海の鬼相手に、こんな気持ちを覚えるようになるとは。

 まさかそんな筈はない、と何度も自分に言い聞かせてきた。


「さてと……」

 官兵衛の心中などまるで察していない様子で、元親は肩を引き寄せていた腕を解き、上着を羽織り直して立ち上がった。

「俺はこれから大坂まで顔を出して来るぜ」

「……また三成に会いに行くのか?」

「そうだ。石田の野郎も独りにしとくと勝手に思い詰めるタチだからな……ちょくちょく会いに行ってやらねえと」

 元親は何故か三成のことをひどく気に掛けていた。
 しょっちゅう大坂を訪ねていて、時には何日も滞在することもある。

 家康から「交渉役」を頼まれていることもあるのだろうが、恐らくそれだけではない。

 あれの何が気に入ったのかサッパリわからないが、元親は三成をかなり好ましく思っているようだ。

「じゃあな、黒田」

 そう言って部屋を出ている元親を黙って見送りながらも、ふつふつと込み上げてくるいよいよ厄介な感情。


 他に誰もいなくなった部屋で、今しがたまで元親がいた場所を睨みながら、圧し殺したような小さな声で呟く。

「……西海……お前さんは、小生より……三成のほうが……」

 そうだ、嫉妬だ。これは。

 馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。

 一生掛けて償いをしなければいけない相手に、大それた想いを抱いた上に、勝手に嫉妬心まで覚えるなどということがあっていいのか。

 いいわけがない、と思うのだが、どこまでも自分の心というのは偽れないものだ。

 元親がつい今しがた見せたあの笑顔を、三成にも見せているのかと思うとはらわたが煮えくり返るような思いがする。

 それこそが官兵衛の思いが錯覚でない確かな証になった。


「……西海……」


 先ほどまで触れられていた箇所がじんじん熱を帯びているように感じられた。

 その熱はどんどん身体中に広がり、じわじわと変化を呼び起こす。

 官兵衛は思わず小さく息をついた。


 ――最悪だ。


 そう心の中で吐き捨てながら、官兵衛はそっと自身の着物の中に枷のついた手を差し入れた。

「……っ……」

 身体の中心で、官兵衛の雄は猛り、情欲に潤み出していた。

 大して若くもない身で、こんなにも浅ましく欲求を訴える自身を恨めしく思いながらも、堪えきれず、前を寛がせ、猛った一物を取り出す。

「……西、海……」

 熱い吐息の混じった声で想い人の名を紡ぎながら、官兵衛はそれに指を絡ませた。

「っ……ぁ」

 座った姿勢で背中を反らせながら、自分のものを上下に扱き、擦り立て、揺する。

 それに合わせて腰を動かし、開いたままの口からは浅い呼吸とともにひっきりなしに声がもれた。

「ぁ……西海……西海……っ」

 きつく目を閉じ、まるで元親から激しく愛撫されているかのような妄想を描きながら、出口を求める欲を追い込んでいった。

 それがどれだけ虚しいことなのかを頭の片隅で嫌というほど実感しながらも、官兵衛はただひとときの甘い熱情に身を委ねるしかなかった……。


「……西……海……」






《続》




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