この手にとまれ | ナノ


この手にとまれ




「なぁぜじゃあああああぁぁ……!!」

 今日も今日とて小田原城内には、悲痛な叫びが木霊していた。

 屋根の上に直立して立ち、腕を組みながら空を眺めていた風魔は、常通りの無言のまま、聞こえてきた声のほうに静かに視線を向けた。

 今や天下の中枢となった小田原を、陰となり日向となり支え続ける稀代の名宰相が、わあわあとわめき散らし、黒金の塊を引きずりながら庭を必死に走り回っているのが目に入った。

 一体何をしているのかと更に観察すれば、どうやら追い掛けられて逃げているようだった。

 必死に逃げ惑う男の背を狙っているのは野鳥だ。

 青みがかった灰色と褐色の翼、髭のような白い頬の毛――特徴と大きさから判断すれば四十雀のようだ。

 そういえば幾日か前に屋根裏の一角に巣を拵えていたのを把握していた。

 この種は雑食で、他の鳥を襲って餌を奪うこともあり、多少攻撃的な習性があるのは確かだが、それにしても不自然に荒ぶっている。

 目の前の大男を本気で捕食するつもりなのかと思うほど、四十雀は執拗に追い回し背中や頭を嘴でつついている。

「痛ッ……痛い……やめてくれッ……!!」

 風魔は静かに音もなく屋根を蹴り、庭に向かって軽く翔ぶと、黒い羽を散らしながら、男――黒田官兵衛のすぐ側に舞い降りた。


 官兵衛は風魔を見つけるが否や、

「あ……風切羽〜……!!」

 ほとんど半べそをかきながら、その背後に隠れるように駆け寄って来た。隠れきるような体ではないのだが。

「た……助けてくれ……!!」

 懇願する官兵衛を一瞥すると、更なる追撃を与えようと矢のように飛んでくる四十雀に、風魔はそっと手を差し出した。

 途端に四十雀は進路を変え、速度を緩めながら風魔の手の甲に大人しく舞い降り、チピチピと愛らしく鳴きながら手首を伝って腕の上を歩き出した。

「あれ……?」

 風魔の背中ごしに様子を見ていた官兵衛は、先程までの攻撃的な雰囲気を一瞬にして失い、無邪気に鳴く四十雀の姿に唖然呆然といった様子だ。

「なんだ、お前さんの友達だったのか?」

「……」

 別に四十雀と同胞になった覚えはなかったが、この程度のことは忍なら大抵に誰でも出来ることだ。
 屋根を伝って忍び込もうとして、鳥や獣に騒がれて見つかるような間抜けではどうにもなるまい。

 四十雀は風魔の腕を伝って肩に乗り、冑から伸びる朱色の髪を軽く嘴で啄み始めた。弱い力なので苦痛は何もない。

「それ、もしかして羽繕いされてるのか? そんなに良い仲なのか……?」

 官兵衛は相変わらずよくわからないことを言いながら、少し不愉快そうに四十雀を睨んだ。そして、

「……懇ろにしやがって……昼間から表で、しかも人前で……なんて慎みのない鳥だ……」

 どんどん意味がわからないことを言い出す。

 このままでは同胞どころか、「つがい」だと勘違いしかねない。

 風魔は四十雀が乗っている肩とは別のほうの腕を軽く挙げ、空のほうへ向けると、合図を送るように指を動かした。

 途端、雲ひとつない青空を滑るようにして、四方から無数の影が飛来し、それがそのまままっすぐに降りてきた。

「な、な、なんだ……うわっ!?」

 官兵衛は驚いて後退り、小石に蹴躓いて尻餅をついた。

 城の付近を飛んでいた様々な種の鳥が一斉に庭に集まり、軒や庭石や木、そして風魔の足元に羽を休め、めいめいの声で鳴いていた。

 風魔は、これで官兵衛にも、この四十雀だけが特別なわけではないことが理解出来るだろうと考えた。

 その読みは的中したようだったが、官兵衛は尻餅をついた格好のまま、今度は項垂れてしまい、深い溜め息をついた。

 いつものことだが、実に喜怒哀楽が激しい。

「……お前さんは鳥に好かれていいな。小生は昔から鳥や獣とは相性が悪い……よく意味もなく追われたり、何もしてないのに噛まれたり、大事なものを盗られて持ってかれたりするんだ……」

 確かについ先刻も不自然なほど執拗に追い掛けられていた。

 風魔はしばし、がっくりと頭を垂れたままいじけてぶつぶつ独りごちる官兵衛を眺めていたが、ややあってから、また合図を出して庭に集まっていた鳥たちを帰らせた。

 無数の羽音に驚いた官兵衛はビクッと肩を震わせて顔を上げ、来た時とは反対に空へと一斉に舞い上がって群れが四散するのをぼんやり見送りながら、ようやく腰を上げた。

 風魔はそんな官兵衛に一歩歩み寄ると、一羽だけここに残り、相変わらず肩に乗ったままだった四十雀を指に止まらせて、そのまま官兵衛にすっと差し出した。

「うわっ」

 官兵衛は顔をひきつらせてまた後退り、折角立ったのにまた転びそうになりながら、踏ん張ってギリギリで回避した。

 風魔はそこに半歩にじり寄り、更に腕を伸ばして四十雀を近づけた。

「や、やめてくれ……こっちにやらないでくれ……!」

 頭を左右に振り、上ずった声で拒絶しながら官兵衛は更に後退り、風魔は更に近づく。

「よ、よせ……」

 後退。

「……」

 接近。

「頼むから、な……?」

 後退。

「……」

 接近。

「……風切羽……っ」

 後退……しようとしたが、官兵衛の後ろは石垣だった。もうこれ以上後ろはない。

 石壁を背中で擦ってうろたえる官兵衛に悠々と接近すると、風魔はその頭の横にとんと手をついて完全に追い詰めた。

 ついに観念したのか、青ざめた顔で、前髪の奥の両目をきつく閉じて震えている官兵衛を風魔は静かに見つめた。

 人々から忌まれ、畏怖される「伝説の忍」に屈託なく笑いかける男が、こんなに小さな野鳥に怯えているのかと考えると奇妙なものだった。

 鳥が疎ましいなら疎ましいで、この男が「城に近づく鳥を全て抹殺しろ」と命じるなら、すぐにでも実行してやれるのだが、特にそういう意志は今のところないようだ。

 ――ならば慣らすしかない。

 官兵衛に静かにそっと四十雀を近づけさせると、羽毛の一番柔らかい部分を擦り寄せるようにして頬に当てた。

「っ……」

 ぱちりと両目を開け、ありえない近さにある灰色の羽に驚愕しながらも、相変わらず身動きがとれない官兵衛はもはやされるがままだった。

 少し位置をずらすと、先程風魔にそうしていたように、四十雀は官兵衛の前髪を啄み始めた。

「……ん?」

 ようやく肩から少し力を抜き、官兵衛は不思議そうな面持ちで、文字通り「目と鼻の先」で起きている光景を見つめていた。

「羽繕い……小生にもしてくれる……のか……?」

 野生の生き物は警戒心が強い。

 怯えて不自然な行動を取ればたちまち警戒され、逃げ出せば追われる、追われたことが恐怖心を増幅させ、更に怯えるという不毛な循環を立ち切るには、恐怖心を和らげるのが一番効果的だ。

 風魔は壁についていた手を放し、官兵衛の枷から伸びる鎖の根本のところを掴んで引き、手を挙げさせた。

 そして。

「あ……」

 官兵衛の掌に、ついに直接四十雀を宿らせた。

 反射的に少し丸めて器型になった手の中で、四十雀がきょとんとした顔で官兵衛を見上げていた。

 官兵衛も全く同じ顔つきで四十雀を見つめていた。

 そのまま屏風に描かれた絵のようにしばらくは微動だにしなかった官兵衛が、やがて、ゆっくりと息を吐き出した。

 安堵の溜め息を。

 そうしてゆっくり口の端を持ち上げて笑みを浮かべた。

「……可愛かったんだな、鳥ってのは」



   *  *  *



「お、お前さんか」

 開け放たれていた襖から飛び込んできた見慣れた色の翼に、官兵衛は嬉しそうに笑い、書をしたためる手を止めると、筆を置いた。

 同種の鳥を見た目で区別など出来ないので、もしかすると最初のそれとは違うのかもしれないが、畳の上に降りて人懐っこそうに見上げてくる目が堪らなく愛らしいのは同じだ。

「ほーら、こいこい」

 官兵衛はこのところ、いつ四十雀が遊びに来てもいいように餌用の粟を用意していた。

 畳に少し蒔いてこちらに呼び寄せ、近づいてくると粟を乗せた手のひらを直接差し出した。

 躊躇いなく手に乗り、粟を食べる小さな友の姿に満足感を覚え、我知らずにやついてしまう。

 まだカラスや猛禽、鷺のような大きな鳥は苦手だったが、もう小鳥なら大丈夫だ。

 大丈夫というか――むしろ最近可愛くて仕方がない。

 こんなに可愛いともっと早く気づけばよかったと悔やまれるくらいだった。

「――これもあいつのおかげか」

 そうして頭の中に無口な忍の顔を思い描くと、それだけで胸が高鳴り、体の熱が上がる気がする。

「――あの鳥は、粟をくれてやっても小生の手には乗ってくれそうもないがな……ん?」

 ふと何の前触れもなく、四十雀が粟を拾うのをやめ、官兵衛の手から降りて、そのまま元来た襖から飛んでいってしまう。

「あ……なんだ、もっとゆっくりしていきゃいいのに」

 そう呟いて余った粟を餌袋に戻そうと振り返った官兵衛は、「わ」と短く声を上げた。

 いつからそこにいたというのか、風魔が静かに立っていた。

 気配を感じさせないのは職業柄どうしようもないし、声くらい掛けてくれよ、と頼んでも無理そうなので頼まないが、毎度毎度実に心臓に悪い。


 この忍に対し抱いてしまった自らの感情を自覚してからは余計にだ。

「ど……どうした?」

 そう尋ねてみてから、風魔が腕に抱き抱えているものに気づいた。

「――ね、猫?」

 一体どこで拾って来たのか、まるまる太った斑模様の猫が風魔の逞しい腕の中で、気持ち良さそうに目を細め喉を鳴らした。

 なるほど四十雀が逃げたのは猫が来たからか……と思い至る。

 風魔は官兵衛をじっと見つめながら、猫の腹の辺りを両手で持って、つ、と官兵衛に向かって差し出してきた。

「え? あ……そういうことか」

 ようやく理解する。

 鳥に慣れたら次は獣……まずは猫から慣れてみろ、とそう言いたいのに違いない。

 確かに鋭い爪で引っ掛かれたり、晩飯の魚を盗られたり、猫にも大分ひどい目には遭わされてきた。

 正直、鳥より苦手だが――このまま後ずさってもどうせ許しては貰えないだろう。

「わかったよ……」

 恐々と枷のついた両手を差し伸べながら、ふと思う。


 この手に小さな翼を遊ばせ、この腕に小さな温もりを抱いて、その次は何だろう――?

 ――どこまで行けばこの体全てで、最も愛しい存在を受け止めることが許されるのだろうか――。






《終》

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