溺れる星【前編】 | ナノ


溺れる星【前編】




 慌ただしく年の瀬が押し迫っていた。

 これまでの小生の人生でも最も波乱に満ち、そして最も充実した一年がもうすぐ終わろうとしている。

 やれやれこの分じゃ、年内にこの枷を外すことは出来ないのか……なんて考えると少しばかり落ち込むが、まあ、それを差し引いても今年の小生は「勝ち」だったろうと思う。

 北条殿とともに天下を掌握し、西軍の連中にも一泡吹かせてやれた。それに……。


 ――小生は今、恋も、している……。


「――風切羽」


 呼び掛ければ、羽を散らして虚空から顕現する――小生の想い人。

「よう、おはようさん」

 日課の挨拶。
 何も応えず、土足で部屋の真ん中に突っ立って腕組みしている無愛想な忍に、小生はいつものように笑いかける。

「――すまんが今日も鍵探しをよろしく頼むな」

 頷いてみせることすらせずに、また奴は虚空へとかき消えてしまう。

 だがそのほんの些細なやり取りこそが、小生の幸福の確認だ。

 小生の鍵探しや、それ以外の北条殿の使いで奔走している風切羽をずっと傍らに留めおくことは出来ない。

 なればこそ。

 朝の挨拶と、晩酌の折――風切羽に会えるこの僅かな時間が、今はどんなものより貴重に感じられる。

――風切羽に褥で肌を暴かれた、あの夜を経ても何ら変わることはない。

 時折あの時のことを思い出して胸がざわついたり、勝手に体が熱を帯びることはあるが……。

 心のどこかでは思っていたのかもしれない――風切羽を拒まずに受け入れてしまいたいと。

 だが、拒んだことを悔やんではいないんだ。

 風切羽が小生の思いを理解してくれたのか、それはわからないが、あれ以来何も手は出してきていない。

 きっと別な方法で鍵を探してくれるつもりなんだろう。


 風切羽の報告を受けた北条殿が言ってたことには、小生の鍵を持って消えた男は、あの松永久秀、だそうだ。

 長きに亘って姿を隠し、巷では死んだと噂されていた乱世の梟雄。

 かつての居城にはもはやその姿は無く、どこかに身を潜めているのか、各地をさすらっているのか――その足取りは未だ掴めない。

 報告を受けてすぐ、北条殿が各地に書状を送って捜索をかけてくれていることだし、

「……そろそろ何か情報が出てもいい頃合いだと思うんだがね……」

 思わず独りごちた小生の脇で、まるまる太った猫が「うにゃん」と鳴いた。

「お前さんもそう思うか?――桜真風(さくらまじ)」

 どこからか風切羽が連れてきて、それっきり居着いたこの猫に、小生は「桜真風」という名をつけた。

 東国ではあまり使われない言い回しらしいが、「真風(まじ)」ってのは南から吹く風、花の見頃に吹くものを「桜真風」と言う。

 早く小田原の桜が咲くのを見たいと思って名付けたんだと言ったら、北条殿は喜んでくれた。

 ……だが実は名前の意味はそれだけじゃない。

 ――「真風」という字、逆さから読めば「ふうま」、と読めなくもないじゃないか……。

 我ながら、恥ずかしいことを思い付いたもんだと呆れちまうが、このくらいはいいだろ……なあ?

「……早く小生に春を運んできてくれよ?桜真風……」

 まるくなって目を閉じ、眠そうにしていた桜真風は、片目を薄く開けてちらりと小生を見やり、すぐにまた両目を閉じた。

「はは――まったく、お前さんも愛想がないなぁ……」

 軽く苦笑いをし、さて日課の散策にでも出ようかと立ち上がった時、ふと誰かの視線を感じたような気がして、思わず背後を振り返った。

「……?」

 ――無論、そこには誰もいなかった。



***



 一瞬気取られたのかと思ったが、そうではなかったようだ。

 黒田官兵衛は、ただの一度こちらを振り返っただけで、何事もなく散策の支度を始めた。

 ――俺が四六時中、こうして姿と気配を消して黒田官兵衛と行動を共にしていることは、“主”すらも知りえないことだ。

 だが、松永久秀の興味の対象が黒田官兵衛である以上、それを監視することこそが鍵に近づく有効な手段となるのは間違いない。

 ――いや、厳密には他に有効な手段は幾らでも存在している。

 だが敵地に潜入すれば「勝手に離れるな」と言い、ならば、と敵を陽動する手を選択すれば、「そんなやり方は受け入れられない」と言う。

 肝心の黒田官兵衛が非協力的なのだからどうにもならない。

――……何故あの時、黒田官兵衛は俺を拒んだのか。

 俺に触れられたことがそれほど許容し難かったか。

 黒田官兵衛は俺に「好きだ」と言った。

 それは俺に「恋心」を抱いたということだろう。

 相手に何も望まず、触れることすら求めない――そんな「恋心」があるというのか。


――否……思索など無意味だ。心を持たない俺に理解出来る筈がない。


 黒田官兵衛は相変わらず供もつけずに気軽に城下へ出向き、松永久秀のことがあってからも散策の順路をけして変えることはしない。果てしなく不用心な男だ。

 あるいはそうして、あの男がもう一度姿を現すことを期待しているのかもしれないが、城下を歩き、行き交う者と笑顔で言葉を交わす様には全く緊張感が見られない。

 松永久秀であれば、不用心なこの男を、拐かす程度は容易いだろう。


 俺がここにいる限りは、そうはさせないが。


 ――しかし、結局今日も敵は現れないようだった。

 城へと引き返すその道すがらに、黒田官兵衛は往来で鰯を買い求めていた。近頃は毎日そうする。

 猫にくれてやるのだ。
 黒田官兵衛を獣に慣らす為に俺が拾って来たあの野良猫に。

 本来名などない野良猫を、黒田官兵衛は「桜真風」と呼んでいる。

 はじめは猫、猫と呼んでいたが、その内に「名前がないのは可哀想だから」と言って、名を付けた。


――名前などというものにこだわり欲するのは、人だけだ。獣は名など求めない。


 仮にそう言ったとしても、あの男は呼ぶのだろう。

――伝説の風の悪魔を、風切羽、と呼ぶように。


 こうして何の収穫も無く、いつも通りの散策は終わった。

 だが、城に戻ってからはいつも通りというわけではなかった。

 慌ただしい雰囲気を察した黒田官兵衛が下女を捕まえ、どうしたのかと尋ねたところには、ほんの一時、城を空けている間に“主”に客人があったようだ。それも1人ではない。

 徳川家康、小早川秀秋――そしてそれぞれの供の者たち、ということだった。

 黒田官兵衛は「もしや松永のことが何か解って知らせに来たんじゃないのか?」と一瞬期待した様子だったが、下女の話では単なる暮れの挨拶ということだった。

 少し落胆しながらも、桜真風に鰯をやったら顔を出す、と下女に“主”への言伝てを頼み、黒田官兵衛は自室に向かった。

 勿論俺もその後に続く。

 部屋の前まで来た時、出掛けにしっかりと閉めた襖が僅かに開いていた。

 猫の仕業だろう――とっさにそう判断したのか、黒田官兵衛は気にもせずに襖に手をかけた。

 ――だが俺は、静かに背の刀に手を伸ばす。

 猫だけではない。人の気がある――そして微かに流れるこれは……血の匂いだ。



   *  *  *



「……な」

 思わず息を呑んだ。

 いるのは桜真風ばかりと信じていた小生の部屋の中に、男がいた。

 長い白髪の男が部屋の真ん中に座し、桜真風のぼってりとした体を両手で抱え上げていた。

「……なんだ、お前さん……!?」

 思わず声を上げると、男は桜真風を抱えたまま、蛇や蜥蜴のように熱の無い眼差しをじろりとこちらへ向けた。

「――これはこれは。部屋の主に断り無くお邪魔をして申し訳ありませんでした」

 顔の下半分を覆っている為に表情は見て取れなかったが、この特徴的な容貌には見覚えがあった。

「――お前さん、金吾の……」

「廊下で愛らしい猫を見たもので、ついつい後を追っていたらここへ」

「桜真風を……?」

「桜真風――ああ、そうですか……名前があるのですか……とても良い名ですね」

 目だけで微笑してみせると、抱えていた桜真風をすとんと畳に落とした。

 桜真風は何事もなかったように、軽く伸びをして、いつも丸くなって寝ているお気に入りの座布団の上に移動した。

「――お前さんは……天海、と言ったか?」

「――ええ、そうですよ……黒田官兵衛さん」

 柔和な物腰、穏やかな語り口――金吾やその家臣が頼りにしているという男……か。

 確かに如何にも徳の高い僧という雰囲気はあるが――どこか底知れないものを感じさせる。不気味だ。
 あんまり関わり合いたいクチじゃない。

 悪いが出て行ってくれないか、と部屋の主としては当然の権限でご退出願おうとした矢先、

「――松永久秀、という方をお捜しとか」

 ぽつりと天海の奴が洩らした言葉に、思わずびくりと反応した。

「――何か知っているのか?あの男の行方を……」

「いいえ――」

 ひどくあっさりと否定の言葉を口にし、期待を一瞬で裏切ってくれる。

「なんだ……」

 今日はさっきからガッカリしっぱなしじゃないか……毎度ながらツイてない。

 思わず嘆息する小生をじっと見つめ、

「ですが」

 天海は微笑する。

「僧として、何かこの私にご協力出来ることはないかと……お話をしたくてお待ちしていたのです」

「協力……だと……?」

「……そうです、協力です。どうでしょう、黒田さん――今宵、この部屋でもう一度お会いし、二人でお話をしませんか?」

 正直、胡散臭い。それもかなりだ。嫌な予感しかしない。

 ――だが、今は松永の消息を掴む為に藁をもすがりたい心境ってのは確かなんだよな……。

 何かあればきっと風切羽が守ってくれる――それに今は権現や戦国最強も近くにいるんだ、そう滅多な真似は出来ないか……。

 さんざん悩んだ末、小生は「わかった」と答えた。熟慮した上の結論だった。


 ――だがその判断は、完全に過ちだった。



   *  *  *



 それが、黒田官兵衛を狙う罠だということはすぐに察せられた。

 血の香りを纏い、甘言を繰る、顔を隠した男――そんな者に慈善の志などあるわけはない。

 すぐに刀を抜き、葬らなかったのは見極める必要があったからだ。

 この男が、松永久秀と通じているのか、そうでないならば何の目的で動いているのか。

 黒田官兵衛は、夜半に約束通り部屋を訪れた天海には茶を出し、自分の分だけ酒を注いだ。
 やはり多少の警戒心は持っているのか、あまり量は多く口にせず、問われるままに松永久秀との因縁話を語って聞かせていた。

 城下の往来で邂逅したその時から、捨て台詞を残して立ち去るまで。

「――欲、ですか」

「ああそうだ――奴はそう言った」

「その身の内に秘められた欲を解放した時に、松永久秀は再び現れる、と……」

「言葉通りに受け取りゃそうだがな……しかしなんでまた小生になんぞ目をつけたんだか……」

 今更のようにぼやいてみせながら、黒田官兵衛はちらりと定位置で丸くなっている桜真風を見やり、何気なしに手を伸ばした。

 天海は品の良い仕草で茶を啜りながら、

「――それは貴方が英雄だから、かもしれませんね……」

 独り言めいて呟いた。それがうまく聞き取れず、「なんだって?」と聞き返しながら、桜真風の毛並みをさっと一撫でした黒田官兵衛がにわかに「……痛ッ」と短く声を上げた。

 桜真風を撫でたその指先に、ぽつっと一つ血の玉が浮かんでいた。

 針か。
 仕込まれていたな。

 そう冷静に判じる俺の目の前で、黒田官兵衛は糸の切れた人形のように畳に崩れ落ちた。

 血の匂いを纏う「僧」は何事もないように茶を飲み干すと、微かな吐息を洩らし、薄く笑んだ。


「ククク――さあ、協力しましょう、黒田さん……貴方は貴方の、私は私の――奪われた物を取り戻す為に」






《続》


戻る
Topへ戻る
- ナノ -