不忠なる者 | ナノ


不忠なる者




「……お前さん、何言ってんだ……?」

 言われたことの意味がまるでわからなかった。

「有事があれば呼び戻す。それまでは大坂へ戻ることは一切許さぬ」

 秀吉が官兵衛を直々に呼び、険しい表情でにわかに突きつけてきたのは、遥か南の地への追放という予想もしない酷な命令だった。

「理解したならば早々に支度を済ませよ」

「秀吉……!!」

 一方的に言い放っておきながら、これで話は終わったとばかりに背を向けられ、思わずその背に駆け寄った。

「お前さんなッ! ……半兵衛が逝った今、小生を追い出して何の得があるんだ!? 小生がこの機に事を起こし、お前さんの首を狙うとでも思っているのか!!?」

 これまでも三成が官兵衛の挙動を危ぶみ、何度か中枢から遠ざけるように進言していたのは知っている。
 だが天下への野心を抱く者と知りながらも、秀吉は官兵衛を重用し続け何事もなく傍に置いていた。
 豊臣の覇道に不可欠な者として実力を認めるが故に手放さないのだと、そう自惚れさせてくれていた。
 だからこそ半兵衛がこの世を去った後も、かの男が担ってきた仕事を引き継ぎ出来る限りを務めてきた。
 あの男が喪われぽっかりと穴が開いた、布陣と、主の心とを埋め合わせようと―昼も、夜もだ。

――何故急に、こんなにもあっさり掌を返す?

 考えれば考えるほどに沸々と湧き上がる憤り。それを何とかぎりぎりのところで押し込め、口を開いた。

「なあ秀吉よ……何が不満なのかは知らんが、半兵衛の代わりが務まる人間は小生を置いて他にはいない。今小生を切ればお前さんの天下は確実に遠退くぞ。……それでも、小生を切り捨てるのか……?」

 乾いた喉から絞り出した問いかけに、秀吉はこちらを振り返ることさえもしなかった。

「……官兵衛。今のお前に、話すことはない」


   * * *


「……は、懐かしいもんだな……」

 あの時、うっかりぶち切れて殴りかかったりしなければ枷まで付けられることはなかったのだろう。
 人生最悪の日を更新したあの日のことを、こんなふうに哀惜を持って追憶する時が来るとは思わなかった。

――未明、南の地にもたらされた思いがけない報せ。
――覇王・豊臣秀吉、討ち果たされたり。

 秀吉が死んだ。官兵衛が大坂へ戻ることを、最後まで許すことなくあの男は死んだのだ。
 有事があれば呼び戻すという約束を、どうにも見込みが薄そうだと思いながら心の片隅ではずっと待っていた。
 秀吉は必ずいつか己を頼る筈だと信じて待ち続けていた。
 待ってみた結果がこれなのか―冷たい鉄球に背をもたれ、深く息を吐き出し目を瞑る。
 馬鹿な男だ。傍においてくれてさえいれば、徳川軍の動きなど事前に察して忠告してやれたかもしれないものを。
 結局のところ、亡き腹心の代わりには誰もなれなかったということなのか。

「……半兵衛、小生はお前さんの後釜に座り損ねちまったようだ」

 遮断された視界の外で、もういない筈の片割れが、意地悪く笑いながら囁く声がした。

――君が僕の代わりだって……? それなら君の代わりは一体誰がすると言うんだろうね。

「小生の、代わり……?」

 はっと目を開いた。そこには無論、片割れの姿いない。

 だが確かに聞こえたその声は、重ねた月日が埋もれさせていた遠い記憶を甦らせる。
 官兵衛が豊臣の軍師に登用されたばかりの頃、秀吉と半兵衛と三人で飲み明かしたことがあった。
 酔いの為かいつもより饒舌だった秀吉はその時こんなことを口にしていた。

――半兵衛は我にとっての最も近しい友だ。官兵衛、お前は我の最も近しい敵となれ。我に僅かでも弱さを見出したならば、遠慮なく天下を奪わんと挑んで来るがよいぞ。

「……ああ、そう、か……」

 半兵衛には半兵衛の、己には己の役目があったのだ。それをようやく思い出した。
 官兵衛の役目は、秀吉の中に弱さが生じないように、この慧眼で常に監視する最も恐れるべき敵。
 だが、あの男の覇道に従い、その背を追う日々にどこか満たされ、天下掌握の野心は知らぬ間に窄んできていた。
 ゆえに、友を失い弱さに傾きかけた秀吉に気付きながら敵としての目を持ち続けることが出来なかったのだ。
 あの時、秀吉に最も必要だったものは友の代わりなどではなく、心を奮い立たせる敵であった筈なのに。

「……待っていたのか、お前さんも……?」

 手酷く突き離されて怒りに駆られた男が、敵としての目を取り戻し、反旗を翻して覇王の首を狙ってくることを望んでいたのか―覇王が別の敵に討たれた今、その真意を確認する術などもうないのだ。 

「……畜、生……とんだ不忠者だ……」

 呻くように零した後、戒められた両の手をきつく握り締め、しばらく身を震わせて押し黙った。

――そうして随分経ってから、ゆっくりと鉄塊から背を離し、身を起した。
 遅すぎたのかもしれない。だがようやく目が覚めた。
 覇王は死んだ。だが覇王の軍勢はまだ残っている。
 未熟な後継者が率いる軍勢は、これから仇敵を討つことにのみ固執し迷走を始めるだろう。
 この弱さを、天下への好機を見逃すつもりはない。いつかの約束通り遠慮なく奪わせて貰う。
 それこそが、黒田官兵衛が亡き主に示せる唯一の忠義であり、そして……。

――そこで半兵衛と一緒に見ていろ、秀吉。

「……小生は、天下を掴むぞ」




                    
《終》



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