鳴かない雛【後編】 | ナノ


鳴かない雛【後編】




「一昨日から好きに歩き回るようになってな――やんちゃな奴等で手は焼くが、可愛いだろう?」

 そう問うてみれば、すんなり頷かれた。

 いくら仔猫の話題を振ってもろくに反応を示さなかった風切羽が――まるで別人のようにも思える……だが……。


 ――こいつは本物の風切羽だ。どれほど変わろうとも見間違えはしない……この男だけは絶対に、判る。


 小生が渡した一匹を掌に仰向けに乗せ、腹を指で撫でる。チリンチリンと首につけた鈴を鳴らし、喜ぶ小さな生き物。
 見つめる横顔は微かに笑みを浮かべているように見える。

 小生の知らない風切羽がそこにいた。

 何か胸騒ぐものを感じつつ、小生もまた別の仔猫と遊んでやりながら、更に問いを重ねた。

「――こいつらの母猫はお前さんが連れて来たんだが……覚えて、いるか?」

 今度は少し間があってから、静かに首を横にしてきた。

「そうか――本当に覚えてないんだな……小生のことも、何も」

 思わずそう嘆息混じりに呟くと、風切羽は仔猫をそっと畳に下ろし、小生のほうに向き直って指をつくと、深々と頭を下げてきた。

「風切羽!?」

「……」

「頭など下げるな、謝るようなことじゃないだろう」

 慌てて肩に手を乗せ、頭を上げるように促した。
 風切羽はゆっくりと頭を上げながら、小生の顔を冑越しに見つめる。

 申し訳なさそうな、心配そうな、どうしていいかわからないような、そんな視線を感じて、鏡に映したように同じような気持ちが生じた。

 小生のことが判らないなんて――何故じゃ、風切羽……。

「っ……!」

 衝動に突き動かされるようにして、抱き寄せていた。その背に腕を回し、しっかりとかき抱く。

「……!」

 びくり、と腕の中で風切羽の肩が揺れた。
 ああ、驚かせちまったよな――すまんな……だがこれだけは言わせてほしい。

「とにかく――お前さんが、戻って来てくれてよかった……」

 今、小生が言ってやれることはそれだけだ。

 如何なる理由からかは解らないが、風切羽からは記憶が欠落している――自分が何者かすら思い出せない風切羽の抱く不安は他人には計り知れないだろう。

 風切羽は、いつも小生を守ってくれていた――今度は小生が守ってやる番だ。



   *  *  *



「――そこでわしが、勇猛にも単騎で挑みかかってのう、敵はきりきり舞いぢゃったぞい」

 記憶の無い俺の為に、と氏政様が昔語りを始めて一刻半。

 座して耳を傾けながら、俺は官兵衛殿のことを――この身を抱き締め、戻ってきてくれてよかったと言ってくれた方のことを考えていた。

 最早忍とは名ばかりで、術の用い方も戦い方もろくに知らない、何の役にも立つことは出来ないだろう俺に、あんな言葉を――。

 記憶を無くす前、素性も知れぬ傭兵である俺を対等に扱い、大切にしてくれていた人と聞いてはいたが――確かにとても優しい方のようだった。

 優しい方なのに……俺が悲しませてしまった。

 せめてあの方のことだけでも早く思い出したい。

――俺とてあの方を、大切に思っていたに違いないのだから……。


   *  *  *



 それから俺は、氏政様に許しを得て、記憶が戻るまでの間、官兵衛殿の傍に控えることになった。

 そう望んでくれたのは官兵衛殿だった。
 不自由な両腕の代わりを俺に――ということだったが、俺の肩身がこれ以上狭くならないように気を回してくれたのだろう。

 朝は着替えを手伝ったり、昼は書き物をする為の硯を用意したり、夜は灯りを用意したり……後は猫の世話を手伝ったりなど――任されるのは簡単な仕事ばかりだったが、それでも役に立てるのならば、と俺は勤めた。

 そしてそれがどんな簡単な仕事であっても、

「ありがとうな――風切羽」

 そう言って官兵衛殿は微笑みかけてくれた。

 官兵衛殿の微笑みは、声は……俺の中の空虚を僅かずつだが、満たしてくれているような気がする……。

 いつしか記憶の無い歯痒さや心もとなさは薄まりゆき、この穏やかな日々に慣れ始めていた。

 そんな折、猫を遊ばせていた俺に、官兵衛殿が書き物をしながらこう尋ねた。

「――まだ何も思い出さないか?」

 机に向かう官兵衛殿に、俺が今どちらに首を振ったかは見えない筈だが、答えは予め解っていたようだ。

「――お前さん、思い出したいと思っているか?」

「……!」

 重ねられた問いに俺ははっとした。

 今の暮らしに順応し、安らぎと喜びを見出だし、いつしか記憶を取り戻すことに対する意欲を見失いかけていた己を明確に自覚してしまい、自己嫌悪が生じる。

 だが――官兵衛殿は筆を起き、いつものように微笑みながら振り返る。

「思い出したいと思わないなら、それでもいいんだ」

「……?」

「小生もな、ここでお前さんや北条殿と暮らす内に、前ほどこいつを外すことにこだわらなくなってきた」

 枷を軽く持ち上げて見せる。

「自由を求める気持ちは消えてないが、自由でなくても不幸せとは思わん――お前さんもそんな気持ちなんじゃないかと、な……」

 官兵衛殿の言う通りかもしれない――記憶を取り戻したいと思わないわけではないが、戻らなくても構わないと思っているのかもしれない。

 ――だが。

 俺は官兵衛殿の自由を奪う枷を見つめた。

 貴方がそれでいいのだとしても、俺は貴方に自由になってほしいと、そう、思わずにはいられない。

 ――貴方もそうして笑いながら、本当は望んでいるのではないのか。

 俺が――貴方の知る、「風切羽」に戻ることを。

 どこへ行ってしまったんだ、「風切羽」は。
 この方がこんなに逢いたがっているのに……。

 ――そうだ、お前は離れてはいけなかったのだ。

 官兵衛殿や氏政様の口から時折語られるその「伝説の忍」は、「風の悪魔」とも渾名され、敵軍には恐怖を、この城には安寧をもたらしていたという。

 体が戦い方を覚えていたとしても、忍の技など何ひとつ使えない今の俺とは比べるべくもない強さなのだろう。

 「伝説の忍」が今はこんな体たらくだと知れれば、好機と見てこの地に攻め入る者が現れないとも限らない……。

 ――「風切羽」が戻らなくては、取り返しのつかないことになるかもしれない。

 ならば……。

 俺は……。



   *  *  *



 夜更けの頃、俺は記憶を失ってから初めて「忍ぶ」ということをした。

 日課の晩酌の後、床についた官兵衛殿の枕元に俺は膝をつき、その寝顔を覗いた。

 夢路を妨げぬように、静かに、そっと、眺めた。

 この方の顔をこうしてゆっくり眺めるのは、これが最後になるのだと思いながら。

「……」

 語るべき言葉を持たないことに、今は感謝したい。

 大切な方に別れの言葉も感謝の言葉も告げずに去るという、この不忠の言い訳に出来る――。


――官兵衛殿。

 心優しき方、どうか――目を覚ました時、俺の姿が無くても悲しまないで下さい。


 俺は、これから探しに行くのです。

 貴方が今、必要としている存在を。

 「風切羽」を貴方の元に還します。


「ん……」

 官兵衛殿が寝息の合間に微かな声を漏らし、僅かに身じろいだ瞬間、思わず手を伸べそうになり、しかし思い止まった。

 この場所に、その温もりに留まりたいという己の弱さを退け、俺は、立ち去った。



   *  *  *



 最後まで名が決まらなくて悩んでいた、一番大人しい一匹に、小生はようやく「風待(かぜまち)」という名をつけた。

 「風待草」といえば梅の花のことだが、桃の節句の頃に生まれた猫に、あえてそんな名前をつけた小生の心中は――まあ、察してやってくれという感じだ。

 いよいよ春めいて温かな庭先で、鳥を追い掛けたり、日向に寝そべったりして好き勝手に過ごす気ままな猫どもを眺めながら、思わず溜め息を漏らす。

 ――なんでまたいなくなっちまったんだ、風切羽……。

 お前さんが楽になればと思って口にした言葉が、かえってお前さんを追い詰めたのか……?

 小生はいつだってこの口で失敗するんだ――ああ、いっそあいつのように口を閉ざし、何も語らなけりゃしくじらないのかね……。

 自嘲の笑いが喉を微かに震わせた、その時。

 突如、視界の外で悲鳴が上がった。

 人のものではなく、猫の――。

 驚き振り返れば、どこかで見覚えのある、翼を持つ小さな略奪者が、恐らくは日の光を弾いて煌めく銀の鈴に心を惹かれ、子猫を――風待をその爪に捕えて舞い上がろうとしていた。

「なッ……!!」

 立ち上がり、咄嗟に鉄球で追い払おうとしたが、敵の素早さには到底及ばず、あっという間に空へと舞い上がる。

「ま、待てッ……そいつを連れていくな……ッ!!」

 小生の叫びなど無視し、北の空へと飛び帰ろうとする忌々しい鳥。

 飛び立つための羽など持たない小生に出来ることは、羽を持つ者の名を叫ぶことだけだった。


「――風切羽ーッ……!!」


 声に驚いた鳥が、一瞬羽ばたきを乱したその刹那。

 青い空に、すっと黒い影が生じた。

 はっと息を呑んだ次の瞬間には、獲物を手放した鳥が狂ったように慌てて翼を旋回させて逃げていくのが視界の隅に見えた。

 では手放された獲物は――??

 その小さな姿を探す小生の視界を覆うように、黒い影がすぐ目の前に現れた。

 宵闇色の美しい羽を、散らしながら。



   *  *  *



 無事確保した仔猫を差し出して見せたが、呆然とするばかりで一向に受け取る気配がない。

 仕方なく適当に地面に下ろしたが、足に擦り寄って来て離れる様子が無かった。
 だが、特に問題はないのでそのままにしておく。

 先程の鷹は昔、枷の鍵を持ち去ったのと同じ鷹――いずれ何かの手掛かりになるかもしれない。今は仕留めずにおくべきだろう。

 そう考えていた時、

「……か、風切羽!!」

 黒田官兵衛が血相を変えて俺を呼び、無遠慮ににじり寄って腕を掴んできた。

 ほどくことも消えて逃れることも簡単だが、足元の猫同様、俺は好きにさせることにした。

「お前さん、戻ったのか――思い出した、のか!?」

「……」

「っ!? そ、その人の話を聞いてるんだか聞いてないんだか解らない感じ……!! 元に戻ったんだな!!」

 俺は話を聞いていなかったことなどないが――ともあれ黒田官兵衛は喜色満面の様子だった。

 そして。

「っ……」

 突然俺の腕を離して背を向けたかと思うと、今度は肩を震わせて泣き始めた。

 幾つもの感情が入り乱れて、浮かび消える――さながら万華鏡のようだ。

 ――人の、「心」。

 風魔の術を持って己の魂魄の一部を切り取り、具現化させ生み出した「分身」――「風魔小太郎」としての性質を持たず、「人」の「理」に近しいそれを黒田官兵衛の側に置き、俺はずっと客観的にその様子を眺めていた。

 分身と言えど、間違いなく俺と同じ存在でありながら、人と同じ感情の揺らぎを味わったそれを俺の中に再び戻した時、流れ込んできたなじみがない筈のそれに、違和感は覚えなかった。

 感情の揺らぎは、心は、最初から俺の中にも存在するものだと――ついに俺は確証を得るに至った。

「うッ……うぅ……」

 子どものように嗚咽を漏らして泣いている黒田官兵衛の後ろ姿を黙って見つめる俺の思考の隅で、既に俺の中に回帰した筈の男が、呆れたようにたしなめる声を聞いた気がした。


――何をしているんだ「風切羽」。

――守りたいのだろう? その方を。

――己が何をするべきか、解らないのか?


 ――いや。
 概念としても感覚としても、俺は理解している。

 こういう時、人の心は「温もり」を欲するのだ――。

 手を伸べ、しゃくり上げる度に上下する広い背中に触れた。

「……っ」

 驚き、ビクリと揺れたその身を、構うことなく静かに撫でる。

 やがて再び始まった嗚咽が、本当に収まるまで、俺はずっとそうしていた。






《終》



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