春霞の向こう
生徒たちが練習に励んでいる間、休憩を貰って自分は一人談話室へと向かっていた。
冬の寒空は今にも雪を降らせそうで、そんな中懸命に努力する生徒たちを眼を細めて見つめる。
隣の食堂から晩御飯の支度をする懐かしい香りが漂ってくる。
新聞を片手に、椅子に深く座り込むと暫し物思いに耽った。
「あの、榊先生…どうぞ。」
鈴を鳴らすような声が聞こえ、ゆっくりと瞼を開けるとテーブルに置かれたコーヒーカップが眼に入る。
顔を上げると、目の前に居たのは青学から「お手伝い」としてやってきた一年生の女子だった。
「ありがとう…、君は、」
名前を失念していた、と眉を寄せ相手に問いかける。彼女の恐る恐るといった表情は逆に私の心を解した。
「竜崎です。竜崎桜乃。」
綺麗に纏まった三つ編みを軽く揺らして彼女が答える。青学の名監督、竜崎スミレの孫らしい。
「竜崎、か。有難う…晩御飯の支度をしてくれていたのか?」
「はい…、リョーマ君、ッじゃなくて…テニス部の皆さんに、合宿に集中してもらえるならと思って。」
本心を隠しきれて居ない表情が初々しく、思わず笑みを零すと相手が眼を丸くするのが見えた。
一瞬にして場の空気が和む。そうか、私が彼女を緊張させていたのか。
「いつも美味しい晩御飯を食べられるのは、君たちの頑張りのお陰も有るのだな。感謝するよ。」
「あっ、ありがとうございます…」
戸惑いが僅かに残った表情で、しかし彼女は微笑んでくれた。
まるで小さな山桜のような笑みに心が潤うのを感じた。
「(竜崎先生、あなたのお孫さんとは思えませんよ。)」
コーヒーを一口飲むと、仄かな甘さが優しく、彼女の気遣いが暖かかった。
彼女の残していった春の香りに眼を閉じる。
日が暮れ、冷え込みが厳しくなった。窓の外では静かに雪が降っている。
いつか来る春に、満開の桜を咲かす日を静かに心待ちにした。
2016/01/01