鳴かない雛【前編】 ――桃の節句の頃、桜真風が仔猫を四匹産んだ。 「さて、こいつらの名前は何にするかね……」 籠の中、並んで桜真風の乳を吸っている四匹を覗き込み、黒田官兵衛はやたらと愉しそうににやついている。 身重になったと気付いた時には驚愕し、「うちの桜真風に手を出したケダモノ野郎はどこのどいつだ!」などと騒いでいたが、だんだんに腹が膨れるにつれて怒りは消えていったようだ。 それどころか、まるで自分の孫が生まれたかのような浮かれぶりだった。 「流石に四匹全部考えるのは大変だな……北条殿にも手伝って貰って……あ、お前さんも一緒に名を考えてみないか?」 「……」 「いいのが思い付いたら教えてくれ」 そう言って俺に向かって微笑む黒田官兵衛の、両の手は相変わらず枷に戒められている。 無論、外すことを諦めたのではないだろうが、黒田官兵衛は近頃ではあまり枷や鍵のことを口にしなくなってきていた。 なかなか鍵を入手出来ないことに“主”が気を揉み、時折俺が叱責されていることを認識しているからなのだろう。 任務の達成に想定以上の時を費やしているのは事実だ。 咎め立てされれば弁明するつもりはないし、まして庇護など不要だ。 ――本来はお前が俺を責めるべきではないのか、黒田官兵衛。 ――そうしない理由は、黒田官兵衛が俺に対して抱いている「感情」の為か。 暮れに起きた怪僧の一件以来、俺はその「感情」について時折考える。 あの時俺は、それまでの俺であれば絶対に選択しないだろう判断により、追討を行わなかった。 俺にその判断を下させた、理屈に合わないあの衝動は――人の持つ「感情」とひどく似ていた。 無論、それは推測に過ぎない――実際の「感情」というものを俺は知らないのだから。 だが仮に俺の内に生じたものが人の「感情」と本質を同じくするもの、あるいはそれに準するものであったならば、「風魔」の理から外れた俺は「風魔小太郎」の名を捨てねばならない。 そして、慣例に従い、この身を闇に帰す――それが、掟だ。 * * * ――ふと気が付けば、見知らぬ場所に立ち尽くしていた。 鳥や獣の鳴き声すらも聞こえない、しんと静まり返った林――この景色に覚えはない。 ほんの少し前まで、何か思索していたような気がしたが、その「何か」を思い出すことは叶わず。 「何か」に限ったことではない――それ以外のことも何一つ思い出せはせず、頭の中には空白だけがある。 ここはどこだ? 俺は何していた? ……俺の、名は……。 手繰ろうとも全ての記憶の糸は断ち切られており、俺は俺のことを何一つ思い出すことが出来ない。 手掛かりを求めて周囲を見渡し、極端に狭い視界に戸惑った。 僅かな隙間を除き、目元まで覆い隠した冑の為だと気づいて外そうとしたが、何故かそれはどうやっても外れそうになかった。 水や鏡に映そうとも、俺は自分の顔すらも把握することが出来ないだろう。 己を知る手掛かりをどんどん失っていき、空白が広がっていくようだった。 ――だが。 灰色に澱んだ曇り空の向こうに、ゆらりと建つ城を見付けた時、何か胸騒ぐものを覚えた。 ――あれは……あの城は……知っている気がする。 そんな頼りない感覚こそが、今の俺の全てだった。 遠くにそびえる城へと向かい、ただふらりと歩き出した。 * * * 目指す場所への道程は易いものではなかった。 歩き続けること自体はさほど苦にもならず、息が切れることも、足が疲れることも不思議となく、空腹を感じることさえなかった。 ただ――。 「ひっ……お助けくだされぇぇ……!!」 悲鳴を聞いて初めて、自分の手が背中に伸びていたことに気が付いた。 まただ。 ただ通りすがっただけの行商に声を掛けられただけにも関わらず、俺の手は半ば反射的に背に負った刃を抜こうとしていた。 すまない――そう口にしようにも声を出すことが出来ず、逃げ惑い去る姿を見送る他なかった。 こんなことは何度も起きていた。 俺の姿を見た者を、俺に近付いた者を、俺は無意識に傷つけようとする――記憶を失う前、ずっとそうしてきたんだろう。 ――俺はきっと、人を殺めている……それも一人や二人ではなく……。 確信めいた、寒々しい予感があった。 忘却した自身を取り戻すことに、微かな躊躇いが芽生えたが、それでもあの城を見上げる度に「あそこに行かなくてはならない」と突き動かされ、立ち止まることはなかった。 ひたすら進み、ようやく城下の街に足を踏み入れた頃には日が落ちかけていた。 街をゆく人々は俺の姿を見て驚いたり、隠れてじっと様子を伺う者が大半だったが、時には恭しく頭を下げられたり、挨拶されることもあった。 この街の人々は俺のことを知っているのだろうか――そう考えながら歩みを進めていた時、 「――今日は鰯は終いなのか……ならこっちの――」 耳がとらえた声に何故かはっとし、俺は足を止めて振り返った。 目に入ったのは辻で魚を売っている男と、買っている男――なんでもない光景だったが、買っている男のほうは奇妙な出で立ちをしていた。 それなりの身分の高さを思わせる身なりをしていながら、罪人のように枷で手を戒められ、鉄塊を繋いだ鎖がつけられていた。 ――その男に目を奪われたのは、容貌があまりにも目立っていたからだろうか。それとも……。 視線に気付いたのか、こちらに振り返った男と目が合った。 「……っ」 男は驚いたように目を見開いたかと思うと、顔をくしゃりと歪め、鉄塊を引き摺りながらこちらに駆け寄って来る。 ただならぬ雰囲気に思わず少し後ずさったが、構わずに間を詰め、男は俺の顔を覗き込んできた。 「――今までどこへ行っていたんだ……?」 周囲を気にするように潜めた声で、けれど必死な様子で男が問い掛けてきた。 「――勝手にいなくならないでくれ、と言っただろうが……心配させるな」 そう告げながら一つ溜め息を洩らして肩の力を抜くと、俺をじっと見つめながら、男は微笑んだ。 「お前さんが無事で良かった――風切羽」 風、切、羽。 男の口にしたその言葉は、俺の中の空白に静かに反響した。 風切羽、というのが俺の名前だろうか。 わからない。 思い出せない。 だが、この男が俺のことを知っているのは確かだ。 「さあ、小生と一緒に城に戻ろう。な?」 囁かれた言葉に、俺は頷いて見せた。 俺を知る男が、俺が目指していたその場所へ導いてくれるとそう言うのなら、ついて行くしかない。 何も思い出すことは出来ない。 だが今、俺がすがれるものといえば、あの城と、この男だけだった。 「……」 ――風切羽。 音にならない声でその呼び名を紡いでみる。 自分の名前かもしれないそれを、ただ美しい響きだと――そう思った。 * * * 城への道すがら、男はずっと俺に一方的に語りかけていた。 俺が何も答えないことを訝しがる様子はなく、己は元々声を持たない者なのだと知った。 男の話から切れ切れに得られる情報から推察するに、俺はあの城で「北条殿」という方に仕えている忍らしい。 俺が主にすら何も告げず三晩姿を消した為、大変な騒ぎになっていたということだった。 自らの身の上が忍だと聞かされて、道中の出来事にはようやく全て合点がいった。 だが男の話からは、俺と男がどういう関係なのかを知ることは出来なかった。 俺を見付けた時のあの反応や、俺に語りかける時の表情や口調から、親しい仲なのだろう――とは思う。 この男は、俺の家族……か? あるいは、友なのだろうか? 俺が何も……名前すらも覚えていない、と知ったら悲しむだろうか。 * * * 「え……?」 言われた意味が咄嗟に理解出来なかった。小生の明晰な頭脳を持ってしてもだ。 ――風切羽が、記憶喪失? 打ち明けられた場所が、念入りに人払いした座敷でなければ冗談だと思って笑い飛ばしていただろう。 「わしも驚いたがのう……何もかも忘れておるようぢゃ」 北条殿はひどく気落ちした様子ながら、戸惑う小生に説明をしてくれた。 帰還した風切羽の様子がいつもと違うのを不思議に思いながら、この三晩どこで何をしていたのかと問い詰めた北条殿に、風切羽は「覚えていない」と言ったのだそうだ。 そればかりか、自らの言葉を北条殿が解せたことに驚いた様子すら見せたと言う。 風切羽の言葉は、“主”である北条殿にだけは伝わる――その事実を自分で忘れるなど、普通ならありえないだろう。 「記憶を喪い、勤めが儘ならない身になってしまい申し訳ない、と風魔に頭を下げられてのう……」 「か、風切羽が……?」 あの男は相手が主であっても頭を下げたりはしない。 命令ならばするかもしれないが、少なくとも自分から膝をつくようなことはないだろう。 「まるで、別人のようじゃないか……誰かが風切羽に成り済まそうとしているという可能性は?」 「それも無いとは言えんのぢゃがの……少なくともわしの目には本物に見えるぞい」 長いこと一番近くで風切羽を見てきた北条殿が本物だと言うならそうなのかもしれない……だが、念は入れるに越したことはないだろう。 「後で風切羽を小生の部屋にやってくれないか……? 小生がこの慧眼で見極めてやる」 風切羽の名を騙る者なら許しはしない――本物の風切羽に何をしたかによっては、殺しても飽き足りないだろう。 だが。 もし本当に風切羽が記憶を無くし、小生のことを覚えていないのだとしたら――小生は……。 * * * 声を掛けられない代わりに戸の縁を軽く叩くと、「入ってくれ」と中から聞こえた。 廊下に座したまま静かに戸を開き、軽く頭を下げると、何故か苦笑された。 「……普通に現れるお前さんもたまには新鮮だな……」 そう評され、何かいつもと違うことをしたのだと解ったが、「いつも」を思い出せない俺にはどうしようもなかった。 俺をこの城へ導いてくれた方――黒田官兵衛殿は、俺の主・北条氏政様の宰相であり、年の離れた友人でもあるとのことだった。 官兵衛殿は、この城に居を移してからずっと俺を大事にして下さっていた、と氏政様は仰っていた。 もうこの方の耳にも俺が記憶を無くしていることは伝わっているのだろうか――。 そんなことを思いながら頭を上げて、目の前の意外な光景に思わずあっけにとられた。 官兵衛殿の体に小さな生き物がまとわりついている。それも四匹。 背中を軽く引っ掻いたり、鎖にじゃれたり、膝に乗ったり、手に摺り寄ったり――好き勝手に遊ぶあどけない仔猫にまみれた大柄な男が、俺に微笑みかけた。 「この悪ガキども、小生一人じゃ手に負えなくてな――お前さんも、手伝ってくれないか?」 《続》 ★戻る★ ★Topへ戻る★ |