断崖絶壁





















1990年も後半に入り、私はイタリアへと旅行する機会を得た。
夏の終わり、少し遅い夏季休暇として一週間強のバカンスだ。

日本人観光客らしく、首にはカメラを下げて観光地を巡ってみた。
ローマに泊まるのも悪くなかったが、街の喧騒から離れたアマルフィの海岸沿いのホテルに宿泊していた。
噂どおり、海産物は常に新鮮で美味しく、誰一人として私の素性を知らない平穏な旅に満足していた四日目に私は謎の男性と出会った。


美しい水平線を臨むホテルのバルコニー。
暖かな地中海の夜風に、私はアルコールに浸かった自分の体を醒ましていた。
ふと、隣に佇む男を見やるとその眼は海ではなく真下の絶壁へと向けられている。
変な男だ、と口の中で呟くと相手と目が合った。
思わず眼を伏せ、無かったことにしようと目論むも、挨拶をするのもおかしいかと思い直し顔を上げると相手の嘗め回すような視線に自分が晒されている事に気がついた。
落ち着かず、とうとう自分から声を掛ける。

現地人だろうか、夜分の挨拶を投げると相手の唇から出たのは流暢なイタリア語だったが挨拶の言葉ではない。殆ど聞き取れなかったが、短い文章の中で彼は海についての見解を述べているようだった。
こちらの言葉は喋れない、と告げて最大限悲しげな表情を(自分でも馬鹿馬鹿しい程大袈裟に)してみると、予想外に相手は楽しそうな顔をしていた。

“Time to say goodbye.”
低くも無く、高くも無い言葉で相手が呟くとその姿は闇夜に紛れてしまった。
何処に、と思い探すも隠れられる場所等ここには無かった。

眼下に広がる絶壁、そして、海。
まさかそんな、声に出して覗き込むも船などは無く、私は一人立ち尽くした。
今のは夢だったのだろうか?思い出そうとするも相手のスーツの色さえ解らない。
山羊のように金に光る両の瞳だけが印象深い。

ホテルのラウンジに戻り、飲み直しながら考える。
彼は何を呟いていたのか。
その時、背後のピアノが優しく鳴り、歌姫が舞台に登場した。
イタリアの夜を彩るその歌の中に答えは有った。


もうどこにも無い海を、彼の男は探しているのだろうか。





















2016/01/01
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