風は何も語らない【前編】 | ナノ


風は何も語らない【前編】




「よ、暗の旦那」

「ああ、お前さんか」

 門の前で、武田の忍に出くわした。

 朝から若大将が北条殿に会いに来ていたから、供について来ていたんだろう。
 城壁に寄りかかって、ひどくうんざりした顔をして立っていた。

「ずっと待ちぼうけとはお気の毒様だな」

「まったくだね……年寄りの茶飲み話は長くて嫌んなるよ。こっちは、こんな物騒なとこに長居なんてしたくないのにさ」

「物騒なところ……?」

 そう言われても一瞬意味がわからず、小生はうろんげによく喋る忍を見やった。

「あいつだよあいつ、あんたが妙な名前で呼んでる黒い羽のアレ」

「ん?……ああ、風切羽のことか」

 思わず小生は小さく笑った。

「確かに敵に回せば相当物騒だろうがな……お前さんから手を出さなきゃ何も噛みつきゃしないさ」

 小生の余裕が気に障ったのか、忍はいよいよ不機嫌に目をすがめた。

「あんたらは飼い慣らしてるつもりだろうけど……油断しないほうがいいよ。何がきっかけで噛みつくかなんてわかったもんじゃない……あれには『心』ってもんがないんだからさ」

 その物言いに、今度は小生が機嫌を悪くする。まあ、当然だろ。

「……風切羽に『心』があるかないかなんて、お前さんにわかるのか? ――少なくとも小生や北条殿のほうが、お前さんよりあいつのことをよくわかってると思うんだがね」

「……あっそ」

 忍はひとつ溜め息をつくと、妙に冷ややかな笑みを浮かべて、

「だったらいいんじゃないの、それで」

 と突き放したように言った。

 なんだこいつ。無駄におしゃべりな上に感じの悪い忍だな……うちの風切羽のほうがずっといい。

 そんなことを思いながら、小生は武田の忍と別れた。


 あんな奴に構ってられるか。
 小生の時間は貴重だからな。


 何しろ今やこの小生、天下人の参謀だ。


 打倒豊臣の志の下、小生と北条殿はとにかくがむしゃらに頑張った。

 そして、勝った。

 正直しばらくの間、朝起きたら夢だった……とかいうオチが待ってるんじゃないかと不安が拭えなかったりもしたんだが、どうやら本当に勝っちまったらしい。

 三成、刑部、毛利……あの三人をぎゃふんと言わせ、小生たちを虐げた報いを与えることに見事成功したわけだ。

 で。

 まあ言ってみればそのついでだが、日ノ本は一応平和になった。天下泰平というやつだな。

 特にこの小田原は平和そのものだ。

 城の再建も完了し、城下もすっかり賑わいを取り戻した。

 最近の小生の楽しみは、そんな平和な小田原を散策すること。
 今日みたいによく晴れて、いい風が吹く日は特に最高の散歩日和だ。

 ……まあ、小生の枷の鍵探しは目下継続中で、相変わらず邪魔なものを引きずる羽目にはなってるが、それも時間の問題だろうと考えている。

 何しろ風切羽……あの伝説の忍が自ら鍵探しに奔走してくれているからな。見つからないわけがない。

 だが、そのおかげでしばらくあいつの姿を見ていない。

 何も心配はしてないが、少しばかり寂しい気もするな……まあ、近くにいたとしても、何も言葉を交わしたりは出来ないんだが。

 北条に匿われてから、風切羽とは幾つもの戦場をともにくぐり抜けて来た……今更言葉を必要としないくらい、小生はあいつを信用してるし、得難い存在だとも思ってる。

 側にいなければなんとなく、物足りない気持ちにもなるさ。


 頻繁に散策するようになった理由のひとつは、実はそれかもしれんが、街を歩くのが好きなのは事実だ。

 それに小生は、北条を天下に導いた名軍師として小田原じゃすっかり人気者になった。こうやって街を歩いていればあっちこっちからお声が掛かる。


「あ、官兵衛さん!こんにちは。そっちは段差だから気を付けて下さいね」

「おや軍師様だ。いい天気だけど、一応洗濯物取り込んでおくかねえ……」

「あ、カンベエさんだっ! おかあちゃん、おれもカンベエさんみたいに、まるいのずるずるしたらつよくなれるかな!?」

「坊やにはまだ無理よ、好き嫌いしないでちゃんと食べて、官兵衛さんみたいにムキムキな肉体派にならないとねぇ」


 ……まあ、内容的に聞いてて色々と複雑な気持ちにはなるが、慕われてることは確かだから、気にしないことにしている。


 武田の忍とのやりとりでちょっとばかりささくれた気持ちもすっかり消えてなくなった頃、小生は人通りの少ない街の外れまで来ていた。

 小田原はいいところだ――あるいはここが小生の終の地になるのかもしれんが、それも悪くないな。

 そう胸の内で呟きながら、城に戻る道を歩み始めようとした時、


「――卿は満足だとでも言うつもりかね」


 ふと背中に掛けられた声に、周りに誰もいないと思っていた小生は驚き、振り返った。

「……お前さんは?」

 どう見てもただの領民には見えない……背筋が凍るほど剣呑な空気をまとった男がそこに立っていた。

「――なに、気にしないでくれたまえ。私はほんの通りすがり……これから卿の歩む覇道の通りすがりだ」

「覇道……? 何の話だ?」

 小生は見るからに胡散臭い「自称・通りすがり」を軽く睨みながら問う。

「卿はこの世の何よりも天下を欲していると聞いていたのだがね……それは私の思い違いだったかな?」

「……そうだ。そして望む通りに、小生の軍は天下を取った。それがどうした?」

 ただ言葉を交わしているだけだってのに、喉元に刀を突きつけられているような、妙な緊張感を覚え、嫌な汗が滲む。

「しかし、天下を手にしたのは結局、北条氏政……卿はただの参謀に過ぎない――それで本当に卿の欲は満たされたと言うのかね?」


 どうやら話は最初の問いに戻ったようだ。

 小生は男の異様な空気に呑まれないように気持ち声を張って答えた。

「欲しいか欲しくないかと言われれば、天下は欲しいさ。だが、北条殿の寝首をかいてまで欲しいとは思わんね」

 確かにかつての小生なら、誰かの力を利用して天下を取らせ、すぐさまそれを横からさらう――なんてこともやったかもしれんな。

 だが小生は利用するために北条殿に取り入ったわけじゃない……同志と呼んだ気持ちに偽りはない。

 今更裏切りを働いてまで天下に固執しようとは思わない。本当だ。

 男は小生の答えを受け、ふっと冷笑する。先刻の武田の忍のそれが可愛く見えるほど冷たい笑い方だった。


「では、卿が自分の手を汚さずして天下を手に出来るとしたらどうかね?」

「……なんだと?」


 それは、聞き返してはいけない言葉だった。


「実は今宵、私の軍が小田原を攻める手筈になっているのだよ。卿には是非それを見逃して貰いたい」

「な……」

 思わず絶句した。
 夜討ちを掛けることを、前もって堂々と宣言するなどどうかしている。

 そんな小生の反応には構わず、男はつらつらと淀みなく言葉を紡いでいく。

「私が欲するのは、北条氏秘蔵の貴重な宝物だけなのでね。
天下などというものは全く不要ゆえ、良ければ卿に進呈しようかと思っているのだよ」

「……小生に……天下を……?」

 毒に当てられたような息苦しさを感じる。
 この男の言葉をこれ以上聞いてはいけないと、本能の部分が訴えていた。

 だがそれでも男は、恐ろしい打ち明け話を尚も続ける。

「私が小田原を攻めて北条を討ち取ろう。私が宝物を手にして去った後に侵略軍を卿が叩くといい。無論、北条の仇討ちという大義名分の下にだよ。そうすれば義に背くことなく、誰に恨まれることもなく、天下は卿に転がり込む」

「っ……それのどこが義に背いてないってんだ……!どう考えたって北条殿に対する裏切りだろうが!!」

 思わず、怒りに声が震えた。

「お前さんの手引きなんざ願い下げだ。本気でやる気なら、ここで小生が相手になってやる」

 そう告げて、いつでも一撃鉄球を繰り出せるように構えを取る小生を、男はどこか哀れむような目で見つめる。

「卿は強い欲望を抱きながら、欲望を満たすために他人を傷つけることを嫌い、他人を裏切ることを厭う――それは、そんな手枷などよりもっと厄介な枷だとは思わないかね? その枷を外すことを躊躇う必要はないのだよ。小田原での安寧な暮らしに慣れた卿は、忘れてしまいたいのかもしれないが……」


「もうたくさんだ、黙れ……!!」


 小生は地を蹴って弾みをつけ、鎖を素早く引くと、男に向かって、思いきり鉄球を放った。

 鉄球は勢いよく男に向かって飛んでいくが、男は微動だにせず佇んでいる。


 ――どうして避けようとしないんだ??


 そう思った瞬間、小生の身体に強い衝撃がきた。


「う……あっ……!!」

 低い悲鳴を漏らしながら小生は後ろに倒れ込んだ。

 男に向かっていた筈の鉄球も、目的に辿り着く前に弾き返されるようにして吹っ飛び、小生の横に転がった。

「つっ……」

 強かに背中を打ち、痛みに顔を歪めながら上体だけ起き上がった小生は、何が起きたのか確かめようと男を見て、そして息を呑んだ。

 あの男の目の前に、まるで立ちはだかるようにして黒い影が出現していた。

 人の形をした影が。

 はらり、と黒い羽が一枚、風に舞いながら呆然とする小生の目の前に落ちた。


「風切羽……?」


 見慣れた兜で顔半分を覆った無口な忍が、胸の前で腕を組みながら、小生を静かに見下ろしていた。

 なぜ風切羽があの男と一緒にいるんだ?

 今さっきの攻撃は風切羽がやったのか?

 どうして、あいつがそんな真似をする?


――あんたらは飼い慣らしてるつもりだろうけど……油断しないほうがいいよ。


 武田の忍の言葉が、頭の中に響く。


――何がきっかけで噛みつくかなんてわかったもんじゃない……あれには『心』ってもんがないんだからさ。


 違う。そんなわけはないんだ。

 風切羽に『心』がないなんてことがあるわけない。

「……風切羽……どうした……? 何か理由が、あるんだろ……?」

 どうにか無理矢理笑みを作って尋ねてみるが、何も答えない。

 常通りの沈黙を貫いている。

 いつもは心地いいその沈黙が、今はただただ不安を煽るばかりだ。

「……卿は、忘れてしまいたいのかもしれないが……」

 風切羽の後ろから悠然と姿を表した男は、小生を見下ろし、どこか愉しそうに笑みを浮かべた。


「裏切り、とは存外ありふれたものなのだよ」







《続》



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