外待雨の谷間にて | ナノ


外街雨の谷間にて



 その女、黒田官兵衛の寝姿と、目覚めた後に見せた私の知らない顔――白昼夢のような光景はあれから幾度となくこの脳裏に陽炎のように揺らめいて蘇生し、私の眠りを乱してきた。

 何故よりによってこの女なのか、その理由すらも曖昧なまま、邪な呪縛のようにそれは私を捕えたまま、解放しようとはしないのだ。

 そうして今、私の前にまた新たな試練が――。



   ♀ ♀ ♀



 しっとりと湿った布が肌にまとわりつくのが堪らなく不快だった。

 舌打ちながら尽きず注ぐ雨をただ睨み、されど鈍色の空を幾ら睨んだところで、忌々しいそれは一向に降り止む気配を見せない。


「なあ、そんなところに立ってると寒くないか?」

 背中にかけられた暢気な声に、私は無言のまま拳を固めた。

 何故そんなに平然と構えている。この女は……今がどういう状況かわかっているのか。

 日を跨がずに戻れる簡単なお役目の筈だった。
 私がついてさえいれば他に供など必要ないと、秀吉様に胸を張ってお答えしたその結果が……まさかこんな事態を呼ぶとは……。

「お前さん――着物、脱いだほうがよくないか?」

「っ!? 唐突になんだ!! な、なぜ脱ぐ必要がある……!?」

 思わず弾かれたように振り返った。

「なぜ、って……濡れたの着てるほうが体が冷えるだろう?」

 何をさも当たり前のような顔で……年頃の男に向かって、着物を脱げなどと……。

 ましてやこのような、鼠や鼬しか寄り付かぬようなあばら屋で……。

「脱がないのか?」

「当たり前だ……ッ!!」

 やはりこの女には恥じらいも慎みもあったものじゃない……。


 この荒天が鎮まるまで、私はこれと二人きりで時を過ごさねばならないのか……?

 二人だけで一夜を明かさねばならないかもしれないというのか……。

「やれやれ……日没前には頼まれた書状を持って大坂に帰り着く予定だったんだが、こんなところで足止め食って雨宿りとはな……。なんで小生はいつもこうなるんじゃ……?」

 官兵衛は溜め息混じりにぶつぶつと愚痴をこぼしながら、火を起こした炉端に座り込んで髪を布で拭いている。

 奴は書状を濡らさないよう庇いながらここまで走ったせいで、頭から背中にかけてぐっしょり濡れそぼっていた。

――この女……よもや、己も着物を脱ごうなどと血迷った考えているのではないだろうな……?

 がさつな官兵衛のことだ、私が見ていようとお構い無しに帯を緩めかねない。

 ふと頭を過った予感に心の臓がびくりと跳ねたその拍子、

「へくしゅっ!!」

 官兵衛が大きなくしゃみをした。女らしさの欠片もないそれに眉を潜めたが、よくよく見れば火に照らされた奴の顔や手が常より随分青ざめていように感じられた。

 体が冷えているのか?

 今しがた私に着物を脱がないのか、と聞いたのも自らが濡れた着物に身を冷やされていたからなのかもしれない。

 女人は体を冷やし易い、とどこかで耳にしたような気もするが……。

 私はしばし瞑目し、様々な思考を巡らせた後にこう切り出した。

「……官兵衛……着物を、脱げ」

 髪を拭く手がぴたりと止まった。

「え?」

 間抜け面を晒す官兵衛に背中を向け、再び格子の外を眺める。

「――着物を脱いでとっとと火で乾かせ……それまで私は振り向かない」

「佐吉……」

 私の名をぽつりと呟いた官兵衛が、どんな顔をしているのか見たいと何故か思った。

 だが、私は奴を振り返らないと決めたのだ。

「……早くしろ」

「あ……ああ……」

 やがて聞こえ始めた衣擦れの音が、戸惑いを含んだ曖昧な返事をしながらも、奴が私の言葉に従っていることを知らせる。

 私の後ろで、官兵衛が肌を晒している――余計な想像が勝手に頭の中に浮かび上がりそうになるのを必死に堪えた。

 まただ――私は、この女のことを思うと、おかしくなってしまう。

 邪な感情が私を呑もうとする……。

 乱れる拍動が、渦を巻く思考が、目眩すら呼び起こす。

「佐吉……」

 躊躇いがちに私の名を呼ぶ声。そして。

「……ありがとう、な?」

 ただの礼の言葉だ……それだけのものが、私の胸の内を甘く融かす。

「――最近少し避けられてるような気がして、お前さんに嫌われたのかと思ってたんだが……まさかこんなふうに気遣って貰えるとはな」

「……」

 確かに避けていた。顔を見る度、声を聞く度に未知の感覚に飲み込まれていく己が恐ろしかった。

 雄が雌を求める――そんな獣じみた衝動など、私には無縁なものだと信じていたのに。

 黒田官兵衛という女が、私の中に眠る雄を揺さぶる……目覚めさせようとする。

 その覚醒は私が人間として、男として成熟する為には絶対に必要なものなのだと半兵衛様は仰っていた。

――それはつまり……黒田官兵衛は、私にとって絶対に、必要な……?

 とりとめなく展開する思考を打ち破るように、背後で声が上がった。

「うわッ……熱いッ!!?」

 悲鳴と呼んで然るべきその声に驚き、私は思わず――。

「っ、どうしたッ!?」


 振り返ってしまった。


「……あ……」


 私を取り巻くすべてが、白くなった。



   ♀ ♀ ♀



 白に呑まれた意識が舞い戻った時、最初に感じたものは柔らかさと温かさだった。

「ん……」

 髪を撫でられる心地好い感覚に身を捩ると、すぐそばで抑えた笑い声が聞こえた。

「……何が、おかしい……?」

 問いかけながら瞼を持ち上げ、やがて自らの置かれている状況に気が付き愕然とした。

「な……な……」


 驚愕に目を見開く私を、苦笑した官兵衛が見下ろしている。

「やっと気が付いたか?」

 ――私は知らぬ間に官兵衛の膝を枕にして、眠っていたのだった。

 なぜどうしてこんなことになったのか――意識が途絶える前後の記憶がない。

 飛び起きようとしたが、先程から髪に触れている手をむげに振りほどくことに何故か抵抗を覚えた。

 髪も着物もすっかり乾いた様子の官兵衛は、体が暖まったのか先程よりも顔色が良くなったように見えた。

「雨は上がったが、すっかり日が落ちちまった――」

「ここで夜を明かすのか……?」

「すまんな、小生はこの通り運がないんだよ……」

 運がない――雨に道を阻まれ、夜に引き留められ、それは確かに不運な出来事だろう。しかし紡ぐ言の葉ほどは滅入っているようには見えなかった。

 むしろ嬉しそうにすら見えるのは何故だ……?

「なあ佐吉……気を悪くしないで欲しいんだが……」

「? 気を悪くするかどうかは話の内容による」

「まあ、確かにその通りだが……」

 何か言いたいことがあるなら下らない前置きなどせずに簡潔に語ればいいものを。

 そんな私の非難を受けて官兵衛はまた苦笑を浮かべ、ようやく話を切り出す。

「実は小生が秀吉に頼んだんだ――佐吉と二人で話をしたいから、何か適当な用事を言い付けてくれないかってな」

「なん……だと?」

 予想もしていなかった事実に私はそれ以上の言葉を失った。

「理由はさっき話した通りだ、お前さんに、近頃避けられている気がしたから――」

 私の髪を馴れ馴れしく撫でていた手がすっと離れ、自らの右目を前髪の上から覆った。

「――この間、顔の痣のことで取り乱しちまっただろう? やっぱりあれがだめだったのか……?」

 顔の痣――そう言われたことであの日のことが思い出され、連鎖的に引き出される記憶に動揺した私は思わず視線を逃がした。

「やっぱりそうなんだな……」

 官兵衛が嘆息する。

「自分でも情けないとは思ってるさ。軍師として豊臣に仕官した時から、女なんざ捨てているつもりなんだが――時々ああして、出ちまうんだよな。それがお前さんの気に障ったなら悪かった」

「……」

 官兵衛は私の態度から、その理由についておよそ的外れな推測をしていたらしい。

 貴様は本当にそれで軍師が勤まっているのかと問い詰めたい衝動に駆られた。

 だがあるいは、本来の私であれば官兵衛が言うように“気に障った”のかもしれない。

 だが現実の私はただ動揺し、ただ悩まされ――ただ……心を、惹かれたのだ。

 黒田官兵衛の女としての顔を私は……好ましく感じてしまった。

「官兵衛……」

「ん? なんだ?」

「……私は別に、貴様が女を捨てきれていないことなど気にしていない……」

「そう、なのか?」

「女が女を捨てると言うなら、それは己を偽ることだ――偽りなど必要ない」

 そう告げながら、同時に自らの苦悩にも一つの答えが結びつけられた。

 私が内なる「男」を否定しようとすることもまた、己を偽ることになるのではないか……と。

 偽ろうとするから、いつまでもこの心は落ち着かないのか。

 ならば――。

 私は手を伸べ、じっと覗き込む官兵衛の顔に、そっと指で触れてみる。

 この女に、もっと触れてみたいという衝動に正直に従いながら。

「私は、貴様が女でも、構わない……だから、私の前では偽るな」

 そしていつか……今すぐでなくても構わないから、ここにある偽らざる「男」を貴様が「女」として受け止めてくれるならば、私は――。

 そんな願いを思い描けば、心地好い胸の高鳴りを覚える。

 これが、「恋慕」というものなのか……?

「佐吉……」

 私の名を紡ぐ官兵衛の顔に、いつか見たのと同じはにかんだ笑みが――女らしい、柔らかな表情が浮かんだ。

「……お前さん、いつの間にか随分男前になったな――」



   ♀ ♀ ♀



「官兵衛……これはどういうことだ!?」

「いや、だから着物を乾かす時にうっかり……ちょっとやっちまって」

 射し込む朝の光があばら屋を明るく照らし出した時、私が目の当たりにしたものは半分黒く焦げた書状だった。

 元は私との時間を作る為だったとはいえ、遣い自体は本当に秀吉様から任されたものなのだ――それをこの女……ッ。

「……秀吉にどう言い訳すりゃ許して貰えると思う?」

「言い訳など私が許可しない……!!」

「まあそう言うなよ」

 昨夜のしおらしい態度はどこに言ったのかと思うほどふてぶてしい態度で、奴はニヤニヤ笑う。

「――口裏を合わせてくれるなら、お前さんが約束を違えたことは水に流してやってもいいんだがな」

「私が、約束を違えただと……? 何の話だ」

 身に覚えのない言い掛かりにますます苛立つ私を見つめたまま、官兵衛は突然笑みを打ち消し、ぽつりと告げた。

「……振り向かない、って言ったじゃないか」

「え……?」

 昨夜指先で触れたその頬に、ほんのりと朱が差すのを目の当たりにする内に、一旦は忘却を選んだ筈の記憶が紐解かれていった。



 しばらくの後、雨上がりの晴れ渡った空の下、私の絶叫が高く響き渡った――。






《終》

戻る
Topへ戻る
- ナノ -