風は何も語らない【後編】 | ナノ


風は何も語らない【後編】




広げた手のひらの中には、一枚の黒い羽。

 夕餉の後、自室に入った小生は、昼間風切羽が残していったその羽をぼんやり見つめていた。


 ――これは、あんまりなんじゃないのか?

 あんまりなんじゃないのか、風切羽……。

 こんなちっぽけな羽一つ残して行っちまうなんて……。


 風切羽を連れていたあの男は、驚愕に打ち震える小生に、今夜の計画のあらましを勝手に話し、勝手に姿を消した。

 奴の提案通り、この凶行に加担するか、あるいは対抗するか……その選択を小生に委ねて。

 天下と引き換えに北条殿の首をあんな男に差し出す……だと……?

 そんなことを、小生は望まない。

 ……そういう後味の悪いことに巻き込まれるのはもううんざりなんだよ。

 ――だが、戦ったとして勝ち目はあるのか?
 風切羽を……北条の唯一の切り札を敵に奪われて、対抗出来る余地があるのか……?


 いや、そんなことより……戦えるのか? あいつと……。


 小生は、部屋の片隅に視線を向けた。
 小生が晩酌を楽しんでいる時、風切羽は、よくあそこに控えていた。
 何の相槌も、愛想笑いすらしてよこさない風切羽に、小生は飽きもせずに話し掛けた。

 そんな時間が、小生の安らぎの時だったんだぞ……お前さん、知らなかったのか?


 ちくしょう。なんだ、この途方もない喪失感は……。

 地位を奪われて穴蔵に放り込まれた時も、せっかくまとめ上げた九州を奪われた時も、ここまで辛いとは思わなかった。


 あの男の目論見を潰せたとしても、もう風切羽は帰って来ないかもしれない……下手をすればこの手で……殺める結末になるかもしれない。


 駄目だ。
 出来るわけがない。

 何故なら。

 何故なら小生は……。


 手していた漆黒の羽に、小生は静かに唇を押し当てた。


 ああ――こんな拍子に気付くなんて、小生も相変わらず運が悪いな……。

 それがあまりにも哀しくて、情けないことに涙まで出かかったその時、


「――官兵衛殿、おるかのう」


 廊下から聞こえてきた声に、小生はぎくりとする。

「ほ……北条殿?」

「入ってもいいぢゃろうか?」

「あ……ああ。入ってくれ」

 珍しい。いつもならもう床に入る支度をする刻限の筈だが……。

 北条殿は部屋に入って来るなり、小生の前にちょんと座って、

「官兵衛殿、夕餉の折、あまり食が進まんようぢゃったが、どこぞ具合でも悪いんではないぢゃろうな?」

 と、いかにも心配そうな口調で尋ねてきた。

「い、いや……そんなことはないが……わ、わざわざそれを聞くために来たのか?」

「そうぢゃとも、大切な官兵衛殿に何かあっては困るからのう」

「そ……そうか……」

「北条家復興の要は、官兵衛殿と風魔ぢゃ。どちらが欠けてもままならんぢゃろうて」

「……」

 実は何もかも知っているんじゃないかと思うほど、的確に胸の真ん中をえぐるような言葉を暢気に紡いでくる北条殿に、いよいよ泣きたい気持ちにさせられながらも、小生はひとつ嘆息して口を開いた。

「……北条殿。ひとつ変なことを聞いてもいいか?」

「フム、なんぢゃ?」

 興味津々に身を乗り出す老人に、小生は問う。

「小生に裏切られるかもしれない、と思ったことはあるか?」

「うむ、もちろんあるぞい!」

「……」

「官兵衛殿?? どうしたんぢゃ?」

「……いや、そんないい笑顔で即答されるとは思ってなかったんでな……」

 当たり前だとばかりに言い切られては面食らいもする。

 だがこんな物騒な話題にも関わらず、北条殿は先祖の昔話をする時と同じように朗らかに笑う。

「実のところ、官兵衛殿ほどの器が、いつまでもわしの参謀なぞ勤めていてくれるとは思っとらんのぢゃよ……官兵衛殿の夢は天下取りぢゃしな。いつ反旗を翻されても慌てない心の準備はしとるぞい」

「北条殿……」

「それでもいいんぢゃ……わしは、官兵衛殿なら北条の家臣や民を不幸にするようなことはないと確信しておるからのう」

 あまりにも想定外の言葉に、何と答えていいかわからず黙ってしまった小生を見て何を感じたのか、北条殿は膝立ちになって少し小生に近づき、皺だらけの小さい手を小生の肩に置いた。

「欲しい物を手に入れる為に『手段を選ばない』……というのは、簡単なことぢゃ。馬鹿でも獣でも出来る。官兵衛殿の実にすごいところは、欲しい物を手に入れる為に『手段を選べる』ところぢゃとわしは思っとる」

「……手段を、選べる……?」

 北条殿は、うんうん、と首を縦に振る。

「その気になれば殲滅出来るだけの兵力を持ちながら、無血開城を選んでくれた官兵衛殿のことを、わしは心から尊敬しとるぞい」

 小生はしばし呆然と北条殿の顔を見つめ、それから……小さく笑った。

「……それが、軍師の仕事だからな」



   *  *  *



 北条殿と話した後、小生はまた一人になって考えた。

 裏切り、なんてありふれたもんだとあの男は言った。

 あの男の言葉を肯定するのは気に入らないが、実際、そうなのかもしれない――確かにあの男の言うように、小生はいつの間にか平和ボケしていたような気がする。

 あんなにのほほんとして見える北条殿ですら、ちゃんと考えているのかと思うと、自分がいかに甘い思考に陥っていたのかを思い知る。

 ……結局のところ、北条殿に信頼されているのか、されていないのかよくわかないが、とりあえず目は覚めた。

 なんだか今、本来の自分を取り戻せたような気がするぞ。

 小生の取り柄はなんだった? ――元気と野望だ、そうだろう?


 小生は不思議な高揚感を覚えながら、部屋を出た。
 あの男を迎えるためだ。

 あの男は今夜、北から小田原城を攻めると言っていた。

 協力する気になったなら、それと悟られないよう北の警護を手薄にしておいてほしい――と。


 北の城壁の外の林の中で待ち受けていた小生の前に、あの男は約束通り現れた――傍らに風切羽を伴って。
 まだ自軍を率いてはいない様子だ。とりあえずは首尾を確認しに来たというところだろう。

「見たところ、卿一人のようだが……それが卿の答えかね?」

 不敵に笑む男の顔を真っ向から見据えて、小生も笑って見せた。

「ああ、その通りだ」

 男はすっと目を細め、まるで珍しい骨董品でも鑑賞するかのような目付きで小生を見つめてくる。

「ほんの数刻見なかった間に、良い顔をするようになったものだ……今の卿からは剥き出しの欲望を感じる。枷から放たれた、ごくごく純粋な欲を」

「ああ、そうだろうよ……今小生が考えていることは、どうやって一番欲しいものを手にいれるか……ということだけなんでな」

 小生はニヤリと笑んだまま、手枷の鎖を短く取った。


「――返して貰うぞ、風切羽を」


 今の小生にとって最も失えないものを、小生はこの手で取り戻してみせる。

 そして一緒にこの男をぶちのめす。

 それが小生の出した答えだ。
 小田原で穏やかに暮らすか、いずれ天下を独り占めするか、そんなことは後だ、後。

 どんな道を選ぼうと、そこにお前さんがいなけりゃ意味がないだろう? ――風切羽。

 ひとかけらも声を出すことなく、兜の奥の眼差しで静かに小生を見つめる伝説の忍に、小生はいつものように語り掛ける。

「そんな胡散臭い男はとっとと裏切って、帰って来いよ、風切羽。雇用条件に不満があるなら、小生から北条殿に掛け合ってやってもいいぞ? お前さんがどんな理由でそっちに行ったんだとしても、小生は構いはしない……だから、な?」

 何も応えない忍に、それでも何か伝わっていることを信じて小生は言葉を投げ掛ける。

 そんな様子を眺めて、あの男はいよいよ愉悦に口許を歪める。

「成る程、卿が欲望のまま所望するは天下ではなくこの忍だったか……卿は実に興味深い。ますます手に入れたくなった」

「……なんだって?」

 奴の言葉に不穏な物を感じ、小生は鎖を握る手に力を込めた。

 男は事も無げに告げる。

「私が欲している物は北条家秘蔵の宝物と言ったが、あれは卿のことだと言ったら驚くかね?」

「……な……」

 小生が北条の宝……なのはその通りだが。

 小生を手に入れたいとは、冗談にしても全く笑えないし、本気なら鳥肌が立つ。

「だが卿の欲望はまだまだそんなものではないだろう……もっと引きずり出して見てみたいものだ」

 足の先から頭のてっぺんまで、値踏みするようにしげしげと見つめられて、居心地の悪さに思わず後ずさった。

 男は一瞬何事か思案するような顔を見せたが、ほどなくして傍らの風切羽に視線を投じた。

「ではこれは卿の元に返すとしようか……未だ暴かれざる卿の欲望を、この忍に引き出して貰いたまえ。溺れる程に深く濃密な欲望を……」

 男はそう言って自らの懐に手を入れた。

「……それまで、これはもうしばらく私が預かるとしよう」

 男が懐からチラリと覗かせたもの――それは……。

「しょ……小生の鍵!?」

 ずっと探し求めていた手枷の鍵――まさかこんなところでお目にかかるとは!!

 反射的に飛び付こうと駆け出した瞬間、先程まで微動だにしなかった風切羽が突如素早い動きで小太刀を抜き、小生より早く男に切りかかった。


 しかしそれよりも更に早く、男のいる場所からばっと閃光と煙が上がり、煙が消えた時には男の姿は無かった――どうやら逃げられたらしい。

 風切羽は小太刀を構えたまましばらく辺りの様子を伺っていたが、諦めたのか、鞘に収めた。

 小生も鎖を握っていた手を離して、少しばかり躊躇いがちに、

「……風切羽」

 と呼び掛けた。

 風切羽は、一飛びで小生のすぐ目の前に舞い降りて来た。宵闇色の羽を散らしながら。

「……お前さん、鍵を手に入れるためにあの男に近づいたのか?」

 風切羽は何も答えない。胸の前で腕を組んだまま沈黙している。

 だが恐らく、そういうことなのだろう。
 あの男が鍵を持っているという情報を得て、隙を見て奪うために近づいた。
 そして、男のほうもそれを察しながら風切羽を利用した……小生を精神的に追い詰めるために。

 まあ、そんなところだろう。

「……ハラハラさせやがって」

 一気に肩から力が抜けた。

 結局鍵の奪取には失敗したが、あの様子なら奴はまた必ず現れるだろう。

 小生を手に入れるってのがどういう意味合いなんだかわからんが……どういう意味合いでも小生をくれてやるつもりはない。


 何故なら小生は……。


「あのな、風切羽……」

 小生は軽く目を伏せ、ゆっくり口を開いた。

「……これを聞いてお前さんがどう感じるのか、どうも感じないのか……それはわからんが、聞いてくれ」

 小生の中にいつからか生じていた強い欲……言い方を変えれば、思慕。

「小生はな……お前さんが好きだ」

 言ってしまってから、気恥ずかしさに身体がカッと熱くなったが、必死に耐えて続ける。

「――だからもう、勝手に小生の側から居なくなるなよ……頼む」

「……」

 風切羽は兜ごしに小生を見つめていたかと思うと、組んでいた腕を解き、ふとその手で小生の頬に触れて来た。

 何事だ?――と思っているうちに口付けされていた。

「……ん……」

 わずかに触れるだけの口付けを済ませた後、目の前の風切羽の唇に微かに笑みが浮かんだ気がしたが……気のせいだったんだろうか。

 これは小生の想いに応えてくれたということなのか。

 あるいは鍵探しの任務遂行のため、あの男をおびき出す手段として、小生の欲望を引き出そうと試みているだけなのか。

 確かめる間も与えず、風切羽は黒羽を散らしてかき消えた。


 残された小生は、ゆっくり舞い降りてきた羽の一枚を両手で受け止め、そっと閉じ込めるように包んだ。






《終》



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