そのうち大人に成る君と | ナノ


そのうち大人に成る君と




――ワシと、共に来てくれ。


 家康は、ただそう告げる為に九州は石垣原に来た。

 いずれこの地に西軍が侵攻を開始する前にあの男を――黒田官兵衛を連れ出さなくてはいけない。

 反抗の死か恭順の生か――どちらに転んだとしても、もうこの手が届かないところへ行ってしまう。

 だからその前に、迎えに来た。

 九州へ行く、と言った時からどことなく落ち着かない雰囲気だった忠勝に、家康が「久々に島津殿と手合わせをしてきてはどうだ?」と促すと、最初は主の側を離れるのを躊躇う素振りを見せていたが、何度か背中を押してやると、最終的には飛行形態ですっ飛んで行った。

 はしゃいで、あまり無理し過ぎなければいいが――と笑いながら見送り、自らは官兵衛の住み処である坑道へと歩みを進める。

 長く顔を見ていないが、果たして官兵衛は息災にしているのだろうか。
 身も心も逞しい男ではあるが、劣悪な環境や過酷な労働に蝕まれてはいないかと不安を覚える。不安にならないわけはない。

 ……秘めた想いを寄せる相手を心配せずにいられるわけがない。

 早く顔を見て安心したい。
 そう思うと自然に足取りが早くなった。

 深い坑道の入り口から半ば飛び降りるようにして、主の元へ。

 だが――その時。

「……!?」

 何か鋭い気配を感じ、咄嗟に身を屈めた。

 直後、頭上を矢のような速さで飛んで飛んできた無数の石つぶてが岩壁にぶつかり、転がった。

「これは……」

 石が飛んできた方向を確かめようとした刹那、今度は縄で括られて振り子状に吊るされた丸太が、勢いをつけてこちらに迫ってきた。

「っ!」

 家康は地を蹴り跳ぶと、向かってくる丸太を拳で勢いよく弾き返した。

「――うわっ、あぶねッ!!」

 飛んでいく丸太の向こうから子どもの声がした。

「ちくしょー、よくもおれさまじるしの罠を……!」

 轟音を響かせ、丸太が壁に突き刺さり、バラバラと砕けた岩の破片が転がり、土煙が舞い上がった。

 煙る視界の先に、声の主を見付けた。

「お前は……」

 意志の強そうな、輝く目を持つ少年――遠い昔にどこかでまみえたような覚えがあったが、今一つ思い出せなかった。

 思わず無言で凝視してしまったらしく、少年は少し戸惑ったように「な、なんだよ」と家康を睨んできた。

 はたと我に返り、衣を軽く叩いて埃を払いながら、ゆっくり少年に歩み寄った。

「ここに罠を仕掛けたのはお前なのか?」

「そうだ!すっげーだろ!」

「確かにすごいが、遊びにしては少し過激過ぎはしないか? ただでもここは子どもの遊び場としては危険過ぎるように思うが」

 いつ天井や壁が崩落するかわからない坑道の中で、今のような騒ぎを繰り返していては何が起きても不思議ではない。

「あそびに来てんじゃねーって、おっちゃんとこにべんきょうしに来てんだよ、べんきょう」

「勉強?」

「そうだ!けど、おっちゃんのしごとが終わるまでひまだから、罠つくってあそんでたんだぜ」

 なんだ結局遊んでいたのか――と苦笑しながら、懐かしい記憶に思いが巡る。

 そういえば豊臣にいた頃、良く書物を抱えて官兵衛の部屋を訪ねたものだった。

 仕事が残っているから後でな――と言われて待たされる時もあったが、そんな時はそわそわして手持ち無沙汰で、どうしていいかわからないような気持ちになった。

 待つことは苦手では無かった筈なのに、官兵衛と過ごす時間だけは、どうにも待っていられない――そのくらい楽しみにしていたものだ。

「おっちゃん、というのは官兵衛のことだな?」

 少年のすぐ目の前まで歩み寄ると、自分より上背のある相手にも一歩も引かないような勝ち気な顔で見上げてくる。

――覚えがあって当然だった。

――まるで昔のワシを見ているようじゃないか。

「お前の気持ちはなんとなく理解出来る――だがやはり、ここに罠を仕掛けるのはよくない」

「えー、なんでだよ?」

「考えてもみろ、こんなものを仕掛けて、確実に一番被害に遭うのは誰だと思う?」

「ん〜〜?……あ、やべ」

 少し考えてようやく思い立ち、まずいことをしたと気付いた様子の少年に、残りの罠を撤去するように勧めようとしたちょうどその時。


「なあぁぜえぇじゃあぁぁぁぁ……ッッ!!」


 坑道の奥から響いて来た断末魔のような悲鳴と、少し遅れてやってきた震動に、手遅れだったことを悟った。



   *  *  *



 穴の淵から覗き込むと、哀れな犠牲者は鉄球に座り込んだ格好で、恨めしげに見上げて来た。

「武蔵……小生の通り道に落とし穴を仕掛けるなと何度言ったら解るんだ!?」

「おっちゃんこそ、いいかげん自力でのぼってくる方法とかかんがえときゃいいじゃん」

 武蔵と呼ばれた少年は悪びれもしない様子でせっせと縄梯子を運んできて、慣れた手付きで杭で固定し、穴の中に下ろした。

「まったく世話がやけるよなー、おっちゃんはさー」

「……やれやれ、口の減らないこった……そりゃッ!!」

 気合いの掛け声と共に、落とし穴の底の官兵衛は鉄球を力いっぱい振り上げ、ドスンと音を立ててそれを先に外に出すと、不自由な手で器用に縄梯子を掴み、一気に上ってきた。

 こちらも相当手慣れている様子だ。日常的に繰り返されている流れなのだろう。

「後でちゃんと埋めておけよ?」

「わかってる、わかってる!それより早くおれさまのべんきょう見てくれよ、べんきょう!」

「お前さん、最初だけはやる気だよな……すぐに飽きたの疲れたのと言うくせに」

 まるで父子・兄弟のような官兵衛と武蔵のやりとりは、家康にはやはり懐かしいものに見えた。

 思わず黙って見入ってしまい声をかけそびれていると、

「――で、権現。お前さんは何しに来た?」

 そう言って官兵衛のほうから訝しげに声を掛けてきた。

 ここへ来た理由はたった一つ……官兵衛を東軍へ誘うためだ。

 だが。

 官兵衛の傍らで、じっとこちらを見ている少年の懐かしい瞳が、それを躊躇わせた。

「――近くまで来たから、少し顔を見に来たんだ」

 当たり障りのない言葉が口をつくと、官兵衛はまるでこちらの真意を探ろうとするようにしばらく黙り、それから肩を竦めた。

「――ま、なんだっていいが、手ぶらとは気がきかんな。土産くらい用意して来りゃいいものを」

 官兵衛の慧眼は恐らく、思い付きの偽りなど一瞬で見抜いているのだろう。
 ――本当はどんな用事でここへ来たのかも、気付いているかもしれない。

 見抜いていて、気付いていて、あえて知らぬ振りをしている――そう感じられた。



   *  *  *



 ――それから半刻ほどの後。

 なぜか家康は、ほこほこと白く沸き立つ湯に肩までどっぷり浸かっていた。

 すぐ側でぱしゃぱしゃ水飛沫が上がる。武蔵の仕業だった。

「おらおらッ、見やがれ、これがおれさまのさいきょう泳法だーー!」

「風呂で泳ぐなって言ってるだろうが……ったく」

 鎖と鉄球を湯の外に逃がして浸からないようにしながら、官兵衛もまた同じ湯に身を沈め、岩造りの縁に身を預けている。

「どうだ権現、穴蔵の中にこんなに立派な温泉場があるとは意外だったろう?」

「ああ……驚いた」

「この間、角土竜が暴走した時にたまたま湯脈を見つけてな――また変なとこで運を使っちまったよ」

 溜め息まじりにぼやく様に、思わず苦笑する。
 たまの幸運くらい素直に喜べばいいと思うのだが、そんなところも官兵衛らしい。

 落とし穴に落ちて汚れちまったから一っ風呂浴びたいんだが、お前さんもどうだ? ――と、突然誘われた時にはどういうことかと思ったが、成る程これはよい湯だ。

 官兵衛は坑道での過酷な生活の中から自分なりの楽しみを見出だし、活き活きと暮らしているのだということを思い知る。

 見たところ坑夫たちも官兵衛を頼り、慕っているようだ。

――この地を離れ、ついて来てくれ……などというのは傲慢なのだろうか。

「――なー、おっちゃん」

 泳ぐことをたしなめられ、しばし広い湯船に仰向けでぷかぷか浮かんでいた武蔵が、不意に口を開いた。

「おれさまのぼせてきたぜ……先に上がってもいいかー?」

「肩まで沈んで十数えたらな」

「――いーち、にぃの、とぉうッ!!お先〜!」

「な、こら待て……!」

 官兵衛の制止など気にも留めず、武蔵は素っ裸でざばんと湯船から飛び上がり、けたけた笑いながら駆けて行ってしまった。

 官兵衛は、しょうがない奴だ、と軽く嘆息すると、家康を見遣り小さく笑んだ。

「お前さんもちょっと前まではあんなんだったよな」

「――ワシもさっきからずっとそう思っていた」

 実際、豊臣にいた頃にはこんなふうに風呂を共にしたこともあった。
 他愛ない話をしながら、まるで自分とは別の生き物のような官兵衛の立派な体躯を眺め、いつかあんなふうになりたいと思ったものだった。

 官兵衛に対する気持ちが別のものに変化した今となっては、そうまじまじと見つめるわけにもいかなかったが。

 むしろ邪な衝動を覚えないように、意識して官兵衛の顔だけを見るように努める必要があった。

「確かにあんなだった――筈なんだが……」

 何時からこんなにも変わってしまったのか。
 今更のように自分の変化に戸惑いを覚え、目を伏せた。


「――あいつは……武蔵はまだまだ大人になんぞならんだろうと思ったんだが、そうでもないらしい」

「どういうことだ?」

 思わず伏せていた目を上げる。

「恐らくだが、あいつなりに気を遣って先に上がったんだと思うぞ――本当はお前さんが何か、小生に大切な話をしにきたんじゃないか、ってな」

「あ……」

 無邪気で自由で傍若無人な子どもは、人との交わりの中で、少しずつ学び取っていく。

 他人を思い遣る術を。

「――子どもは、あっという間に大人になっちまうな……嬉しくもあり寂しくもありだ――とうに大人の小生は、ただ老いるばかりだってのに」

「官兵衛……お前は」

 まだ少しも老いてなどいない、体も心も頭も目も昔と何も変わっていないだろう、と――そう言おうとしたが、遮るように官兵衛が言を接ぐ。

「――解るか? どんどん老いるんだ。小生もお前さんも――だから、伝えたい言葉があるなら、あまり先伸ばしにはせんでくれよ……権現」

 囁かれた呼び名に微かに甘い響きが込められているように感じられ、鼓動が跳ねた。

 やはり官兵衛は何もかも見通している。見通した上で、言葉にするのを待っているのだ――。

「……逆上せ上がりそうだ」

「……ならお前さんも十数えるか?」

「ああ……だが数える前に、言わせてくれないか?」

 爪先から頭のてっぺんまでじんじんと火照りながら、言葉を紡ぎ出す。

「――ワシと、共に来てくれ」

 ずっと伝えたかった十文字の言葉を。

 官兵衛は、湯気で湿った前髪の隙間から覗く切れ長の目を微かに細めた。

「――権現……」

 艶めいた表情と声音に息を呑んだ。

「――官兵衛……!」

 堪らず、手を伸ばしかけたその時――。


「――ちくしょーッ、やっぱりひとりつまんねー、おれさまもなかまに入れやがれぇぇぇッ!!」


 転がるように駆け戻って来た武蔵が、ばっしゃんと豪快な音を立てて、湯の中に飛び込んできた。

「っ……」

 家康はまるで悪戯が見つかった子どものように慌てて手を引っ込め、首まで湯に沈み込みながら、ちらりと官兵衛を見やった。

 官兵衛はその視線に応えるようにふっと笑み、口を開いた。

「――ご覧の通りのコブ付きだが……構わんか?」



   *  *  *



 最高にいい気分で湯から上がってみれば、一勝負終えてすっきりした様子の忠勝と上機嫌の島津が待っていた。

 揃って保護者がお迎えに来るとは、お前さんらも意外に大差ないよな――と、官兵衛はとても愉快そうに呟いた。






《終》



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