大坂城の特別な日 ああ、全く惨めったらしいったらありゃしないね――官兵衛は膝を抱えて嘆息した。 己を蔑ろにする連中に頭に来て飛び出してみたはいいが、結局行く当てもなく早々に大坂城に戻ってくるはめになるとは。 童の家出でももう少しは粘るに違いない。 自分への情けなさと、まだ収まらない怒りとで、流石にすぐに知った人間と顔を合わせる気にもならず、こそこそと逃げ込んだのは天君の厩舎だった。 本来の主が迷惑そうに鼻を鳴らすその横で、大柄な男が叱られた子どものようにしゃがみこんで膝を抱えていた。 半日以上そうしているのだ、いい加減腹も空いたし、尻が冷たくて寒くて仕方がない。 いつまでもここにいるわけにいかないことはわかっているが、ほとんど意味をなさない意地のようなものが官兵衛をここに留まらせていた。 なんとなく、ずっと昔にもこういうことがあったような気がして記憶の糸を手繰ってみれば、実母がこの世を去った日のことだと思い到った。 いじめられて泣いて帰ってきても、転んで膝を擦りむいて帰ってきても、何も聞かず「お帰りなさい」と笑って迎えてくれた人――その喪失感は果てしなく、いきなり目の前が真っ暗になったような気がしたものだった。 誰の言葉も耳に入らず、ただひたすら蔵の奥に引き込もって泣いていた。 「……幼い頃と何も変わっていない小生を見たら、母上はなんと言うか……いや、何も言わんだろうな……」 母は何も言わない人だった。 何も言わなくても我が子はけしてへこたれず、自分で何度でも立ち上がり、歩いて行けると心から信じていたからだ――。 「ああ、そうだ……そろそろ、立ち上がらんとな……」 長時間同じ姿勢だったせいですっかり固まってしまった体の筋を伸ばし、埃を払いながら立ち上がると、部屋の主に「長居してすまなかったな」と声をかけ、厩舎の入り口に向かって歩を進めた。 夜気を帯び、痛みを覚えるほどに冷たくなった戸に手をかけながら、ふと思い出す。 あの日もさんざん泣いた後、自分で蔵の戸を開け放って外に出たのだ。 戸を開けるとそこには、父や親族、黒田家の家臣たちが集まっていて、亡き母に代わって“あの言葉”を言ってくれた。 官兵衛は懐かしい記憶に不覚にも目頭が熱くなるのを感じながら、厩舎の扉を、押した――。 「……あ」 瞬間、思わず間抜けな声が漏れた。 夜も更け、辺りはすっかり宵闇に沈み、内も外も変わらないような暗がりの中で、官兵衛の両の目は確かにその六つの人影をとらえていた。 「お、お前さんたち……なぜ……」 驚き上ずった声で「なぜこんなところに集まっているのか?」と聞こうとしたが、それを遮るように影の一つが――官兵衛にとって唯一人の片割れである男が口を開いた。 「……お帰り」 記憶の中の母と同じように、父と同じように、微笑しながらただ一言そう告げたのだった。 「……半、兵衛……」 その後に続くように、影たちは次々と口を開いた。 「…………!!!」 「ワシも随分とあちこち探し回ったが、まさかこんなところにいるとは思いもしなかったぞ」 「……戦国最強、権現……」 「地に伏して恐悦しろ官兵衛……貴様ごときの為に秀吉様、半兵衛様御自ら動かれていたのだぞ」 「やれ、ぬしがこれほど暗がりに閉じ籠るのが好きとは知らなんだ……よく覚えておかねばなァ……」 「……三成、刑部……」 秀吉や半兵衛の命あってのこととはいえ、日頃およそ己になど感心の無さそうな若い連中までが、日がな己を探し回っていたのかと思うと、胸に迫るものがあった。 そして。 「――官兵衛よ」 奥に悠然と控えていた覇王その人がついに口を開いた。 「今日一日、我に断りもなく務めを放棄した理由……問い質したいところではあるが、その時間は無い」 「時間?」 こんな夜更けに何か予定があるのだろうかと首を傾げる官兵衛に、片割れが呆れ顔で嘆息した。 「君は本当にうっかりが過ぎる……忘れたのかい? 今日は君の誕生日だろう」 「えっ小生の……?」 今の今まで本気で気づいていなかった。 このところずっと急に周りがよそよそしくなったことへの疎外感に思い悩んでいたため、日付など意識していなかったのだ。 「せっかく総出で宴席を整えていたのに、主賓が雲隠れとはね……本当に君って人は」 「宴席……?小生の、ための……?」 「そうだよ、わざわざ君の故郷の播磨から食材を調達してね。君を驚かせる為に極秘で計画を進めていたのだけど、こんなことなら事前に伝えておくべきだったかな……」 半兵衛がつむぐ言葉に、どんどん疑惑や不安が氷解していくのを感じた。 何もかも、疑心暗鬼に囚われた己の誤解に過ぎなかったのだと。 「そう……だったのか……」 「うん――それに秀吉も、今日は君の為に特別な贈り物を用意していたんだよ」 「えっ?」 更に明かされる真実に驚愕し、思わずばっと秀吉のほうへ向き直ると、常通り真面目腐った顔をしながら、うむ、と頷いてみせた。そして。 「官兵衛よ、拳を掲げてみせよ」 「拳を? よくお前さんがやるみたいにか?」 「そうだ」 「よくわからんが……こう、か?」 促されるがままに右手を固め、夜空に向かって思いきり突き出した。 その瞬間、真っ暗だった周囲を無数の灯が照らし出し、その目映さに目をすがめた直後に信じられない光景が広がっていた。 まるで官兵衛を取り囲むようにして、無数の旗が、巴藤の紋が、灯りの数だけ掲げられていたのだった。 官兵衛の周りだけではない、大阪城の敷地内すべて、城門から天守閣に到るまで、無数の旗印と灯が埋め尽くしていた。 「こいつは、一体……」 右腕を掲げっぱなしで呆然と立ち尽くす官兵衛の前に、覇王はゆっくりと歩み寄り、官兵衛の左肩に力強く手を置いた。 「官兵衛。今日一日は、お前がこの城の主となるがよい」 「……しょ、小生が一日大坂城主……?」 一日だけとはいえ城主ともなれば,あれが出来る、これも出来る……と夢が膨らみ始めたところで、片割れがしれっと口を挟む。 「まあ一日と言っても、君の誕生日は、あと四半刻もないけどね」 「え? あ……」 その通りだった。もうすぐ今日という日は終わりを告げる。 一日馬鹿みたいに引き籠ったりしていなければ、丸一日城主気分を味わえたというのに。 ある意味で今日一番の衝撃に打ちのめされている官兵衛の傍らに近づき、半兵衛はその耳元へ囁きかけてた。 「……時間を無駄にしたようだね、官・兵・衛・様」 「な……な……なぜじゃあああああッ!!?」 ――お約束の絶叫が轟く中、大坂城の特別な夜は足早に更けていくのであった。 《黒田官兵衛殿、今年もお誕生日おめでとうございます★》 ★戻る★ ★Topへ戻る★ |