そして、星は笑う | ナノ


そして、星は笑う




「――北条殿……ッ!! ……北条殿……ッ!!」

 使い古した雑巾のような身なりをした男が、必死に栄光門を叩くのを、俺はその夜、門扉の上から見下ろしていた。

 薄汚い男を主の居城から排除しようと槍を向けた門兵は、男の顔を改めた刹那、携えた得物を取り落とした。

「――貴殿はもしや豊臣の……黒田官兵衛殿ではございませぬか……!?」

 男が「如何にもそうだ」と答えてから、門が開け放たれるまでにさして時間は掛からなかった。

――黒田官兵衛。

 それは、かつて煙臭い鳥の群れを引き連れて、悠々とこの門を押し開いた男。

 ふらつく身体を支えられ、黒金の呪詛を引き摺りながら門をくぐる男の姿に、かつての面影はなかった。


 小田原が墜ちたあの日の前夜、“主”は俺に語った。


――風魔よ、この戦は負けぢゃ……。おぬしは最後までようやってくれた……わしがこの地に果てる時が来たら、おぬしはどこへなりと行くがいいぞい……。

ぢゃが最後に一つだけ、おぬしに命じておかねばならぬことがある。

小田原を包囲する豊臣の軍を預かるのは黒田官兵衛という男だそうぢゃ。慧眼を持ち、知略に長けた、それはもう恐ろしい軍師らしいの……。

もしその男がこの城に火を放ち、城下を蹂躙せんとするならば……手遅れになる前に討ち取って来るのぢゃ――わかったな? 風魔よ。


 あるいは“主”からの今生最後の言葉となったかもしれないその命令を、俺が実行する機会はついにやって来なかった――。

 そして宿命は巡り、今再びこの地に現れたあの男……天から地に落ち流れ着いたあの落星を、“主”は恐らく拒みはしないのだろう。

 ――それなら黒田官兵衛、お前はこの城に何をもたらす?



   *  *  *



「――いるのか、風切羽」

 親とはぐれた童のように落ち着きなく周囲を見渡す男の、すぐ正面に降り立ってやった。

 俺の姿を見付けるや否や、男は破顔する。

「お、ちゃんといたな」

 黒田官兵衛は、朝仕度を整えると俺を呼び、ここにいることを確かめようとする。毎日欠かさずそうする。

 俺が任務を遂行するべく、しばらく小田原を離れ、戻ったその日からはずっとだ。

 俺の存在を確かめて満足すると、

「それじゃあ、今日も仕事、頑張れよ」

 などと言ってそれきりだ。これが黒田官兵衛の用向きの全て。何を命ずるでもない。


 ならば、と俺は姿を消す。
 立ち去ったわけではない、只人の目には映らなくなっただけだ。

 黒田官兵衛は俺の姿が消える瞬間、一瞬「あ」と声を上げ、手を伸ばし掛け、戻した。

「……風切羽……」

 呟かれた呼び名。

 風魔、の名を忌み「伝説の忍」「風の悪魔」などと異なる音で呼ぶ者は多いが、俺を「風切羽」と呼ぶのは黒田官兵衛だけだ。

 その意味など、俺は知らない。


「……風切羽……」

 何度も呟かれる名に、また呼ばれているのか……と一瞬考えたが、そうではないようだった。

 黒田官兵衛は部屋の中央に立ち尽くしたまま独り溜め息をつき、項垂れる。


「……参ったな……」

 そう口に乗せながら、僅かに口許が緩んでいる。

 黒田官兵衛は、笑っている。

 喜色。

 愉悦。

 自嘲。

 そのどれとも違うようで、全てを混ぜ合わせたような笑み。

 人の心など、俺の理解し得る物ではないが、推して測ることは出来なくはない。



――小生はな……お前さんが好きだ



 ひどく真剣な顔でこの男は、俺にそう告げた。
 だから勝手に居なくならないでくれ、と。

 「好き」というひどく簡潔な言ノ葉に集約されているもの――他者を慕い焦がれ、留め置きたいと願うこの感傷は、人の世においては「恋心」と呼ばれる。

豊臣の旗の下で小田原を制し、北条の旗の下で天下を制した希代の軍師と呼ばれる男が、「恋心」に胸を弾ませ、顔を緩ませている。

 人の性に根差すがゆえ、人の持つ数多の感情の中で最も御し難く、そして――最も俺にとって理解し難い感情。



   *  *  *



「――その犬が実に狂暴でな、危うく尻に噛み付かれるところだったんだ」

 晩酌の杯を傾けながら、黒田官兵衛は上機嫌で今日の出来事を語る。

 昼間に“主”と話した他愛もない世間話から、散策の間に置きた事件、おおよそ役立つとは思えない無駄な雑学――とりとめがない。

 傍らに控えてそれを聞くのも俺の仕事の一つだ。

「お前さんなら、あんな犬ころ如きは指一本でぶっ飛ばせそうだな」

「……」

「――おっと、本当にやって来いって意味じゃないぞ? ははは」

 酒のせいで普段より饒舌になっているが、そうでなくともこの男は独りでよく喋る。

 いくら話したところで、俺は何も答えない。答えたとしても理解出来ないだろう。

 「風魔小太郎」の言葉を解する者は、風魔一党の者たちか、契約を結んだ“主”のみだ。

 それでも黒田官兵衛は俺に向かって話を続ける。
 そうして気が済むと、

「――さて、酒も尽きたし、そろそろしまいにするか。今日も長く付き合わせて悪かったな」


 そう言って、すでに隣の間に女中が整えた寝床に入る準備を始める。

 俺は再び静かに風をまとい、その場に居ながら姿を隠した。

 黒田官兵衛は動きを止め、今の今まで俺の姿が見えていた場所を見つめた。

「……やれやれ、行っちまったか」

 零れ落ちる独り言。

「……近頃どうにもはしゃぎ過ぎだな。恋に恋する小娘でもあるまいし……年甲斐もない」

 そしてまた、あの笑みを浮かべた。

「だが……やっぱり、あいつがいるといないじゃ、酒の味も違うな……」

 黒田官兵衛は、確かに今恋心を抱いている。

 だからこそ松永久秀を前にして、「天下」より「風切羽」が欲しいと言い切り、捨て身で挑もうとした。

 だが、俺がここへ戻ってからというもの、黒田官兵衛が俺に求めるのは「朝必ず姿を見せること」と「晩酌の供をすること」のみだ。

 俺は多くの人の姿を見聞きし、恋心を抱いた人は、もっと多くのものを望むものだと認識していた。

 想う者に自分と同じかそれ以上の情を求めたり、それを言ノ葉や行為で表せと求めたり、形式や誓いを求めたり、身体に触れて交わり合うことを求めたり……そうするものが恋心ではないのだろうか。

 松永久秀は、黒田官兵衛の中にはもっと「欲」が隠されていると言った。

 黒田官兵衛がこんなにも何も求めないのは、己の欲を自覚していないからなのか、あるいは自覚しながら内に秘め、表に出すまいとしているからなのか。

 松永久秀はこうも言っていた。

 黒田官兵衛の中に隠された欲を引き出すのは、この俺だと。

 風魔一党手を尽くしながら未だ消息の掴めないあの男を誘きだし、今一度鍵を狙う機を得るには、あの男の望むように黒田官兵衛の欲を引き出すことが有効だろうか。

 同じように考えて一度唇を重ねてみたことがある。恋心を抱き合った者同士が行うありふれた行為の真似事だった。

 あの時、黒田官兵衛は俺の行動に虚を突かれて驚きながらも、御簾のような前髪の向こうから、微かに期待を込めた眼差しで俺を見つめていた。

 あの時僅かに覗いたもの……あれが黒田官兵衛の真なる欲の片鱗ということなのか。

 だとするならば、それをもっと引き出すには――あの時と同じようにすればいいということなのか。

 試す価値はある。

 俺は姿を隠したまま、今まさに床に入ろうとした官兵衛の傍らに跳び、音も無く降りた。

 そして、この姿を形なき風に模していた術を解いてみせた。

 四散した術の残骸が黒い羽の形を取り、夜具の上に舞い降りる。

「え?」


 突然舞い戻った俺に驚き、唖然としている黒田官兵衛の頬に、俺は静かに手を押し当てた。

「風切、羽……?」

 俺の呼び名を紡いだ唇をあの夜と同じように、塞ぐ。

「……っ」

 俺より上背もあり、肩幅の広い体躯が、壁に追い込まれ、猫に睨まれた野鼠のように震えた。

 唇を離し、様子を伺う。

 黒田官兵衛は俺の顔を凝視したまま、物も言わず固まっている。それ以上反応がない。

 ではこれならどうか、と、再び唇を重ねながら、その背に腕を回し上から下へと撫で下ろす。

「……ぁ」

 微かに悲鳴めいた声を漏らし、黒田官兵衛はまた身体を震えさせた。

 それを何度か繰り返してやり、また様子を伺う。

「……か、風切羽……?」

 俺を呼ぶ声が、まるで怯えているように聞こえるのは何故だ。

 俺に恋心を抱いているのではないのか?

 俺が欲しいと言ったことは偽りなのか?

 あるいはそれほどまでに頑なに暴かれたくないと言うのか?

 自らの内に隠している欲を。


 だが、お前には晒け出して貰わなくてはならない。

 “主”に与えられた任務を滞りなく完了させる為に、俺は、お前を、使うと決めた――黒田官兵衛。


 俺は寝間着から伸びた黒田官兵衛の素足に触れ、裾を乱しながら上へと辿った。

「な……お前さん……何を……」

 狼狽え、枷を振って拒むような素振りを見せるが、本気で抗いはしない。

 それは、黒田官兵衛が意識の底で、俺の施す行為に幾らかの期待をしているからなのだろうか。

 黒田官兵衛が西から逃れ、小田原に居着いたばかりの頃、先程と同様に晩酌の供をしていた折、夜伽を勤めろと言われ、応じたことがあった。

 あちらからすれば酔いに任せたほんの戯言だったのだろう。そんなことは承知の上で、俺は実行した。

 俺に対する不信感を完全に拭い切れない様子のこの男に、はっきりと知らしめるために。

 俺は如何なる時も契約を交わした“主”と、“主”が俺を司る権限を貸し与えた代行者とに従う。

 ゆえにお前が代行者である以上、俺がお前に背くことはありえないのだということ。

 そして、お前が小田原に仇なし、“主”の命令が変わることがあれば――俺はいつでもお前を討ち取れるのだということを。


「……っ……風切羽……」

「……」

 寝間着の中を探りながら、もう一方の手では帯を解き、前を開いて胸元を暴いた。

「なあ……これは、鍵のため……任務のため、か……?」

「……」

 寝間着の中から直接肩を掴み、布団の上に仰向けに押し倒す。

 そのまま前にしてみせたように房事に持ち込み、精を吐き出させようとした。


「――……風切羽」

 黒田官兵衛が乱れた呼吸の合間に言葉を紡ぎ出す。

「……小生は……お前さんのことが、好きだ……」

 それはもう聞いた。把握している――俺は気にも留めず仕事を継続する。

「……んっ……く……っ」

 施される行為に仰け反り、息を詰まらせながらも黒田官兵衛は尚も言葉を紡ぐ。

「……っ、だからこそ、こんな……形でお前さんが、応え、て……くれても……小生の、心は……満たされないんだよ……」

「……」

 ――手を止め、俺は黒田官兵衛の顔を見やった。

「……」

 涙。

 見え隠れするまなじりを伝い、滴り落ちた滴が布団の上に染みを作っていた。

 泣きながら、黒田官兵衛は笑みを浮かべてみせた。

「……まあ……お前さんのそういう部分も小生は……好き、なんだがな」

 黒田官兵衛は、俺を好きだと言う。

 俺にはそれが、理解出来ない。

 理解出来ないままでは、俺の知る如何なる術を持ってしても、黒田官兵衛を満たすことは――欲を引き出すことは出来ないのか。

「さてと」

 黒田官兵衛は、袖で涙を拭い去ると何事も無かったかのような口調で、

「寝間着を直すのを手伝ってくれよ」

 と、無造作に放置されていた帯をつまみ上げながら言った。


 そして俺はいつものように淡々と仕事にかかる。

 だが。

 薄ぼんやり浮かび上がったままの布団の染みが、視界の片隅にちらつく度、何故か気にかかった。







《終》




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