溺れる星【後編】 | ナノ


溺れる星【後編】




 白髪の怪僧は、松永久秀の手の者ではなかった。
 ただ単に、こちらと同様にあの男の消息を知りたがっている者――。

「……おい……これが、協力、か……?」

 着物を剥がれ、枷と首の輪以外完全に全裸とされ、畳に仰向けにされた黒田官兵衛は、気力を振り絞るように天海を睨んだ。

 針の先に塗られた微弱な毒の効能で、体は自由にならず、大きな声も出すことが出来ないと見える。

「ええ――勿論協力ですよ。貴方の欲をこの天海が解き放って差し上げましょう」

 天海の口調は、茶しか口にしていないわりに、まるで酩酊しているかのようだ。

「さあ晒して下さい――生を謳歌し、生を次代に継ぐ為の、極めて健全な欲をね……ククク」

 血が通っていないかのような白磁めいた指先が頬を撫でると、黒田官兵衛は嫌悪するように僅かに身を震わせた。

「……触、るな……」

 ……。

 ――松永久秀と繋がる情報を持たないならば、もう用はない。

 ――消すか。

 俺はただそう冷静に判断し、姿を隠したまま忍刀に手を掛けた。

 その刹那。

「――風魔さん」

 まるでこちらの挙動を感知していたかのように、天海が口を開いた。

「――もしそこにいらっしゃるのでしたら、私と協力しませんか?」

「……お前、さ」

 明らかな動揺を示す黒田官兵衛を静かに見下ろし、天海は静かに語りかけてくる。

「ご心配なさらずとも貴方の“主”のご友人は丁重に扱います――この体に針先より大きな傷はつけませんので……」

「……風、切……羽……いる、のか……?」

 黒田官兵衛は必死に視線を巡らせ、見える筈のない俺の姿を見つけようとする。

「……いる、な……ら……小生を、助、け……」

「貴方はただそこで黙って見ていて頂ければ結構――快楽の渦中に貴方の視線を感じ、この方がより乱れて下さればそれでいいのです」

 助けを請う黒田官兵衛の声を遮り告げると、頬に触れていた手を滑らせ、太い首筋、肩の稜線を辿る。

「……っ……よせ」

 黒田官兵衛は弱々しく頭を振り、肌を羞恥の色に染める。

「……見る、な……見ないで……くれ……風切、羽……助け、てく……ッぁ」

 左胸の中心に触れられて、懇願は微かな嬌声に取って変わられる。

「――ほら、貴方の視線に感じていますよ……ククク」

 ――不快感を覚えた。

 ――何に対するものなのか判然としない不快感を。

 天海の指が肌を滑る度にびくびくと背を震わせ、肌を色付かせていく黒田官兵衛。

 天海は実際に俺がここに立っていることを確信して語りかけているのではないだろう。

 もし実際には誰もいないのだとしても、黒田官兵衛に俺の存在を意識させ、動揺させられればそれでいいと考えている筈だ。

 冷静な思考力を奪い、意のままとする為に。

「……や……ぅ、ぁッ」

「いいですね……その顔……もっと、もっと溺れていきましょう黒田さん……!」

 毒の影響で身動ぎさえままならず、黒田官兵衛はひたすら嬲られている。

 抵抗は出来ない。
 拒絶は出来ない。

 俺が刀を抜けば、阻止出来る。


 ――だが阻止する理由はあるのか?


 このまま天海に任せれば、黒田官兵衛から効率良く肉の欲を引き出すことが出来るだろう――ならば殺すにしても、行為が一通り済んでから抹殺するほうが良いのではないのか。

――俺は刀から手を離した。

 傍観を選んだ。

「っ……や、め……」

「溺れればいいのです……さあ……もっと……もっとッ……!!」

 狂気じみた声を上げる男と、その手に翻弄されて悶え啼く男。

――その様を見続けていると、意味不明な不快感がじわじわと肥大し、内から浸食していくような感覚を覚えた。

――なんだ、これは……?

 理解出来ない。

――俺は無視を決め込んだ。



   *  *  *



 もっと溺れろ、と忌々しい僧は繰り返す。

「っ……ぅぁ」

 溺れさせられて堪るか、と足掻こうにも体はまるで言うことを聞かず、まともに声も出せない。

 ――喉を震わせるものは意味を持たない喘ぎと悲鳴、そして勝手に荒くなっていく呼吸だけだ。

「く……っ」

 冷たい指が直接中心に絡みついた。

 根から先へとねっとりと擦り上げられると、あっけないほど容易くそこが形を変えていく。

「――ここ、気持ちがいいですか?黒田さん……」

 羞恥を煽る問い掛けに、最早頭を横に振る気力も削がれていく。

「――気持ちがいいんですね……では、こちらは……」

「……っぁッ」

 冷たい指は棹を下へ辿り、そのまま後孔に触れた。

「……よ、せ……」

 誰にも許したことのないソコをなだめるようになぞられ、背筋が震えた。

――犯サレル……。

 恐怖心が目の前を真っ暗にする。震えが止まらない。

「ククク……怯えることなどありませんよ……感じて下さい、生きる喜びを……」

――こんなものが生きる喜びだなんて冗談じゃない。

――助けてくれ、風切羽……。

――風切羽……いないのか??

――それとも本当に、そこで眺めているのか?……小生が弄ばれ、犯される様を……。


 違うと思いたい。

 だが、そうかもしれないとも思う。

 ああ――いっそ何もかも判らなくなるくらい溺れちまったら楽なのかもな……。

 磨耗した精神が弱音を吐き出したその時、ふと廊下をゆく誰かの足音が聞こえた。

 徐々にこちらへ近付いてくる。

「ッ……ぁ」

 風切羽じゃない。あいつは足音を立てないからだ。


 だが誰でもいい。
 気づいてくれ。
 助けてくれ。
 頼むから。


 ――だが、その祈りは届かなかった。


「――天海、さま……??」



***



「こう、でいいの……?」

「っ……ぅ」

「ええそうです、その調子ですよ金吾さん……ククク」

 拙い所作で菊門を押し拡げ、浅く侵入して前後する指に、黒田官兵衛は苦悶の表情を浮かべた。

「な、なんか苦しそうなんだけど、大丈夫かな……」

「金吾さんは優しいですね。大丈夫ですよ、私がこうして前を弄って差し上げますから……」

「っ……はぁ」

 萎えかけた一物を握られて、鼻にかかった声を洩らす。

「――すぐに後ろも心地好くなりますよ……」

 小早川秀秋が加わったことで、2人の人間から同時に刺激が与えられ、黒田官兵衛はどんどん追い上げられている。

 全身を朱に染め、浅く速い呼吸を繰り返す黒田官兵衛に見入りながらも、小早川秀秋はどこか不安げに問う。

「ねえ、天海さま……本当にこれでこの人に取り憑いてる悪い怨霊を払ってあげることができるの……?」

「ええ――貴方が行っていることはとても正しく立派なことですよ……さあ、そろそろ指を増やして差し上げて下さい」

 そしてまた静かな部屋に苦悶の声が響く。

 小早川秀秋が丁度良い頃合いにこの部屋に訪れるよう、天海は事前に根回しを行っていた様子だ。

 奇人めいた言動と裏腹に良く頭の回る男と見える。

 除霊の為に必要な行為と欺いて、小早川秀秋を利用する――黒田官兵衛の気力を更に削ぐ為に。

 侮っていた年少の相手に体を開かされる屈辱は、効率良く黒田官兵衛を乱れさせる。

「っ……ぁ」

 2本に増えた指が、徐々に大胆に内部を侵し始め、苦悶は次第に別のものにとって替わられつつある。
 意思とは無関係に腰がぴくりぴくりと跳ね、首を仰け反らせた。

 その直後。

 黒田官兵衛の目元から、一滴伝い落ちた。


 ――涙。


 俺の行為を拒絶したあの時、褥を濡らしたのと同じ。


 ――目眩を覚えた。


 何かおかしい。
 何かが……。
 何なんだ?
 これは。


 任務に従い、俺は最善の行動を――常に、そうしている。それが唯一の正解だ。

 では何故俺は今――

 他人の手管に堕ち、溺れていく黒田官兵衛を見ているのが不快なんだ――?


 かつてない混乱を覚える思考の片隅で、つい先程――“主”に呼ばれ、徳川家康の前に姿を見せた時の出来事が過った。

――久しいな、風魔……いや、風切羽だったか?

 あの男は黒田官兵衛を真似て俺を呼んだ。まるで悪戯を仕掛ける童のような顔で。

――おっと……こう呼んでいいのは官兵衛だけだったか?

――お前は暫く見ない間に表情が豊かになったな。

 俺は何も答えず、何も反応していないつもりだった。
 だが徳川家康は、疑いもなくそう告げてきた――そして“主”までが……。

――そうぢゃ、そうぢゃ……官兵衛殿が来てから風魔は随分と変わったように見えるぞい。

 俺が、変わった……?
 変わってなどいない。

 ただの思い込みだとあの時は一蹴出来た――……だが俺は、確かにどこか狂い出しているのかもしれない。


 それが誤った判断であったとしても――俺はこれ以上、天の海に溺れる星を眺めてはいられない。


 素早く忍刀を抜き、跳躍した。

 天海の背に狙いを定めて振り下ろした刃は、奴が素早く側に引き寄せた、小早川秀秋の背に負う鍋に当たり、カン、と硬質な音を立てた。

「う、うわっ、な、なに!?なんなの!!」

「……ひどいことをなさいますねえ……一介の僧を相手に」

 姿を消したまま切りかかった俺の気配を察し、素早く盾を作る――そんな真似の出来る者が一介の僧であるわけはない。

 四散した術の残滓が黒く舞う中、姿を顕とした俺に、

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ……出たぁぁぁッ!!」

 小早川秀秋は喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。

「……まったく金吾さんは……これでは人が集まってしまいますね」

 天海は如何にも困った、というふうにわざとらしく小首を傾けた。

 その傍らにぐったりと横たわった黒田官兵衛は、俺を見上げ、心底安心したような表情を浮かべていた。

「――それでは今宵は退散致しましょう」

 黒田官兵衛から手を引き、すっくと立ち上がると、庭へ続く障子戸へと歩みを進める。

「追って来ても構いませんよ――今の貴方とならば、少し楽しめそうですから……」

 そう言い捨て、出て行く天海を追い、待って、置いていかないで、と喚きながら小早川秀秋も飛び出した。

 望み通りに後を追い、始末してやるつもりだった――だが。

 廊下を急ぎ足で向かってくる複数の足音を聞きつけ、俺は庭とは真逆の方向へ動いていた。

 廊下へ出て俺の姿を見せれば、悲鳴を聞き付けて集まった者たちは「忍殿がおられるならば問題ない」と大人しく立ち去る。部屋に踏み込むことはない。

 これ以上、黒田官兵衛が他人に恥態を晒すことはなくなる――。

 俺は躊躇いなく、あの男を追うよりも、黒田官兵衛の尊厳を守ることを選択した。


 理屈に合わない衝動。
 矛盾満ちた行動原理。

――それはまるで“感情”だ。

――“心”だ。

 “風魔小太郎”たる者が持ち合わせてはならない。

 このままではいずれ俺は、その名を失うかもしれない。

「……あり……がと、う……」

 廊下へ向かおうとした俺の背に、掠れたか細い声が呼び掛ける。

「風……切……羽……」

 そう、だな――“風魔小太郎”の名を喪っても。

 俺にはまだ、名がある。



   *  *  *



「……ん……」

 鼻先を柔らかなものが擽り、目を覚ませば褥の上だった。

 鼻を擽ったのが、明けの寒さに耐えかねて潜り込んできた桜真風だと気づく。

 まったく、こんな時ばかり擦り寄ってしょうがない奴だ。

 しかし、今何刻だ?いつの間に布団に入ったのか全く思い出せんぞ――確か小生は、天海と金吾の奴に……それともありゃ夢か?

 あの連中に辱しめられたことは全力で夢であってほしい……んだがな。

 ――あいつが助けてくれたことが、もし夢で無かったら……。

 まだ回らない頭で思案しながら、目の前の柔らかい毛並みに触れようとして――ふと、指先に残るまだ新しい小さな傷跡に気づき、思わず溜め息をついた。

 ――溜め息をつきながら、笑った。






《終》


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